第十六章 「蘇学(そがく)」の開祖と、乱世の問い
結婚……そして、子供……。
蘇然の頭の中に、突如として温かく可憐な未来の光景が浮かんできた。
「夫君……」
秀が粉のように愛くるしい赤ちゃんを抱き、トコトコと蘇然の前へ歩み寄ってくる。その顔には溢れんばかりの母性が輝いていた。
「見てくださいな、私たちの子供ですよ……とっても可愛らしいわ……夫君にそっくり……」
「へへへ……」
蘇然はだらしなくデレデレと笑い始めた。
「先生?」
「へへへっ……」
蘇然は目を細め、顔全体にヘラヘラとした笑みを浮かべている。
「先生……!?」
「ん……?」
蘇然はハッと正気に戻り、左右を見回した。そして急に表情を引き締め、目の前で固まっている陳登を思いきり睨みつけると、ゴホンと咳払いして悪意たっぷりに言った。
「コホンッ! ……何か用か?」
陳登は本当にやるせなかった。彼はただ採点を求めて答案を出しに来ただけなのに、なぜこんなに理不尽に睨まれなければならないのか?
(ちくしょう、せっかくの最高に幸せな妄想を邪魔しやがって……)
蘇然は胸の中で文句を言いながら、眉をひそめて自分が一ふた日前に出しておいたテスト用紙に目を落とした。だが、目を通すうちに彼の心の中に驚きが広がっていく。
(……おいおい、マジかよこのガキ。たった一、二日で『九九乗法表』を完全にマスターしたのか? それどころか応用を利かせて除算まで理解してやがる……!?)
(古人を舐めちゃダメだな……)
蘇然の心の中に、かすかな警戒心が芽生えた。
「先生、私の解答に間違いはございましょうか?」
陳登が空気を読まずに顔を寄せてくる。
(くそっ、ここでこいつに舐められたら、これから飯のタネがなくなっちまう……!)
喜色満面で答えを待つ陳登を見つめながら、蘇然は眉をひそめ、ふっと気取った調子で言った。
「ここに一つの昔話があるのだが……お前、聞きたいか?」
「お話、ですか……?」
陳登は唐突な申し出に首をかしげたが、恭しく頷いた。
「昔々、とある田舎の地主がおった。一生、まともに文字が読めなかった男でな、それだけに学者や読書人を人一倍うらやみ、尊敬していた。自分が文盲なのは諦めるとして、息子だけは立派な知識人にしたい。そこで男は歯を食いしばり、大金を叩いて有名な家庭教師を雇うことにしたのだ」
「先生は『天下の文字は星の数ほどありますゆえ、日銭で報酬をいただきましょう』と言った。地主は懐の痛む話だと嘆きつつも、息子に『息子よ、頼むから一日も早く先生の知恵を盗み取って、俺の金を節約してくれ』と言い聞かせた」
「一日目、先生が一の字を教えた。息子はうなずき、完璧に覚えた」
「二日目、先生が二の字を教えた。息子はまたたく間に覚えた」
「三日目、先生が三の字を教えた。すると息子は三の字を覚えるなり、父親に向かってこう胸を張ったのだ——『父上! もう天下の文字はすべて学び終えました!』と……」
「ッ……!」
シュッと音を立てて陳登の顔が真っ赤に染まった。
彼は蘇然がなぜこの物語を語ったのかを完全に「理解」したのだ。(先生は、先ほど私が少しばかり計算ができたからと増長したのを見抜き、私を戒めるためにこのお話をしてくださっているのだ……!)
陳登は恥ずかしさと申し訳なさのあまり、額からダラダラと冷や汗を流し始めた。
蘇然はチラリと陳登の様子を伺い、胸の中でニヤニヤと笑いを噛み殺した。
(先人たちよ、俺を責めないでくれよ? 俺もメシを食っていくためなんだ。いや、これからは家族を養わなきゃならないんだからな! 今は二人の口だけど、将来秀が可愛らしい男の子を何人も産んでくれたら……へへへっ)
「……息子の言葉を聞いた父親は、息子が紙に書いた『一・二・三』を見て『おお、真実だ!』と信じ込み、すぐに先生を解雇してしまった」
「それからしばらくして、父親は遠方に住む大親友のことを思い出し、息子に自慢しようと宴の招待状を書かせることにした。しかし、その親友の名は……『万三』という名だったのだ……」
陳登の表情は実に豊かに変化していた。笑いたいが口が裂けても笑えず、猛烈な恥ずかしさと同時に、若くしてこれほどの示唆に富んだ教えをさらりと言ってみせる蘇然の深遠さに、心からの尊敬を深めていたのだった。
同世代の若者でありながら、なぜこのお方はこれほどまでに貴重な教養と知恵を備えているのか?
陳登は蘇然の顔をまじまじと見つめながら、密かに恐ろしい考えに至った。
(もし……もし先生がその胸中のすべての知識を、この私に余すことなく授けてくださるなら……私という人間は……!)
考えれば考えるほど、陳登の血は熱く滾っていく。
「おい、何をぼーっとしている!」
蘇然が一喝し、威厳たっぷりに「先生」の風を吹かせると、陳登はすっかり心服したように背筋を伸ばした。
物語のオチ(万の字を書くために何千回も横棒を引き続ける息子の悲劇)は言うまでもない。陳登ほどの頭脳があれば瞬時に理解できるだろう。蘇然は着物の裾を整え、実に惜しむような、それでいてどこか悟りを開いたような態度を作ってみせた。
「学問に終わりなどないのだ……実に惜しいことだな……」
それを聞いた陳登は顔色を変えた。(先生を本気で怒らせてしまった! このまま見放されたら大変だ!)
陳登は慌てて深く頭を下げ、平伏するように言った。
「先生! 元龍(ゲンリュウ/陳登の字)の無知と傲慢をお許しください! 今後は決しておごらず、謙虚に学問に励みます! そしていつの日か、先生の打ち立てられた『蘇学』を天下に広めてみせます……!」
(そ、蘇学ってなんだよ……名前に『学』をつけるなよ……)
蘇然は吹き出しそうになるのを必死で耐えた。
(まあいいや、俺の給料から六貫銭を引くような真似さえしなければ、お前の好きに名付けてくれ……)
「む……」
蘇然は陳登を盗み見ると、人文学者っぽい重厚な声で言った。
「人には『傲骨』があってよいが、『傲気』があってはならん……元龍よ、肝に銘じておけ」
「……!! 精妙……まさに至言にございます……!」
陳登は目を見開き、言葉を失った。
蘇然は笑いをこらえながら、(よっしゃ! これで俺の飯のタネは完全に守られたぞ!)と内心でガッツポーズを作った。
「先生のお言葉、元龍、一生の戒めといたします!」
陳登は重々しく頷いたが、ふと眉をひそめると、チラリと蘇然の顔色を伺った。
「言いたいことがあるなら言ってみろ」
飯のタネが守られてご機嫌な蘇然は、鷹揚に言った。
「……先生、不躾ながらお聞きいたします。先生はこの『大漢王朝』の行く末を、どのようにお見立てでしょうか?」
(大漢? 後漢の末期だってのに、今更どんな見解もクソもあるかよ……)
「『百足の虫、死して破れず(※滅びかけてもなおしぶとく生き残るの意)』……まあ、完全に崩壊するまでにはまだもう少し時間がかかるだろうよ」
蘇然は茶をすすりながら、気だるそうに言い放った。
しかし、この何気ない一言は陳登に激震走らせた。
(……なんという直接的で、一質を穿った見立てだ! まさに核心を突いている……!)
「で、では……あの『大賢良師』については……?」
「……張角のことか?」
「え……あ、はい。そうです……」陳登は苦笑した。
蘇然は「ハァ」と鼻で笑うと、首を横に振って黙って茶を飲み続けた。(面倒だからこれ以上語りたくない、という意味の沈黙である)。
しかし、陳登の脳内変換は止まらない。
(そうか! 先生は『張角の起こす黄巾の乱など絶対に成功しない』と断言されているのだ! なんという先見の明……父上がおっしゃっていた分析と寸分違わぬ! 父上は長年の経験と齢を重ねたからこそ見抜けたのだ……だが、この若さの先生がなぜ……!?)
「では……先生の目から見て、この天下の行方は……?」
畳みかける陳登の問いに、蘇然の頭の中にふと、後世の群雄割拠や三国志の歴史が浮かんできた。そして魔が差したように、後世の有名な言葉を口滑らせて言ってしまう。
「……『秦、その鹿を失い、天下共にこれを逐う(※絶対的な統治者が力を失えば、群雄が天下を狙って群がるの意)』……とな」
ドカン!!
陳登の頭の中で雷鳴が轟いた。視界を覆っていたすべての迷霧が一瞬で吹き飛んだかのような衝撃だった。かつて父親が語っていた難解な時勢の教えが、この一言によって完璧に繋がり、氷解していく!
「そうか……! そういうことだったのか……!!」
陳登は地面を凝視し、身体を震わせた。そしていきなり蘇然の前に進み出ると、これまでで最も恭しく、最敬礼の礼を捧げた。
「先生の至高のご教誨……心より感謝申し上げます!!」
蘇然は威厳たっぷりに「うむ」と頷いてみせた。
陳登は蘇然のどこまでも平然とした表情を盗み見ながら、戦慄していた。
(このお方は……普段はまったく能ある鷹を隠しておられるが、その胸中には恐ろしいほどの天地の計略が渦巻いているのだ……! もし……もし……)
ここに至り、陳登は腹を括った。長着の裾を払い、深く両手を合わせると、熱情を込めて叫んだ。
「乱世はすでに始まりました! 願わくは先生、この私に……『乱世を生き抜くための、真の学問』をお授けください!!」




