第十七章 忍び寄る黄巾の影と、乱世の英雄たち
蘇然は、ここ最近ずっと頭を悩ませていた……。
ひとつ目は、秀のことだ。
蘇然は先日、彼女の婚礼衣装がいつの間にか仕上がっているのを陰からこっそり見てしまった。その衣装を、嬉しそうに何度も何度も愛おしそうに眺めている小さな彼女の姿を目にして、蘇然は心に深く誓ったのだった。——一生、この子を大切にしよう、と。
彼女は自分にとってこの世界で一番身近な存在であり、この時代にやって来て最初に知り合った……コホン、最初の「女の子」なのだから。
ふたつ目の悩みは……聞くまでもない。あの陳登のガキのことだ。
毎日毎日「乱世を生き抜くための真の学問を教えてください!」とまとわりついてくる。
(へっ、俺から学びたいだと? 俺がどこから学べばいいんだよ! お笑い草だぜ!)
蘇然はひとまず「知識を一気に詰め込んでも消化不良を起こすだけだ」という理屈で追い払ったのだが、あいつはそれでも毎日必ず「先生の言葉には深い気づきがあります」と言って教えを乞うてくるのだった。
(俺にそんな才能があるなら、前の世界でとっくに優秀な教師になってるっつーの! 誰をインスパイアしてるんだか……)
そして三つ目の悩み……これが一番厄介で、忌々しいことだった。
数日前、なんと徐州の城内で「黄色い布を頭に巻いた男」を目撃してしまったのだ。
これには蘇然も肝を冷やした。呆然と立ち尽くし、その男が周囲の庶民たちに怪しげな教義を説き広めている様子を眺めていたが、やがて黙ってその場を立ち去ったのだった。
(起こるべき歴史は、どうしても起こっちまうんだな……俺みたいな一介の平凡人間に、一体何ができるっていうんだ?)
陳登に大量の練習問題をポンと押し付けると、蘇然は一人で屋敷を出て行った。
陳府を出て、通りを行き交う人々を眺めていると、蘇然はふと深い孤独感に襲われた。
その孤独は骨の髄にまでじわじわとへばりつき、氷のように冷たく突き刺さってくる……。
蘇然は着物の襟元をギュッと締め直し、自分がいつの間にか寒さに震えていることに気づいた。冷たい風が容赦なく吹き抜けていく。
(……もうすぐ冬か?)
ふと見渡すと、街路樹の葉はすっかり落ち尽くしていた。初冬の訪れだ……。
この見知らぬ世界にやって来てから、ちょうど丸二ヶ月が経っていた。
「夫君……?」
ぼんやりと顔を上げると、目の前に秀が不思議そうな顔で立っていた。
「秀……? どうしてこんなところにいるんだ?」
蘇然が驚いて尋ねる。
「えっ……?」
秀は大きな目をパチクリさせ、おかしそうに左右を見回した。
「ここ……私たちの家ですよ? 秀が家にいて、おかしいですか……?」
蘇然があたりを見回すと、なんと自分であてもなく歩き回っているうちに、いつの間にか自分の家に辿り着いていたのだった。
「夫君、どうなさったのですか……?」
秀は心配そうに歩み寄ると、蘇然の手をぎゅっと両手で包み込んだ。その顔には焦りの色が見える。彼女は蘇然の胸の奥にある苦悩を、敏感に感じ取っていたのだ。
「いや……何でもないよ」
蘇然は首を振り、家の中へと入っていった。やはり、この小さな我が家だけが、彼の心を落ち着かせてくれる唯一の場所だった。
秀は慌てて温かいお茶を淹れて持ってきた。そして余計なことは言わず、心配そうに蘇然の顔色を伺っている。
その健気な姿に、蘇然は思わず口元を緩めた。彼女の手を優しく引っ張って自分の膝の上に座らせると、その長い髪に頬を寄せ、髪の香りを楽しみながら静かに尋ねた。
「秀……お前は、俺のことをどんな人間だと思う?」
「夫君がどんな人か……ですか?」
秀は首を少し傾げ、とても真剣に考え込んでいる様子だったが、やがてプッと吹き出した。
「夫君は、とっても良いお方ですよ……!」
「おいおい、俺は真面目に聞いてるんだぞ?」
蘇然は少し不満そうに言った。
「秀だって、とっても真面目にお答えしていますよ!」
秀は蘇然の腰に細い腕を回し、その胸に頭を預けながら、愛おしそうに囁いた。
「夫君がどんなお方であっても……秀は一生、あなた様についていくと決めているのですから……」
その言葉に胸を打たれ、蘇然は秀の背中を優しく撫でた。
だが同時に、彼の心にはどこか割り切れない別の感情が渦巻いていた。最近の彼は、時折自分が誰なのか分からなくなるのだ。自分は二十一世紀のオタクゲーマー・蘇然なのか、それとも三国時代の蘇守義なのか……。
(タイムスリップ……俺がこの時代に来られたってことは、また元の時代に送り返されることも……?)
(帰る……?)
蘇然は腕の中の秀を見つめ、思わず躊躇した。
(何をバカな妄想をしてんだ俺は!!)
蘇然は自分に腹を立てた。今一番考えなきゃいけないのは「黄巾の乱」の対策だろうが! なに脱線してんだ!
黄巾の乱——張角、張宝、張梁の三兄弟が率い、数十万、いや数百万もの信徒を動員して漢王朝のほぼ全土を揺るがした、歴史上最大規模の民衆反乱だ。
タイムスリップものの先人たちが教えてくれた教訓がある。——「歴史書を鵜呑みにするな」と。
史書(まあ、俺が知ってるのは『三国志演義』の知識だが)によれば、徐州は黄巾の被害をほとんど受けなかったことになっている。だが、じっくり考えるとどうにも怪しい。なぜ他の地域が全滅しているのに、ここだけ無傷でいられるんだ?
万が一、黄巾軍が徐州に攻め込んできて、徐州が防ぎきれなかったら……俺たち……。
蘇然の額から、ダラダラと冷や汗が流れ落ちた。
秀は眉をひそめ、蘇然の額の汗を柔らかい布で優しく拭い取ると、心配そうに見つめた。
「夫君……何かお困りごとでしたら、私にお話ししていただけませんか? 私はしがない女子で、夫君のお役に立てないかもしれませんが……それでも……」
その真っ直ぐな瞳に見つめられ、蘇然は指先で秀の唇をチョンと突いた。
「よし、じゃあ話してやるから、よく聞けよ?」
「はい!」
秀はおとなしく頷いた。
この二ヶ月間、蘇然は「秀がまだ幼すぎる」と言って夜の営みをお預けにし、年が明けてから正式な婚礼を挙げようと大切に扱ってくれた。二人の絆はすでに水よりも深く結ばれており、秀も今では蘇然のこうしたスキンシップに恥ずかしがることもなくなっていたのだ。
(私はいつだって、このお方のものなのだから……)
秀は心の中でそう思った。
「秀、お前……街で頭に黄色い布を巻いた奴らを見かけたことはあるか?」
「ふむ……そういえば見かけたような気がします。あの方々は『大賢良師』の信者様ですよね? 何かまずいことでも……?」
「お前、この天下で一番手に入れるのが難しいものって、何だか分かるか?」
蘇然は秀を見つめ、静かに尋ねた。
「一番難しいもの……?」
秀は眉をひそめて首をひねったが、さっぱり分からない様子だった。
「——『民の心』だよ」
蘇然は重々しく言った。
「民の心……ですか?」
「そうだ! そして今、その民の心をガッチリ掴んでいるのが張角なんだよ。まったく、前代未聞の絶好のチャンスが転がり込んできたもんだ。あの張角って男に野心がなくて、欲望に耐えられるなんて……俺には到底思えんね」
「夫君は前からあの『大賢……』ううん、張角のことがお嫌いでしたものね。彼が乱を起こすのを心配されていたのですね……なるほど……」
秀は深く頷くと、嬉しそうに微笑んだ。
「やっぱり、夫君は本当にすごいです……!」
「あー、コホン……!」
蘇然の面の皮もすっかり鍛え上げられており、顔色一つ変えずに秀の絶賛を受け止めた。
「とにかく秀、当分の間は極力外出は控えるんだ。買い出しに行くなら俺が帰ってきてから一緒に行こう。特に、あの黄色い布の奴らには絶対に近づいちゃダメだぞ」
「はい、夫君のおっしゃる通りにいたします……」
(ん……? 待てよ?)
蘇然の頭の中に、ふと疑問が浮かんだ。
三国志最強の精鋭部隊のひとつ——「丹陽兵」って確か、ここ徐州の周辺から排出されたんじゃなかったか……?
まさか……?
「なぁ秀、この徐州で一番偉いお官人様(長官)って、誰なんだっけ?」
秀はジト目で蘇然を一度見つめると、急にお行儀よく正座し直して言った。
「陶州牧様ですよ」
「陶州牧……?」
蘇然が記憶を探ると、一つの名前が跳ね上がってきた。
「……まさか、陶謙か!?」
「夫君! 無礼ですわ! 陶様は素晴らしいお方なのですから、呼び捨てにしてはけません!」
秀の小言を無視して、蘇然は自分の思考に没頭した。
(昔、ネットの記事で読んだことがあるぞ……あの陶謙って男は、内政に長けているだけじゃなく、軍事の指揮能力も高くて、かなり先見の明がある名将だったって……! もしかして、彼が治めていたからこそ、黄巾の乱党も徐州を侵略できなかったのか……?)
そう考えると、蘇然の胸を覆っていた不安が少しずつ和らいでいった。
(まあ、念のために明日陳登にも確認してみるか。あいつの家はデカいから、私兵(家将)くらい抱えてるだろうしな……)
自分と秀の命を守るためにも、当面は陳家としっかり太いパイプで繋がっておくべきだ。少なくとも今のところ、陳登は自分を「最高の先生」としてめちゃくちゃ尊敬してくれているのだから。
……とはいえ、乱世の恐怖を抱く一方で、蘇然は歴史の表舞台に躍り出る英雄たちに対して、ゲーマー特有の強い興味を抱かずにはいられなかった。
特に、劉備、曹操、孫策……。
知勇兼備の趙雲、義理に厚い関羽、豪快で血気盛んな張飛、主君を命がけで守る典韋……。
(……そして、武の頂点といえばあいつだ。呂布……!)
劉備・関羽・張飛の三兄弟を一人で相手取った伝説の武将。一体どれほどの戦闘力だったんだろう……。後に処刑されてしまったのが惜しまれる。
そして何より……歴史上、最も惜しまれるのは……
(……貂蝉に会えないことだな……!)




