第二十一章 時代の激震と、黄巾挙兵
糜竺は首を横に振りながら、陳府の門を出て行った。だがその表情を見る限り、難題は見事に解決したようであった。
陳登は独断で糜家へ米五百石を貸し出すことを決めた。半年のうちに同量を返却し、さらに二割を上乗せして謝礼とする。もし半年を超え、一年以内に返済する場合は三割を上乗せする……という条件だ。
糜竺の友人として、陳登は常々感服しているこの人物にかなりの配慮を示したわけだが、こと「蘇然」の件となると、陳登は一切の情を挟もうとしなかった。
糜竺が「もう一度だけ蘇然先生にお会いしたい」と乞うたものの、陳登は大反対。
(ここで貴殿に会わせたりしたら、うちのちょっと「天然」な先生が心変わりして、その深遠な学問を全部糜家に授けてしまうかもしれないじゃないか! そんなことになってたまるか!)
糜竺がどれほど説得しようと、陳登の答えはたった二文字、「無理!」の一点張りであった。
「あの陳元龍という男はまったく……」
糜竺は苦笑いしながら陳家の門をあとにしたが、胸の中では蘇然に対する好奇心がますます膨らんでいた。あの気位の高い陳元龍をあそこまで焦らせ、必死にさせるのだから、蘇然という男はタダ者ではない。
ふと、糜竺はある細かな出来事を思い出した。
先ほど利息の条件を話し合っていた際、陳元龍は弾くような速さで計算結果を弾き出し、自分が頭の中で暗算した数値と寸分違わぬ答えを弾き出してみせたのだ。
そしてその時の陳登の顔には、誇らしげな笑みと同時に、どこか「自分を誇る」ような安堵の表情が浮かんでいた……。
(元龍は昔から鼻持ちならないところがあったが、あの安堵の表情……。つまり、かつての彼にはあれほどの暗算能力はなかったということだ……)
(……先生、か)
(まさか……!?)
「やれやれ、陳元龍め!」
糜竺は呆れ返ると同時に、思わず吹き出してしまった。彼がなぜ「蘇然に会いたい」と言った瞬間に色めき立ち、追い払うように米を貸し出してくれたのか、ようやく理解できたのだ。
(私が先生を拉致して連れ去るとでも思ったのか?)
「はぁ……」
糜竺は振り返って陳府の巨大な屋敷を見上げると、胸の中に一筋の寂しさを漂わせながらポツリと呟いた。
「公良よ……優秀な帳簿方を何人手に入れたところで何になろう。手に入れるべきは、あの蘇然・蘇守義殿なのだ……」
その時、一陣の冷たい風が吹き抜け、糜竺の思索を打ち切った。彼はハッと正気に戻り、自分の考えに深く恥じ入った。
(……元龍は誠意をもって私に接してくれたのだ。それを横取りしようなどとは、名士のやるべきことではないな。今の考えは二度と口にしてはならん)
一方、客間に残った陳登は茶碗を手に座り込み、溜息をついていた。
「子仲兄は昔から風雅なお方だと思っていたが、今日は脅しのような手段まで使ってくるとは……」
自分が拒絶すると、糜竺は「では蘇先生に直接お会いして相談してみよう」などと言い出し、暗に決断を迫ってきたのだ。そんな真似を許せるはずがない。もし会わせたら、先生の弟子が「陳」ではなく「糜」になってしまう!
だからこそ当機立断で米五百石の貸し出しを呑み、さっさと追い返したのだ。
(……待てよ? そういえば先生も、子仲兄に妙に興味を示していたような……)
そこまで考えが至ると、陳登は背筋に冷や汗が走り、恐ろしくなって考えるのをやめた。急いで立ち上がり、帳房へ向かおうとしたその時——
「こ、公子……!」
「ん?」陳登は息を切らせて走ってくる孫茂を見て眉をひそめた。「宣揚、どうしたのだ?」
「た、大変です!」孫茂は横腹を押さえ、苦しそうに陳登を見つめた。「大事件です!」
「落ち着け、何があった?」
「む、謀反です! 叛乱が起きました!」
「戯言を!」陳登は目を細めた。「お前、先生のそばに数日いたからといって、大袈裟な口の利き方まで伝染したのか?」
「ち、違います! 『張角』が……立ち上がったのです!」
「張角……!?」陳登の顔から余裕が消えた。
「はい! 街中に報せが駆け巡っております!」孫茂は息を整えながら捲し立てた。「唐周という男が朝廷に張角の謀反計画を密告したらしく、追いつめられた張角が開き直って挙兵したとのことです! 連座して、大将軍様に捕まった馬元義という幹部は、都で首を斬られて晒し者にされたとか……!」
「……こんなに早くか!?」
陳登は呟くと、即座に命令を下した。
「直ちに陳家の者を全員召集しろ! 地方に散っている者にも大至急連絡を回し、徐州城へ呼び戻すのだ! それと、米の買い付けをさらに加速させよ。銅銭の出し惜しみはするな!」
「ですが公子……もう誰も米を売ってくれませんよ……」孫茂がボソッと呟いた。
(そんなことは百も承知だ!)
陳登は心の中で頭を抱えた。糜家に米五百石を貸し出すと約束した直後に、張角が挙兵するとは。先生の言葉を借りるなら——『くそっ、冗談じゃないぞ!』という心境であった。
「……できる限りでよい、急げ!」
陳登は頷くと、もはや帳簿部屋へ行くのも取りやめ、父(陳珪)へ報告すべく奥の部屋へと急いだ。
「……張角が造反した!?」
蘇然は目を丸くし、秀を見つめた。信じられないという顔だ。
史実によれば、黄巾の乱が起きるのは「中平元年」のはずだ。今はまだ「光和六年」じゃないのか!?
「ええ、夫君!」秀は不思議そうな顔で蘇然を見た。「近所の方々が皆そう噂しておりますわ。馬元義というお方が都で処刑されたとか……」
「そんな……歴史が変わっちまったのか……!?」蘇然は焦り始めた。
「そういえば夫君、先ほど役人様が触れ回っておりましたが、朝廷が年号をお改めになるそうですわ。年が明けましたら、これからは『中平』と呼ぶのだとか……」
「……」
蘇然は言葉を失って秀を見つめた。(それを先に言えよ! 肝を冷やしただろ!)
つまり、年号の改元と重なっているだけで、張角の挙兵自体が一年繰り上がったわけではないのだ。よかった、歴史の大筋はまだ崩れていない。
……だが、蘇然には一つ解せないことがあった。なぜ張角は、計画が漏れたとはいえ、これほど急ピッチで蜂起に踏み切ったのだろうか……?
蘇然が首をひねっていたその頃——密告によって計画が露呈し、夜を徹して挙兵した張角のもとでは、数十万の信徒を前にした歴史的な大演説が行われていた。
「蒼天すでに死す! 黄天当に立つべし! 歳は甲子に在りて、天下大吉!」
「蒼天すでに死す! 黄天当に立つべし! 歳は甲子に在りて、天下大吉!」
「蒼天すでに死す! 黄天当に立つべし! 歳は甲子に在りて、天下大吉!」
数万の人間が地鳴りのような歓声を上げるその光景は、恐ろしいほどの熱気に満ちていた。もし蘇然がここにいれば、その壮絶な熱量に言葉を失ったであろう。
「兄上! 我らは朝廷に叛旗を翻したのです、我ら自身の『称号』を掲げるべきです!」
弟の張宝が声を張り上げた。
「二兄の言う通りです! 兄上は『天皇』と名乗り、二兄と私は『地皇』『人皇』と称しましょう!」
三弟の張梁も同調した。
「だめだ! それはだめだ!」
張角は眉をひそめ、頭を振った。
「我らは天に代わって世を正す者。どうして軽々に『皇』などと称することができようか!」
「では兄上、いかがなさるのです!?」
張宝は期待に満ちた目で自分たちを見つめる数万の兵士を見やり、焦れったそうに尋ねた。
張角はしばらく深く思案したあと、前へ一歩踏み出し、腹の底から声を張り上げた!
「本日より! この張角は『天公将军』と名乗る! 天下の不平を平らにし、天に代わって悪を討ち、暴漢王朝を倒す! もし私心あれば、天地これを受け入れん!」
「天公将軍……! ならば私は『地公将軍』だ!」
張宝も一歩前へ出ると、張角に続いて叫んだ。
「本日より! この張宝は『地公将軍』と名乗る! 天下の不平を平らにし、天に代わって悪を討ち、暴漢を倒す! もし私心あれば、天地これを受け入れん!」
続いて張梁が進み出た。
「本日より! この張梁は『人公将軍』と名乗る! 天下の不平を平らにし、天に代わって悪を討ち、暴漢を倒す! もし私心あれば、天地これを受け入れん!」
「天に従い正しきにつき、もって太平を享受せん!」
「天に従い正しきにつき、もって太平を享受せん!」
「天に従い正しきにつき、もって太平を享受せん!」
数万の叫びが天を突いた。
こうして、中国史上に名を残す巨大な民衆反乱「黄巾の乱」が、圧倒的なスケールで開幕したのである。四方から貧しい庶民がなだれ込み、わずか数日のうちにその勢力は数十万に膨れ上がった。官軍はその圧倒的な怒涛の前に、ただ風に吹き飛ぶ木の葉のように逃げ惑うばかりであった。




