第十四章 「忠野林陣」の謀略
「……今度は何の用だよ?」
蘇然は呆れ顔で振り返り、声を張り上げた相手を見つめた。
(なんだ? まだ懲りてないのかよ……)
その「公子」は、蘇然の小馬鹿にしたような視線に気づくと、心の中でフンと鼻を鳴らした。
(さっきは私が油断した隙に上手く嵌められたけれど、今度はそうはいかないわ! 私と張り合おうなんて、良い度胸じゃない!)
彼女は蘇然の身なりを頭から足先までジロジロと吟味し、ひとつの結論に達した。
(一言で言って……超フツー!)
(この私を謀るなんて……!)
銀歯をギリリと噛み締め、胸の中で猛烈に毒づく。
(この屈辱、タダで済ませるもんですか……!)
「まだ懲りないのか?」
蘇然は少し面白がっていたが、相手の身なりを見てふと察し、半ば呆れた。見るからに小さい頃からスプーンを咥えて育ったような金持ちのお嬢様だ。二十貫銭をドブに捨てても眉一つ動かさない。ちなみにその額は、今の俺の給料約二ヶ月分である。
蘇然は目をパチパチさせ、意地悪く言った。
「へえ〜、相当なお金持ちなんだな。さっき二十貫払ったばかりなのに……まさかまた二十貫出すつもりか?」
わざわざ痛いところを突かれ、男装の麗人は悔しそうに歯ぎしりした。
「フン! 二十貫どころか、二百貫だって痛くも痒くもないわ! 店主、後で私の手形を持って『糜家』へ来なさい。言った通りの金額を払わせてあげるから……!」
懐の手持ちが尽きたものの、意地でも負けたくない彼女は、ツケで引き落とさせる手に出たのだ。
「へえ〜……『糜家』ねぇ……」
蘇然は目を輝かせ、大げさなリアクションで驚いてみせた。
「そいつは失礼! さすがは豪商の糜家様だ、俺たち庶民とはスケールが違いますなぁ〜!」
(この人ったら……またあの人をハメようとしてるわ……)
秀は口元を押さえ、クスッと笑って黙っていた。
「フン!」
蘇然の「お世辞」を聞いた公子は、てっきり自分が威厳を示せたと思い込み、ますます調子に乗って青銅の腕輪を指さした。
「二貫銭ね? 私は倍の四貫銭出すわ!」
(うわぁ、マジで金持ちだな……羨ましい)
蘇然は心底羨ましく思いつつ、(いつか俺も金を金とも思わない生活をしてみたいもんだ……まあいい、まずはこの跳ねっ返りお嬢様にお仕置きだ!)と腹を括った。
蘇然は意地悪な笑みを浮かべると、口を開いた。
「一気に倍増とは恐れ入りましたねぇ。では俺は——四貫と『一文銭』出すよ!」
「な……なんですって……!?」
公子は聞き間違いかと思い、ぽかんと蘇然を見つめた。店主までもが呆然と固まっている。四貫と、一文銭……!?
「はあ〜……」
蘇然は秀に向かって大げさに溜息をつき、悔しそうなトーンで言った。
「糜家はお金持ちだから一気に倍出すんだもんなぁ……やっぱりすごいや。俺たちみたいな貧乏人は敵わないから、一文銭ずつ上乗せするしかないや……いやぁ、格差ってやつは悲しいねぇ〜」
(もう……夫君ったら……)
秀はうつむき、必死で笑いを噛み殺した。彼女は不思議そうに蘇然を見つめる。(夫君は一体どこでこんな嫌味なやり取りを覚えてきたのかしら。あの人、怒りで頭が破裂しちゃうわ……)
(破裂しそうなのは私よ!!)
男装の公子は蘇然の「面の皮の厚さ」を完全に甘く見ていた。殺意すら籠もった視線を浴びせても、蘇然は蛙の面に水である。
「なんだよ、何見てんだよ」
蘇然は視線をさらりと受け流し、ニヒヒと笑った。
「それで、糜家の『公子様』? まだ買い値を競り上げますか〜?」
『糜家』という言葉を持ち出されたことで、公子は引くに引けない状況に追い込まれてしまった。彼女は歯を食いしばり、悪滅滅と叫ぶ。
「上げるわよ! なんで上げないのよ、これくらいのお金、屁でもないわ! 六貫銭よ!」
「パチパチパチ!」
蘇然は拍手し、容赦なく追い打ちをかけた。
「さすが糜家! 太っ腹〜! じゃあ俺は、六貫と『一文銭』で……」
口では強気なことを言いつつも、蘇然の内心はヒヤヒヤだった。(万が一、このお嬢様が急に『じゃあ要らない』って降りたら、俺が六貫銭払うハメになる……大赤字だぞ……)
しかし蘇然は、その女子にとっての『糜家の看板』の重さを軽視していた。
彼女はさらに歯を食いしばり、数字を絞り出す。
「八貫銭よ!!」
隣の侍女は必死で主人の袖を引っ張っていた。侍女でさえ気づいているのだ。こんな競り合いに終わりはない。あの男は毎回一文銭しか上乗せせず、明らかに大嬢様をバカにして遊んでいるのだ。だが、大嬢様自ら買い取ると言い出し、おまけに『糜家』の名まで出されてしまった以上、後に引けない。このままでは何十貫どころか、何百貫跳ね上がるか分かったものではない……!
「へっへー、じゃあ俺は……」
蘇然がさらに「一文銭」を足そうとしたその時、隣にいた秀がそっと彼の袖を引いた。
「夫君……何事もやりすぎてはいけませんわ。もうそのくらいに……」
蘇然はハッと正気に戻った。
(そうだな……糜家は徐州トップの超大富豪だ。将来、糜竺って男が弟と一緒に劉備に仕えて、妹は劉備の側室になるんだっけか……。あ、待てよ? その妹って確か、最後は足手まといにならないように井戸に飛び込んで自害した……すげえ悲劇のヒロインじゃん。あんな立派な女性を、こんな意地悪でハメ殺しちゃ寝覚めが悪いな……まあ、目の前のこの女子がその妹本人かどうかは知らんが)
秀が頼んでくれたこともあり、糜家からの報復も少し怖かった蘇然は、考えを改めてあっさりと吐き捨てた。
「……もう要らないよ。君に譲るよ」
「え……?」
公子は半信半疑で蘇然を見つめた。あの意地の悪い無頼漢が、なぜ急に自分を解放してくれたのか?
ふと見ると、蘇然の隣にいる秀が何かを彼に話しかけていた。女子は直感した。この奥様が止めてくれたのだと。
一気に秀への好感度が跳ね上がった公子は、秀に向かって深く頷き、感謝の瞳を向けた。この件は下手をすれば糜家の百年の威信を傷つけるところだったのだ。
「お姉様、お名前は何とおっしゃるの?」
秀は相手の瞳に宿る善意を感じ取り、柔らかい声で答えた。
「妾は秀と申します……」
「秀お姉様……」
公子は秀を「お姉様」と呼び、助けてくれた感謝を込めて、手の中の青銅の腕輪を秀の手に押し付けた。
「お姉様、まさか私という妹を拒んだりなさらないわよね?」
「え……でも……」
秀は躊躇い、蘇然に視線を送った。蘇然は肩をすくめ、「好きにしろよ」と合図する。(貰っとけ貰っとけ! 秀が止めなきゃ今頃あいつは大損して破産してたんだからな!)
「……では、ありがとうございます」
秀は申し訳なく思いつつも、相手の強い熱意に押し切られ、ついに受け取った。
公子はニッコリと笑ったが、蘇然に向き直るやいなや、一瞬で鬼のような顔つきに変わった。
「この悪党! 秀お姉様があなたのような男につれそうなんて勿体なさすぎるわ! 名乗る度胸くらいあるかしら!?」
(おいおい! 見逃してやったのに感謝するどころか悪口かよ! カップ麺の調味料パックが毎回入ってない呪いをかけてやる……いや! 誰かの側室になる呪いにしてやる!)
「夫君のお名前は……」
秀が代わりに答えようとしたが、蘇然がそれを制した。
「名乗る度胸がないわけないだろ! いいか、よく聞け! 俺の名前は——忠野林陣だ!」
蘇然はドヤ顔で言い放った。
秀は呆然とし、吹き出しそうになるのを必死で耐えた。
秀が笑いをこらえきれなくなっているのを見て、蘇然は慌てて彼女の手を引いて店を飛び出した。歩きながら大声で捨て台詞を残す。
「覚えておけよ! 俺の名は忠野林陣だー!」
「……忠野林陣……?」
男装の公子は眉をひそめて考え込んだ。……ハッと顔を上げた時には、二人の姿はすでに影も形もなかった。
胸の中に、言いようのない悔しさと無力感がこみ上げてくる。まるで酷い理不尽に遭ったかのように、瞳にうっすらと涙が浮かんだ。
(今まで……今まで私をこんな風におもちゃにした奴なんて一人もいなかったのに……! 忠野林陣、覚えていなさい! 女の復讐は十年経っても遅くないんだから……!)
「小昭! 店主に手形を渡しなさい! 帰るわよ!」
「は、はい! 少……公子様!」




