第十五章 揺れる夜心と、誓いの日
秀とともに家へ戻ってきた蘇然。
家に入るなり、秀はすぐさま洗面の鉢を運んできてくれた。その顔にはほのかな可笑しみが浮かんでいる。
「夫君、どうして先ほどあの方を騙されたのですか? 『忠野林陣』だなんて……くすくす……」
蘇然のもとで暮らすようになってから、秀も彼の珍しい口癖や言葉の意味を少しずつ理解できるようになっていた。「グッド」や「オー、ノー」、さらには「イケメン」や「美女」といった妙な言葉まで。
「騙してなんかいないさ!」
蘇然はシラを切って認めようとしなかったが、最後にボソッと呟いた。
「あの悪女がお人好しの俺の優しさを分かってないんだ。せっかく見逃してやったのに、君の前で俺の陰口を叩くなんて……『これに耐えるなら何に耐えられる』ってんだ!」
蘇然は手ぬぐいをバンッと机に叩きつけた。
秀は蘇然がパフォーマンスで怒ってみせているのだと分かっていた。呆れたように白目を向けて見せると、彼の持っていた手ぬぐいを受け取り、桶の水で洗って絞りながら言った。
「秀には、あのお方のお心が根から悪いようには見えませんでしたけれど……」
「ってことは、俺が悪いって言うのか?」
蘇然は目をつり上げ、わざと怒ったふりをした。
「夫君ったら秀をいじめて……ふふっ、秀が夫君の悪口など言うはずがございませんでしょう……」
「もういいよ、秀が言わないならそれでいいさ。どうせ二度と会うこともないだろうし、悩むだけ無駄だしな」
秀は室内を整えると、チラリと蘇然の顔を盗み見、小さな声で囁いた。
「もう遅い時間ですわ、夫君……そろそろ……お休みになりませんか……?」
(ドクン、ドクン……!)
蘇然の心臓が激しく跳ね上がった。
(た、大変だ! また一番過酷な時間がやってきたぞ……くそっ! 古代って夜になったら寝る以外にやることないのかよ!? お願いだから……!)
蘇然は固まったまま動けなかった。薄暗い燭台の灯りに、顔の引きつりがぼんやりと浮かび上がる。
秀は蘇然の様子を伺っていたが、息が荒くなり、耐えかねたように外へ走って門の閂を閉めに行った。……が、戻ってきても蘇然はまだ同じ姿勢で固まっている。
「夫君……?」
秀は恥ずかしさも忘れ、不思議そうに彼を呼んだ。
「ゴホンッ……!」
頭の中で何を妄想していたのか、秀の声に驚いた蘇然は咳払いし、気まずそうに言った。
「あー……秀、先に寝ててくれよ。俺はもう少し後で入るからさ」
(ふふっ……)
秀は一瞬で察した。そっと唇を噛み締め、艶やかな余韻を残すような眼差しを投げかけると、小さな歩幅でベッドへと向かった。
背を向けたままの蘇然の耳に、後ろから衣服が擦れ合う衣擦れの音が届く。全身の血が煮煮え立つような心地だった。
「夫君……」と秀が再び呼ぶ。
(ゴホン……! いや、俺が行きたくて行くんじゃないぞ? 秀が呼んだから行くんだ。妻の言うことを聞く奴はメシに食いっぱぐれないって言うしな……仕方ない、本当に仕方ないんだ……!)
変態的な妄想で自分を正当化すると、蘇然はロウソクの灯りを吹き消した。首を振りながらベッドへと歩み寄る。(もう少し大きくなってくれたら、俺もこんなに苦労せずに済むんだけどな……)
ようやくベッドに辿りついた蘇然は、縁に腰掛けて上着を脱ぐと、掛け布団の端を持ち上げて滑り込んだ。
(ドキッ……!)
一瞬にして、温かく柔らかい体温が寄り添ってきた。
蘇然は硬直し、心臓が破裂しそうになる。(秀、俺を焦らすなよ……お兄さん理性が保てなくなっちゃうから……!)
ゆっくりと、その温かい身体は内側へと移動していった。蘇然は安堵すると同時に、心のどこかでかすかな悔しさを覚えるのだった。
「夫君……」と秀が小さく囁いた。
「な……なに?」
「……ううん、なんでもないわ」
その後は長い沈静が訪れた。隣から聞こえる秀の規則正しい寝息を聞きながら、蘇然の胸の中の悔しさはどんどん広がっていく。
「秀、寝たのか?」
「寝ました!」
「…………」
蘇然は思わず吹き出しそうになった。寝ている人間が喋るわけがない。急に悪戯心が首をもたげ、手がゆっくりと内側へと伸びていった。
(ん……?)
蘇然の手の甲が、何か温かく柔らかい物体に触れた。
「んっ……」
暗闇の中に、秀の小さな艶っぽい声がはっきりと響いた。
二人は完全に凍りついた。指一本動かせない。
気まずさの極みの中で、蘇然は愚かにも思考を巡らせていた。(今、俺の手が触れたこの「部位」……一体どこだ? もしかして……)
胸の中の予想を確かめるため、蘇然の手が動いた。天に誓って言おう、彼はただ純粋に推測を検証したかっただけなのだ……!
手を裏返した瞬間、蘇然の頭の中に答えが閃いた。
(これ……秀の……お尻じゃないか……!)
答えが判明したのだから、さっさと手を引けばいいものを、今の蘇然にはどうしてもその手が離せなかった。そのすべすべとした触感が彼の心を心地よく刺激し、無意識のうちに手が優しく撫で動いてしまう。
「……んっ……」
秀の呼吸がどんどん荒くなっていく。暗闇で見えはしないが、頬はリンゴのように真っ赤に染まっているに違いなかった。
静かな時間がゆっくりと流れる……。
快感に流されかけていた蘇然だったが、ふと我に返り、冷や汗が吹き出した。今の状況を客観的に見て……(ヤバい! どうやって収拾つければいいんだよ……!?)
蘇然の左手は、いつの間にか秀の胸元の上でピタリと止まり、動かせなくなっていた。
(俺……まさかここまで大胆なことをしてたのか!?)
好奇心から少しだけ指先に力を込めると、秀の口から恥じらいに満ちた熱い吐息が漏れた。蘇然の胸も高鳴る。
(いくべきか、踏みとどまるべきか……それが問題だ!)
究極の選択である! 秀の年齢がもう少し大人であれば、蘇然はとうに野獣と化して飛びかかっていただろう。だが、十五、六歳の少女に対して、現代人の良心がどうしてもブレーキをかけさせるのだ。
蘇然は歯を食いしばり、ゆっくりと手を引き抜いた。身体を外側の縁へと戻し、胸の中で深いため息をつく。
秀は黙ったままだった。
しばらくして、蘇然が頭の中でさっきの余韻を噛み締めていると、隣からシクシクと押し殺した泣き声が聞こえてきた。
「秀……?」
蘇然は驚いて振り返った。
秀は声を出さずに泣いていたが、やがてその泣き声も静まった。
蘇然は焦って起き上がり、暗闇の中で身を乗り出す。秀の顔が涙で濡れているのが見え、完全にパニックになった。
「秀、ごめん! ごめんなさい! 今のはわざとじゃないんだ! 決して君を冒涜したくてやったわけじゃなくて……俺は……」
「……夫君は、秀がお嫌いなのですか……?」
秀の一言に、蘇然は白目を剥いて固まった。
「え……なぜ……?」
(感情の行き違いかよ!? 俺が「手を出した」ことに怒ってるんじゃなくて、「手を出さなかった」ことにショックを受けてたのか!?)
秀も身体を起こし、顔を背けて蘇然を見ようとしない。
「あー……実はさ、さっき俺も本当に理性が吹き飛びそうだったんだ……」
蘇然は頭を掻きながら言った。
「色気ってやつは本当に恐ろしいよな、ハハ、ハハハ……」
「もう……っ!」
その言葉を聞いた秀は、恥ずかしそうに頬を染め、胸のつかえが少し取れたようだった。
「ただね……」
「ただ……何ですの?」
秀は顔を忍ばせ、蘇然をじっと見つめた。
微かな月明かりの中、秀の涙に濡れた瞳を見て、蘇然は申し訳なさと愛おしさで胸がいっぱいになった。
「……ただ、君は少しだけ幼い気がしてさ。どうしても俺が気にしてしまって……」
「幼い……?」
秀は少し考えて理解すると、妙な顔をして言った。
「秀はすでに笄礼を迎えておりますのよ? なぜ幼いとおっしゃるのですか?」
「それは……」
蘇然は絶句した。(現代じゃ二十歳にならないと結婚できないんだよ)なんて言えるわけがない。
「夫……阿然は……秀がお嫌いなのですか?」
ついに「夫君」とすら呼んでくれなくなった。本気で悲しませてしまったらしい。
「嫌いなわけないだろ!!」
蘇然は慌てて秀を強く抱きしめた。こんなに素敵な許嫁を失ってたまるか。
秀は少しだけ抵抗してみせたが、やがて力を抜き、蘇然の胸にそっと身を預けた。
「夫君……」
「うん。俺の考えを聞いてくれ」
蘇然は頭の中で言葉を整えながら言った。
「いいかい? 俺たちはまだ正式な婚礼を挙げていないだろ? なのに手を出してしまうなんて、君に対して失礼だし、筋が通らないと思ったんだ。だから……」
「そうだったのですか……」
秀は深く頷き、心がすーっと軽くなった。
「秀が……夫君を誤解しておりましたのね……」
「そうだよそうだよ」
蘇然は秀を優しく横たわらせ、掛け布団を丁寧にかけてやった。
「ちゃんとかぶってろよ、風邪引くからさ」
「……では……」
秀は蘇然の腕をぎゅっと掴んで言った。
「夫君は、いつ秀を妻として娶り、天地の礼を挙げてくださいますの……?」
「良い日を選んで、挙式しよう……」
蘇然はふと、現代に残してきた母親の顔を思い出した。もしおふくろも一緒にタイムスリップしてくれていたら、どんなに良かっただろう……。
溜息をつきながら、蘇然は自分が今も秀を抱きしめていることに気づいた。この可憐な許嫁は、まるで甘える子猫のように蘇然の腕の中で小さくなっている。
(……これでいいんだな)
自分を繋ぎ止める秀の細い腕の力を感じながら、蘇然の心に温かい感情が満ちていく。天の悪戯か、あるいは互いが抱いていた孤独が、二人を引き寄せたのかもしれない。
「夫君……」
「ん?」
「ううん、なんでもありませんわ、ふふっ……」
「早く寝なよ。目の下にクマができるぞ」
「はーい……ふふっ」
(結婚……か……)
蘇然は暗闇の天井を見つめながら、感慨深く静かな夜の深まりを感じるのだった。




