第十九章 糜家の秘話と、知恵者の悩み
さて、話は変わって——。
あの日の出来事のあと、徐州有数の大富豪である糜家の令嬢糜貞は、蘇然の手によってこっぴどく一杯食わされ、ぷんぷんと怒りをあらわにしながら屋敷へと戻っていた……。
「待ちなさい!」
重々しい一声が響いた。
「二哥(ふたつ上の兄さん)、いじわる言わないでよ!」
男装の令嬢——糜貞は声をかけてきた男をキッと睨みつけると、口を尖らせて不満をぶちまけた。
「さっき変な悪党に一杯食わされて、ただでさえ胸がムカムカしてるのに! 大哥(一番上の兄さん)の真似をして脅かさないで!」
「ほう? この私のお妹様を担ぐ不届き者がおったか?」
二番目の兄——糜芳は信じられないといった顔で目を丸くし、しばし呆然とした後に手を叩いた。
「ほお、話してみろ。どんな様子だった?」
糜貞はプッと頬を膨らませ、先ほど街道で起きた出来事を一から十まで話して聞かせた。
「ハハハ! そいつは愉快な奴だなぁ!」糜芳は手を叩いて大笑いした。
「ふんっ!」糜貞は二兄を悪意たっぷりに睨みつけると、
「もうお部屋に帰るわ!」と言ってぷいっと背を向けた。
「待ちなさい!」
「二哥、しつこい——」
「私ではない……私ではないのだ……」
糜芳は引きつった笑いを浮かべながら慌てて横へ退いた。その背後から、一人の品格漂う清らかな青年が歩み出てきた。青年は淡々とした眼差しで糜芳を一瞥した。
「二弟……さきほど『貞児が戻ったら知らせよ』と伝えておいたはずだが?」
「い、いやぁ! 大哥、結果的にこうしてすぐ知ることができたじゃないですか!」
糜芳は愛想笑いを浮かべながら、背後の妹へ「俺にはどうにもできん」と目配せを送った。
「大……大哥……」
さきほどまで威勢の良かった糜貞も、この一番上の兄——糜竺の前に出ると、まるで猫に出会ったネズミのように小さくなり、その場でカチコチに固まってしまった。
「女子の身でありながら、男装をして街を徘徊するなど……」
糜竺は眉をひそめ、実の妹を厳しく見つめた。
「一体全体、お前をどう教え諭せばいいのだ! 小昭、お前が手引きしたのか……?」
「小昭は関係ありません! 私が勝手に外へ飛び出したのです!」
糜貞は怯える侍女の小昭を素早く自分の背後に隠すと、怖がりながらも少しだけ意地を張って糜竺を見つめ返した。
「あの……それなら、私はお先に失礼しても? 別に私には関係なさそうですし……」
糜芳は場の空気が悪くなったのを見て、ここに残っていたら妹と兄が揉めた挙句、とばっちりで怒りの矛先が自分に向かうかもしれないと察した。そんなの災難以外の何物でもない。
「糜芳……」
「はい! 大哥のお叱りの通り、私めも最近少々気が緩んでおりました! 部屋へ戻って心を入れ替え、学問と家業に精を出します! 時は金なり、すぐさま勉学に励んでまいりますっ!」
一気呵成に吐き捨てると、糜芳は脱兎のごとく姿を消した。
「……」
糜竺は引きつった眉間を押さえ、溜息をついて糜貞に向き直った。
「……貞児、今年でいくつになった?」
「……十五ですけれど」糜貞はビクビクしながら答えた。
「ふぅ……あっという間に七、八年か」
糜竺は深く息を吐き出し、妹に優しく問いかけた。
「妹よ……大哥の締め付けが厳しすぎて、窮屈に思っているのか?」
「そんなこと……ございません……」
「『ない』と言う割には、顔にそう書いてあるぞ?」
慌てる妹の姿を見て、糜竺は手を開いて苦笑した。
「よい、冗談だ。外へ遊びに行きたければ行くが良い。……ただし、二度とそんな格好はなさるなよ」
糜貞は胸の中でガッツポーズをしながら、チャーミングに舌を出した。
「十五歳か……」
糜竺は空を仰ぎ、背を向けて歩き出そうとしたが、ふと足を止めておかしそうに振り返った。
「……そういえば先ほど入ってきた時、お前が二弟と話していた『あの男』の件だがな。どう考えても過ちを犯したのはお前の方だぞ、貞児」
「うぐっ……」糜貞は口を尖らせて黙り込んだ。
糜竺は首を横に振ると、また歩き出しながら独り言のように呟いた。
「十五歳……そろそろ嫁入りを考えねばならんか……」
「あのいまいましい奴……! 大哥まで私のせいにするなんて!」
糜貞は小さな拳を握りしめ、悪意たっぷりに言った。
「今度またあの『忠野林陣』とかいう奴に会ったら、絶対にタダじゃ置かないんだから!」
「お嬢様、あの男人はとってもズル賢いお方ですから、お気をつけくださいね!」侍女の小昭が心配そうに助言した。
「ふんっ! 私が警戒さえしておけば、あんな姑息な罠なんかに二度とかかるもんですか!」
「……だと良いのですが」
「ちょっと! 何よその言い方は!」
「ご、ごめんなさいお嬢様〜!」
かつて現代にいた頃、蘇然はいつも自分に自信が持てず、「自分は何をやっても人に及ばない」と漠然とした敗北感を抱えて生きていた。だが……この三国時代に来て、彼はついに「人間の価値の表し方」というものを実感していたのだった。
実に簡単な話だ。——「人ができることは自分もでき、自分ができることは周りの誰一人としてできない」。これだけで、一気に圧倒的な価値が生まれるのだから!
蘇然は心の中でほくそ笑みつつも、顔には一切出さず、目の前でテスト用紙を抱えて冷や汗をダラダラと流している陳登を冷ややかに眺めていた。
(よしよし、いいぞ。落ち着け、俺……)
蘇然は顔の筋肉を必死にコントロールし、威厳に満ちた「厳格な師匠」の表情を作り上げた。
「元龍よ、どうしたのだ? 『暗算の術などすでにマスターしました』と胸を張っていたのではないのか? 『乱世を生き抜く真の学問を教えてくれ』などと言うが……知識を一気に詰め込んでは消化不良を起こすと、あれほど言ったであろう……?」
声調こそ「弟子を心から案じる深い嘆き」に満ちていたが、胸の中で何を考えているかは言わずもがなである。
(いやしかし、マジで脱帽だわ……さすが知力80オーバーの歴史的名将だぜ。たった二ヶ月で小学校の算数を全部終わらせて、もう中学校の数学に突入しようとしてやがる。おい頼むから、そんなスピードで覚えないでくれよ……俺のストックが尽きちゃうだろ……!)
「小僧……」
その時、小僧が恐る恐る部屋を覗き込んできた。
陳登は目を怒らせ、叱りつけようとした。
「何だ勝手に! 誰が入って良いと言った!」
「コホンッ!」蘇然が軽く咳払いをした。
陳登はハッと動きを止めた。
彼は、先日蘇然から授かった教えを思い出したのだ。——『下人や使用人に対し、ただ威張って怒鳴り散らすだけでは二流だ。時には温和に接し、恩と威厳を共に見せねばならん。恩を施すとは、何も大層な賞与を与えることだけではない。人心を掴む温かい一言、ちょっとした配慮こそが最大の恩となる。もし圧迫しか与えなければ、下人の心に怨念が溜まり、やがて取り返しのつかない災いを引き起こすのだ』。
(先生はさすがだ……私も頭では分かっていたつもりだったが、一度も実行に移せたことはなかった……!)
「……ふぅ、よい。何事だ、申してみよ」
慌てる小僧に対し、陳登の表情がふっと和らいだ。
「お、お赦しいただき感謝いたします!」小僧は慌てて頭を下げた。
「実は……糜家の大公子長男様がお見えになり、ご主人様にお会いしたいとおっしゃっておりまして……」
「糜竺殿が……?」
陳登が呟きながら小僧をチラリと見やると、小僧の瞳にはかすかな感謝の色が浮かんでいた。陳登は蘇然の「人心掌握の術」の恐ろしさに、改めて五体投地する思いだった。たった一言の言い回しで、これほど使用人の顔つきが変わるものか……!
(……先生の胸中には、やはり天地を揺るがす大宇宙が広がっている。先生の課す試練を乗り越えさえすれば、必ずやあの『乱世の学問』を教えてくださるはずだ……!)
「先生、勝手ながら席を外す無礼をお許しください……」
「うむ、行ってまいれ」
蘇然は陳登が糜竺に会いに行くのだと知り、無理に引き留めるような野蛮な真似はしなかった。だが、胸の奥で野次馬根性が首をもたげていた。
(後世の史書によれば、あの糜竺って男は筋金入りの超・聖人格者なんだよな。せっかく三国時代にタイムスリップしてきたんだから、歴史上の有名人に会っておかなきゃ損だろ!)
(桃園の三兄弟(劉備・関羽・張飛)だろ、諸葛亮という名の妖怪(?)だろ、周瑜、賈詡、趙雲……全員一度は拝んでおきたいぜ! ……そしてもし、伝説の三国志第一の美女・貂蝉にまで会えたら……へへっ……へへへへ……)
陳登は、急にぼんやりと空を見上げてヘラヘラし始めた蘇然を古妙な目で見つめると、無言で部屋を出て行った。
彼はもう慣れていた。これは先生の「いつもの儀式(深謀遠慮の思考モード)」なのだ。思考の海に没入するあまり表情が固まり、時には口角からキラリと輝く透明な液体が垂れることもある……。
そして陳登は良く知っていた。——この状態の先生をうっかり呼び起こしてしまうと、とんでもない災難が降りかかるということを!
(……あの時、怒った先生に『九九乗法表』を1,000回写させられたトラウマが蘇るぜ……)
陳登は身震いしながら、静かにドアを閉めたのだった。




