第二十章 名士の器と、予期せぬ遭遇
「子仲兄……」
陳登が客間へ歩み入ったとき、糜竺はちょうど陳家の使用人が差し出した淹れたての熱い茶を受け取ったところであった。
糜竺はその使用人へ会釈して感謝の意を示すと、茶碗を傍らの茶卓に置き、ゆっくりと立ち上がった。その顔には親しみやすい笑みが満ちている。
「元龍殿、押し掛けた無礼をお許しくだされ」
「滅相もございません」
陳登は糜竺に着席を促すと、使用人が再びお茶を運んできた。陳登もまた、微笑みながらその使用人に頷いて見せた。
使用人はどこか感激した様子で下がり、去っていった。
糜竺は深い意味を込めて陳登を一瞥し、心の中でひそかに不審がった。
(元龍はかねてより気位が高く、こういった下作の者を深く見下していたはず。それが今日の振る舞いは一体どうしたことだ……実に……腑に落ちぬ)
糜竺がお茶を一口すするのを見て、陳登は微笑みを浮かべて切り出した。
「子仲兄がわざわざ直々に足をお運びになったということは、何か切迫したご用件でも……?」
「……うむ」
糜竺は頷き、陳登に向かって重々しく拳を合わせた。
「某、先般四川の地へ赴いておりましたのだが……留守中、あの面目もない愚弟(糜芳)が陳家に対して無礼を働いたと聞き及びました。心苦しく思い、お詫びに参上した次第」
陳登はふっと笑い、手をポンと叩いた。
「あの件ですか! あれが一目見て公良のしわざだと分かっておりましたよ。子仲兄は風雅なお方ゆえ、そのような下劣な真似をなさるはずがございません」
「お恥ずかしい限り……」
糜竺は礼を返し、引き続いて切り出した。
「ときに陳登殿、もう一つ、折り入って教えを乞いたいことがございましてな」
「教えだなんてとんでもない。どうぞおっしゃってください」
「ここ数日、陳家が高値で大量の穀物を買い集めておられると聞く。もしや……何か一大事でも起きるおつもりか?」
(一大事があるかどうか、貴殿が見抜けないはずがなかろう?)
陳登は心の中で毒づき、ふっと眉をひそめてその意図を察した。
(なるほど、我が陳家が買い占めたせいで米の相場が跳ね上がり、困惑しているのだな……)
「子仲兄……」
陳登は笑みを収め、すこぶる厳粛な面持ちになった。
「乱世が目前に迫っております。子仲兄は、いかなるお覚悟で?」
糜竺は一瞬呆気にとられたが、すぐに苦笑した。
「世間では『陳元龍は直言の士だ』と申すが、真に及ばぬ……。元龍殿もお察しの通り、我が糜家は家業こそ大きいが、維持する費用も莫大なのだ。近頃は黄巾の乱が拡大しておるゆえ、某も糧食を蓄えておきたかったのだが……まさか元龍殿が先手を打たれているとは思いもよらず」
そこまで言うと、糜竺は恥ずかしそうに眉をひそめた。
「包み隠さず申し上げよう。実は、陳家から米五百石をご都合いただけないかと頼みに参ったのだ。後日、三割の利息を上乗せしてお返しいたす」
「む……」
陳登はそれを聞くや、急速に逡巡し始めた。
三割の利息といえば決して少なくない。むしろ破格だ。だが、この乱世における兵糧は太平の世の米とは価値が違う。おまけに五百石となると、いささか返答に窮する量であった。
たちまち、客間の空気は冷ややかに重く沈み込んだ。
(……おいおい、ちょっと覗きに行ってみるか?)
帳房の中で、蘇然は行きつ戻りつしながらウジウジと悩んでいた。
(何を怖がることがある! あの陳登でさえ俺を「先生」と呼んで膝を折ってるんだぞ? その陳登の客なら、いくら糜竺だって威張れるはずがない!)
蘇然は腹を括り、悪意たっぷりに歯を食いしばって部屋を飛び出した。
通りかかった使用人に尋ね、陳登が客間で客を接待していると知る。
(客間ってことは……つまりそこに糜竺がいるってことか!)
陳家の広い屋敷を見渡し、蘇然は呟いた。
「客間……客間……たしか、こっちだったかな……」
壁づたいに半炷香ほどウロウロと迷った末、蘇然はようやく目指す場所に辿り着いた。
門の陰から猫のようにこっそり中を覗き込む。
(クソッ……糜竺の後頭部しか見えねぇじゃねえか!)
蘇然は途端に焦りはじめた。
古代の有名人に急接近できる千載一遇のチャンスだというのに、陳登の野郎、なんで糜竺を俺に背を向ける位置に座らせてやがるんだ!
「……元龍殿」
「子仲兄、そう焦られますな。いま少し考えさせてくだされ……」
陳登は思案を巡らせていた。五百石というのは多くも少なくもない絶妙な量だ。個人的には貸してやりたいが、もしこの件が父の耳に入ったらどうなる? 父は昔から糜家、ことに糜竺に対して警戒感を強めているのだ。
(ふぅ……)
陳登は溜息をつかい、顔を上げて糜竺に断りを入れようとした——その瞬間、門の外にいる蘇然の姿が目に入った。
その時の陳登の表情たるや、実に見事なものであった!
信じられないという驚き、決まずさ、困惑、疑問、不可解——あらゆる感情が一気に顔面に混ざり合い、あまりの変わり様に糜竺はしばし呆然とした。
糜竺が陳登の視線を追って振り返ると、彼の顔つきもまた古妙なものへと変わった。
門の外で、奇妙な男が首をずーっと長く伸ばし、必死になって中を覗き込んでいたからである。
「……」
陳登は顔を極限まで引きつらせた。注意するに注意できず、見なかったことにして白々しく話を続けるしかない。
「……コホン! ええと、その件ですが、融通が利かないわけでもございません」
陳登は顔を伏せ、なるべく門外の蘇然を見ないようにした。
「ただ……父に知られさえしなければ、の話ですがね。ははは……子仲兄、うちの父が貴殿をどれほど警戒しているか、ご存じでしょう?」
「は、はは……では後日、折を見て父上様のもとへ直接お詫びに伺わねばなりませんな」
糜竺は答えつつも、好奇心を抑えきれずにチラチラと門外の蘇然を観察していた。
(立ち振る舞いは随分軽薄に見えるが……元龍殿はあの男に対して異様なほど気を遣い、恐れているように見える。妙だな、実に妙だ……)
(ちぇっ、見つかっちゃったか)
蘇然は糜竺が振り向いたのを見たが、客間の中が薄暗く、外の光との明暗差で糜竺の顔がよく見えなかった。
(ここで引いたら男がすたる!)
すでにバレているなら恐れることはない。蘇然は開き直り、堂々と大揺れに大揺れしながら客間へ入っていった。壁に掛けられた軸画を鑑賞するフリをしながら、目線だけはジロジロと糜竺を観察する。
(ふむふむ……顔は玉のように白く爽やかで、清々しい正気が漂っている。立ち振る舞いも上品だ。さすが古代の名士・糜竺様だぜ!)
「……」
陳登は心の底から頭を抱えていた。
(この先生は学問こそ神の域に達しているが、どうしてこう突拍子もない行動ばかりなさるのだ……! 人が大事な商談をしているというのに、一体何の乱入だというのだ……!)
糜竺は陳登を見、次に蘇然を見つめた。その顔には酷く複雑な色が浮かんでいる。
(さすがに……見えていないフリをするのは無理があるのでは?)
「あ、いや……気にせず続けて! ははは、気にしないでくれ。俺はただの通りすがりだから。ちょっと見学してるだけだから!」
あまりにも熱い視線を浴びせられ、蘇然は気まずそうに手を振った。
「失礼だが、こちらの殿は……いかなるお方で?」
糜竺は礼儀を欠かさず、優雅に手を合わせて尋ねた。
陳登はそれを聞いた瞬間、不満そうに顔を歪めた。
(子仲兄、貴殿が私の先生と対等に兄弟の交わりを結んだら、私の立場が一気に下になってしまうではないか!)
だが口を挟むわけにもいかず、ダチョウのように首をすくめて黙り込むしかなかった。
「あっ、俺は蘇然、字は守義と申します!」
蘇然は人懐っこい笑みを浮かべ、馴れ馴れしく近寄っていった。
「これはこれは、蘇殿。お初にお目にかかります」
糜竺の佇まいは、まるで春風を浴びせるかのように完璧で、士大夫の鑑のような立ち振る舞いであった。
「蘇殿は、元龍殿とはどういったご関係で……?」
「ああ!」蘇然は彼が首をかしげているのを見て、すぐに言葉を添えた。
「元龍とは話がすごく……すごく合ってさ! いわゆる意気投合ってやつ? 要するに親友だよ、すっごく仲の良い友達!」
(ふぅ……恥をかかずに済んだ……)
陳登は胸を撫でおろすと同時に、心のどこかでかすかな寂しさを覚えていた。
(……先生は、まだ私を『真の衣鉢を継ぐ弟子』としては認めてくださっていないのだな。もっと勉学に励まねば……)
だが、正体を伏せてくれたのは好都合だ。陳登は少し警戒した目で糜竺を見つめた。
その視線を感じ取った糜竺は「なぜ警戒される?」と首をかしげたが、気を取り直して本題に戻った。
「時に元龍殿……某には年の離れた妹がおりましてな。今年で十五になるのだが……」
言いながら、糜竺はチラチラと陳登の顔色を窺った。
陳登は眉をひそめた。糜竺の妹といえば、徐州でも評判の可憐な美少女だ。家柄も申し分ない。だが今の徐州の情勢を鑑みれば、乱世を生き残るのは陳家と糜家くらいのもの。ここで婚姻を結ぶとなると、将来の利害関係が複雑に……
「えっ、妹さん!?」
蘇然は目を丸くし、食い気味に問い詰めた。
「もしかして……名前は『糜貞』ちゃん!?」
「な……!? なぜお前が小妹(妹)の幼名を知っているのだ……!?」
糜竺の顔色が瞬時に変わった。古代において、未婚の貴族の娘の本名を外男が知っているなど、通常ではあり得ない異常事態である!
(ヤバッ……! 歴史の知識でうっかり口が滑った!)
蘇然はハッと冷や汗を流し、慌てて胡散臭い笑いを浮かべた。
「あ、いやぁ〜! 徐州第一の美少女って噂だからさ! ははは……なぁ元龍、お前もそう思うだろ!?」
「元龍」という呼び名を聞いた瞬間、糜竺の目が大きく見開かれた。
「……先生のおっしゃる通りです」
陳登の返答が響き、そしてピタリと止まった。
糜竺は信じられないといった目で蘇然を凝視し、問い詰めることすら忘れて硬直した。
「あ、あはは……俺、ちょっと急用を思い出したから失礼するわ!」
蘇然は脱兎のごとく部屋を逃げ出した。バカではない彼は察していた。後世の記録によれば、古代の女子の名を知ってよいのは父親か兄弟、さもなくば夫だけだ。さっきダイレクトに「糜貞」と呼んでしまったのは、完全なセクハラ級の大失言だったのだ!
脱兎のごとく逃げていく蘇然の背中をポカンと見送り、糜竺は半信半疑の面持ちで陳登に尋ねた。
「あのお方が……貴殿の『先生』なのか……? 通りで只者ではない雰囲気を纏っておられるわけだ……」
陳登はハッと正気に戻ると、警戒感を露わにして身構えた。
「……子仲兄、一体うちの先生に何をなさるおつもりだ!?」




