第十八章 茶屋の出会いと、天下への覚悟
時が経つのは早いもので、蘇然と秀があの小さな山村を離れてから、しばらくの月日が流れていた。
ある日のこと、秀がふと蘇然のそばに寄り添って言った。
「夫君、一つご相談したいことがあるのですが……」
「ん? 何だ?」
最近の蘇然は『春秋』を読み耽っていた。人に教える立場になった手前、多少は知的なフリもしなければ格好がつかないからだ。だが、いざ読み始めてみると歴史小説のような趣があって案外面白く、まるで新大陸を発見したかのように夢中になっていた。
それもそのはず、パソコンも電球もないこの時代、夜になれば秀を抱いて布団に入るくらいしかやることがないのだから。
(いや……それはそれで……)
蘇然はチラリと秀に視線を送り、昨夜自分の右手が体験した「感触」を思い返していた。華奢に見えて、意外と……しっかり出るところは出ているんだよな……。
蘇然がまた妄想の世界に旅立っているのを見て、秀は彼の腕をギュッと揺さぶり、甘えるように頬を膨らませた。
「もう! 私が話しているのですから、ちゃんとお話を聞いてくださいな!」
「聞いてる、聞いてるって! ちゃんと聞いてるよ」
蘇然の視線が、秀の豊満な胸元をサッと通過した。
「夫君、実はですね……私、幼い頃に一人ぼっちになってあの村へ流れ着き、村の皆様のお助けがあったからこそ、あそこで生きて来られたのです。そのご恩をずっと心に抱いておりまして……。今、こうして徐州で暮らしが落ち着きましたでしょう? ですから、村に残してきた田畑を荒らしてしまうのは勿体ないのです。あれは秀が手塩にかけて耕した土地ですから……村の皆様にお譲りしたいのです。それに、あの家も……」
(あの屋根に穴が開いて夜空が見える家か?)
蘇然は目を細め、なんとも言えない表情になった。あの家は実に印象深い。夜やることがなくて、毎日二人で横になって星空を眺めていた……実にロマンチック(?)な思い出だ。
「夫君、いかがでしょうか……?」
「お前の好きにすればいいさ。うん、いつ行くか決まったら声をかけてくれ」
「ふふっ!」
秀はとても嬉しそうにパッと表情を輝かせた。
「よかった、これで安心いたしました! それと……夫君がおっしゃった通り、最近は世情が不安定ですから、村の皆様にも『気をつけてね』とお伝えしたくて……」
「ああ、そうだな」
「では、明日にでも参りましょうか?」
「明日……?」
蘇然は少し眉をひそめた。
「俺、明日お前から休みをもらったのは、お前とゆっくり過ごすためだったんだが……」
「そうですよ?」
秀はパチクリと目を瞬かせた。
「明日、一緒に村へ行くのですから、夫君は私と一緒に過ごせるではありませんか?」
「いや……まあ、そう言われればそうだけど……」
「夫君……ダメですか……?」
「わかった、わかったよ! お前の好きにしなさい」
蘇然はハァと息を吐き出した。(女ってのは買い物が一番好きな生き物じゃないのか? なぜ秀は違うんだろうな……)
歩けば二、三日かかる道のりも、馬車を使えば一日で着く。蘇然は陳府(チントウの屋敷)へ出向き、陳登にその旨を伝えると、陳登は名残惜しそうに頷いた。
今の二人の関係は、客観的に見ると実に奇妙だった。雇用主と従業員であり、師匠と弟子でありながら、普段接するときはまるで年の離れた兄弟のようでもある。第三者から見れば何とも判別しがたい関係だった。
陳登は「先生と奥様」を安全に村へ送届けるため、ベテランの老御者をわざわざ手配してくれた。
がたごとと揺れる馬車の中で、蘇然は黄土の街道を行き交う貧しい庶民たちの姿を眺めていた。その胸に、なんとも言えない感情が込み上げてくる。
「……興るも、百姓の苦しみ。滅ぶも、百姓の苦しみ……か」
「え……?」
秀は驚いて蘇然の顔を振り返った。だが、利発な彼女は余計な口を挟まず、その言葉の意味を胸の中でじっくりと噛み締めた。歴史の残酷さと庶民の苦難を、たった一行で言い尽くした言葉だった。
「何をそんなに見つめてるんだ?」
蘇然は愛おしそうに秀の長い髪を撫でた。
秀は素直に蘇然の肩へ頭を預け、静かに囁いた。
「秀は……本当にお慕いすると同時に、不思議でならないのです。夫君は一体どこからおいでになり、なぜこれほど多くのことをご存じなのか……」
「知りたいか?」
「……」
秀は唇をかみ、蘇然の顔色を伺うように見てから、囁くように言った。
「夫君がお差し支えないとお思いでしたら……いつかお話ししてくださいな……」
「差し支えるも何もないさ、俺は……」
蘇然が気のない返事を続けようとしたその時、老御者の声がそれを遮った。
「蘇先生、ここに茶屋がございます。少し休んでから立ち出でましょうか?」
「どうする、秀?」蘇然が尋ねる。
「はい!」
秀も少し旅疲れを感じていたようだった。彼女は「あともう少しで夫君の秘密が聞けたのに」と胸の中で残念がったが、今はこれ以上追求する場面ではない。また今度、機会を見て聞いてみよう。(夫君は、本当に謎めいたお方……)
蘇然は空いている席を見つけ、秀と一緒に腰を下ろした。老御者は茶を一杯だけ頼み、持参した干し肉と米餅をかじっている。
街道の茶屋だけに、テーブルや椅子は数えるほどしかなかった。ほどなくして、茶屋の小僧が二人の中年男性を連れてやってきた。小僧は蘇然に向かって申し訳なさそうに頭を下げた。
「旦那様、申し訳ございません。あいにく満席でして……相席とさせていただいてもよろしいでしょうか?」
相席くらいどうということはない。蘇然は黙って頷いた。
向かいに座った二人の男を、蘇然はさりげなく観察した。
一人は落ち着いた面持ちで、体つきはどこか痩せていて病弱そうに見える。しかし、もう一人の男は体格ががっしりとしており、一目でタダ者ではないと分かる威圧感を漂わせていた。
「相席、感謝いたす」
痩せた男が拳を握って礼を述べた。
「お気になさらず。お互い様ですよ」
蘇然は淡々と返した。
「素晴らしい」
痩せた男は外見こそ不健康そうに見えたが、その声は肚の底から響くような力強さに満ちていた。彼は蘇然をじろじろと見つめると、口を開いた。
「私は張触、字を左残と申す。お若い殿方、お名前をお聞かせ願えるかな?」
そう言って、隣の黒顔の巨漢を目で示した。
巨漢はぶっきらぼうに言った。「俺は……クロとでも呼んでくれ!」
(……変な組み合わせだな)
蘇然はこのアンバランスな二人組を怪訝そうに見つめながら言った。
「私は蘇然、字は守義と申します。こちらはこちらは私の妻です」
秀は小さく頭を下げて挨拶をした。
張触は蘇然があまり喋りたくなさそうなのを見ると、無理に追求はせず、茶を注文して干し餅をかじり始めた。
その時だった。蘇然たちの隣の席に座っていた、農夫の格好をした男が激しく机を叩き、怒りをあらわにした。
「くそっ! どうしても腹の虫が収まらん!」
隣の男が慌ててなだめる。
「まあ落ち着け……」
「例年ならまだしも、今年のこの不作で、税が減るどころか増えるだと!? 役人に全部巻き上げられたら、俺たちは何を食って生き延びればいいんだ!」
「腹を立てたところで、どうにもならんだろ?」友人が溜息をついた。
「俺たちが文句を言おうが言うまいが、奴らは毟り取っていくんだ。我慢するしかない。冬になる前に徐州の城内へ行って、何か雇い口がないか探してみよう。そっちの方が……少しはマシだ」
「……この昏君めが!」
「口を慎め! 首が飛ぶぞ!」
蘇然はそのテーブルをチラリと見やり、秀が作ってくれた米餅を黙々と口に運んだ。
すると、向かいの張触が蘇然を見つめ、突如として問いかけてきた。
「若……いや、先生。この今の世の情勢について、どのようにお考えかな?」
蘇然は頭を上げ、眉をひそめて張触を見つめた。三国志という凄惨な乱世で死んでいく無数の人々の運命が思い浮かび、胸が痛む。彼は重々しい声で言った。
「……何について尋ねているのだ?」
張触の目がかすかに光を帯びた。彼は深謀遠慮を秘めた瞳で沈吟し、言った。
「……当今の朝廷について、だ」
「『道を得る者は助け多く、道を失う者は助け少し』……民の心すら失った朝廷に、一体何ができようか?」
蘇然が言いながら隣のテーブルに目をやると、その農夫の発言に触発され、茶屋にいる客たちが次々と朝廷への不満をぶちまけ始めていた。茶屋の小僧は恐れをなして遠巻きに見ている。
(民の心……!)
張触の目がカッと見開かれた。胸の中に衝撃が走る。
目の前の若者は、まだ二十歳前後にしか見えない。先ほど「先生」と呼んだのは彼の身なりを見たただのお世辞に過ぎなかったが、今や心の底から敬服せざるを得なかった。たった一言で、天下の病根を完璧に突いて見せたのだから。
張触は眉をひそめてしばらく思案していたが、意を決したように顔を上げた。
「……先生は、『張角』という名を聞いたことがおありかな?」
蘇然は茶碗を手に取り、フーフーと息を吹きかけながら冷ややかに言った。
「……耳にしたことはある。なぜその名を出す?」
張触は急に気まずそうな顔になり、取り繕うように笑った。
「いや、ただの好奇心だ……あの張角という男を……」
「ふん」蘇然は鼻で笑った。
「あの張角とやらは、自分が何を企んでいるのか天下にバレていないとでも思っているのだろうか? ハハッ……片腹痛いな」
ドカン!!
その一言は、張触にとって晴天の霹靂だった。
張触の顔色が劇的に変わり、隣の黒顔の巨漢と顔を見合わせた。彼は声を震わせながら尋ねた。
「では……先生はあの張角という男を、どのように評価される?」
「興るも、百姓の苦しみ。滅ぶも、百姓の苦しみ……。張角がどんな目的を掲げていようが——天下の民のためであろうが、あるいは己の野望のためであろうが……結局、一番ひどい目に遭うのは末端の百姓なのだ。……で? 俺の評価などに、何の価値があるというのだ?」
(何の価値があるか……だと?)
張触は呆然とした。そうだ……彼一人の評価に何の意味があるというのか?
だが、それを差し引いても、目の前の若者の見識はあまりにも深遠で、恐ろしいほどだ。(……惜しいな。これほどの英才が、世家に連なる者であろうとは……実に惜しい)
隣の席の議論がいよいよ過激になっていくのを見て、蘇然は眉をひそめ、秀に視線を送った。
「参りましょうか、夫君?」秀がしとやかに立ち上がった。
「先生……!」
立ち去ろうとする蘇然に対し、張触は慌てて立ち上がり、胸の前で拳を握って叫んだ。
「最後にもう一問だけ! 先生は……もし張角に私心がなかったとしたら、どう評価されますか!?」
蘇然は振り返りもせず、歩きながら言い捨てた。
「……もし奴に私心が一切ないというなら、俺は奴を尊敬してやるよ」
「——なるほど! そういうことか!!」
張触は天を仰いで大笑いした。
「ハハハハ! 先生のような奇才にお会いできた! 旅に出た甲斐があったというものだ!!」
「行くぞ! 戻るぞ!」
張触は黒顔の巨漢の肩をポンと叩いた。
「えっ!? 徐州へは行かないのかよ!?」巨漢が慌てて追いかける。
「ふっ……我々は天下の英傑というものを甘く見ていたようだ。事ここに至っては、私も腹を括らねばならん! 『蘇然・蘇守義』……フフフ、実に面白い男だ……!」
「あの青ひょうたんに、そんなに凄い力があるのかよ?」
「私はこれまで、挙兵に対して心のどこかで迷いがあった。……だが今、あの男の一言によって目を覚まされたよ! 『民の心はすでに我らにあり! 天下は狙うべし!』とこな!! 行くぞ!!」
「おおっ!!」




