第二十四章 千年の知恵と、野戦築城
翌朝、蘇然は早くに目を覚まし、天井の木目をじっと見つめながら興奮を抑えきれずにいた。
「城門令」——秀の話によれば、二千人以上の兵を率いる官職らしい。陳家の私兵も合わせれば、およそ三千人の軍勢だ。
ゲームの中の「3000」という数字とはワケが違う。彼らは生きた人間であり、それぞれの考えや思惑を持っているのだ。
軍隊において最も重要なのは「令行禁止(命令に絶対服従すること)」。だが、新参者の自分が突如トップに立って、あの血気盛んな兵士たちが素直に従ってくれるだろうか? 一体どう仕切ればいいんだ……?
思案に暮れていると、小さな温かい手が伸びてきて、蘇然の頬を優しく撫でた。
胸の奥がじんわりと温かくなる。左腕で身を寄せる美姫をしっかりと抱き寄せ、ふと見下ろした瞬間、蘇然の視線は吸い付けられたように動かなくなった。
「夫君……まだ黄巾軍が徐州に攻めてくることをご心配なさっているのですか?」
秀は物憂げに身をすり寄せ、より心地よい体勢で蘇然の胸に収まった。
「あ……ああ、そうなんだよ。」
蘇然の視線は、秀の薄い下着の生地を透かさんばかりに注がれていた。
「もう! 妾身は真面目なお話をしておりますのに!」
秀がサッと掛け布団を引き上げると、蘇然はあからさまに落胆した顔を見せた。
「もう……ふふっ」
秀はくすりと笑うと、蘇然の手を握り、指先で彼の胸をぽんぽんと叩き、続けて自分を指さした。
「どんな時が来ようとも、妾身はいつだって夫君の傍におりますわ……」
これほどの妻に恵まれて、男としてこれ以上の幸せがあろうか!
蘇然は深く息を吐き出すと、少し不安げに口を開いた。
「秀、実は本気で緊張してるんだ。俺はこれまで一度だって大勢の人間を指揮して戦ったことなんてない。どうすればいいんだ……?」
「妾身は、夫君にそれだけの才能がおありだと信じておりますわ。夫君ご自身も、もっと自信をお持ちになってくださいませ!」
(そう言われたって、急に自信なんて湧いてくるわけないだろ……)蘇然は白黒目をあべこべにして溜息をついた。
その様子を見た秀は、言葉だけではダメだと察し、起き上がると蘇然の頬を両手で挟み込んだ。
「夫君! 徐州城に暮らす千万人もの無垢な民のため、そして妾身のためにも……どうか気力を振り絞り、黄巾軍を徐州の門前で食い止めてくださいませ!」
その言葉に、蘇然の胸の中に突如として熱い豪気が突き上げてきた。
(そうだ……俺には千年分の歴史と現代の知恵がある。知識の差で奴らを返り討ちにしてやる!)
覚悟を決めた蘇然を見て、秀は安堵の笑みを浮かべた。
「すっかり夜が明けましたわ。夫君、そろそろ起きましょうか……」
「えっ? もう起きるの?」蘇然はニヤニヤしながら甘えた。「外はこんなに寒いんだよ? 元龍が来るのは正午だし、もう少しこうして寝てようよ……」
子供のように秀を抱きかかえて離そうとしない。
秀は苦笑しながらも、彼に抱きすくめられたまま温もりを分け合った。外の寒風など吹き飛ばすほど、部屋の中には甘い春意が満ちていた。
正午、陳登が姿を現した。席に着くなり、浮かない顔で切り出す。
「私はどうにも解せぬのです……」
「何が解せないんだ?」
蘇然は起き上がったばかりで、先ほどまで腕の中にあった秀の柔らかい感触をまだ頭の中で反芻していた。
「古来より、冬場は休戦期とするのが理でございます。それなのに、なぜあの黄巾の賊どもは偏にこの厳冬に挙兵し、遠く離れた徐州にまで侵攻してくるのでしょうか?」
「挙兵したのは張角の謀反計画が漏れて追いつめられたからだろ。で、なんで徐州に向かってくるかと言えば……」
蘇然はジト目で陳登を見つめた。(史実にも演義にもない展開を俺に聞くなよ! 知るわけないだろ!)
「もしや……」陳登はニヤリと意味深な笑みを浮かべた。「張角の奴め、我が先生が類まれなる大才であると聞きつけ、先生を連れ去ろうと企んでいるのでは……?」
「バカ言え!」
蘇然は笑って一蹴すると、秀が淹れてくれた温かい茶を受け取った。陳登も立ち上がり、秀へ恭しく頭を下げて感謝を示した。
「奴らが何の目的で来ようが関係ない……俺たちには、守るべき徐州の民がいる。ただそれだけだ!」
「先生のおっしゃる通りです!」陳登は一気に襟を正し、敬意を深めた。
蘇然の家で簡素な昼食を済ませた後、陳登の案内で二人は徐州の東門へと向かった。
道中、陳登の心は弾んでいた。先生が家に招いて食事を振る舞ってくださり、師母も同じ食卓に座られた。これは即ち、自分が真の「入室弟子」として認められた証ではないか!
(……勝った!)と、陳登は密かに興奮していた。
東門の城楼へ足を踏み入れた蘇然は、門の外を見渡した。東門の外側には遮るもののない広大な空き地が広がっている。
その光景を目にした瞬間、蘇然の胸に違和感が走った。
城の外には幅七〜八メートルほどの外堀があるとはいえ、万が一、黄巾軍が土砂を投げ込んで堀を埋めて渡ってきたらどうする?
「万が一」があってはならないのだ。
それに、あれほど平坦で広大な空き地は、敵にとって陣形を整えるのにうってつけの場所ではないか!
「元龍……」蘇然は城外の空き地を指さした。「黄巾の賊どもが到着するまで、あと何日くらいある? もし俺が、あそこに『仕掛け』を作るとしたら間に合うか?」
「学生の見たところ、まだ数日は猶予がございます。……して先生、一体あそこに何を仕掛けられるおつもりで?」
陳登の鼓動が速くなった。ついに先生が秘蔵の『真の兵法』を繰り出すのか? 何らかの古代陣法でも敷くのだろうか!?
「こっちに来い」
蘇然は陳登を端へ呼ぶと、紙の上に素早く図面を描き始めた。
「これは……?」陳登は首をかしげた。見たこともない妙な図である。
「これは『塹壕』だ。深さは大人の背丈ほど、幅も一人分ほど掘る。」
「……穴を掘って、何の役に立つので?」陳登は少々拍子抜けした。
「鈍いな!」蘇然は不満げに言った。「うちの兵士がこの塹壕の中に隠れれば、こっちは一方的に敵を射抜けるだろう? 敵の矢は深穴の中にいる俺たちには当たらない!」
「なるほど……! では、こちらの建物のようなものは?」陳登の目が変わり、図の中の小さな小屋のような建造物を指さした。
「これは『碉堡(頑丈な陣地)』だ。この中に隠れて、兵士たちが弓弩を射ち出す……。」
「おお……!」
陳登の目が一気に輝き出した。頭の中でその防衛戦術をシミュレーションした瞬間、蘇然を見る目が尊敬の眼差しへと変わった。
「で、では……この網のようなものは何ですか!?」
「これは……」蘇然は少し気まずそうに言った。「『有刺鉄線』だ。杭を打ち込んで鉄線を張り巡らせ、越えようとする敵を上から射ち倒す。……まあ、この時代に細い鉄線を用意するのは難しいがな。」
「確かに……」陳登は思案し、尋ねた。「先生の構想はすべて『敵の侵攻を遅らせ、遠距離から討つ』ためのもの。鉄線の代わりに『鹿角』や『拒馬』を密に配置して代用してはかがでしょう?」
「鹿角と拒馬か……」蘇然は少し考え、頷いた。「悪くない。ただ、奴らが火攻めをしてくるのが怖いな。……そうだ! 拒馬と鹿角の上に泥水をかけまくれ。冬の寒さで氷漬けにすれば、火をつけられても燃えにくくなる!」
「妙案にてございます!!」
感服した陳登は、弾かれたように城楼を駆け下りて行った。
周囲に人がいなくなったのを見計らい、秀がそっと歩み寄って蘇然の手を握った。自分と蘇然を交互に指さし、可憐に微笑む。
「見てな、秀。俺がどうやって黄巾軍をこの門の前で追い返すか!」蘇然の胸に強い自信が満ち溢れていた。
「妾身はいつでも、夫君を信じて応援しておりますわ……」
その後、陳登は蘇然の指揮のもと、徐州の精鋭二千と陳家の私兵千人を動員して大規模な「野戦築城工事」を開始した。
東門の前に何条もの塹壕が掘られ、氷で固められた鹿角や拒馬が整然と配置されていく。さらに陳登は、蘇然の意図(遠距離攻撃による殲滅)を正確に汲み取り、大量の弓矢と弩箭の製造を突貫で命じた。
兵士や私兵たちは「なぜ城の外に穴を掘らされるのか」と首をかしげていたが、陳登の絶対的な命令に従い、黙々と作業を進めた。
夕刻になる頃には、東門の外側に異様なまでの防御陣地が姿を現しつつあった。城楼からその光景を見下ろした陳登は、熱い溜息をつき、蘇然が描いた図面を大切に折り畳んで懐へと仕舞い込んだ。
城楼を降りる際、冷たい夕風に吹かれた陳登はハッと正気に戻った。
(東門の防衛は先生のおかげで盤石となった……だが、他の三つの城門はどうだ……?)
他の門を守る者たちにも、この防衛術を伝えるべきだろうか?
陳登は立ち止まり、思案した。糜竺兄なら話を聞いてくれるだろうが、あの曹豹という男は威張るばかりで人の忠告など耳に貸さないはずだ。
(……やれるだけのことはやるか。)
陳登は小さく溜息をつくと、日が暮れる前に糜家の屋敷へと向かって歩き出した。




