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限界社畜のVR開拓記〜クビになったらVIP客が元職場を滅ぼした〜  作者: 伊達ジン


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9/50

第9話 静かなる逆鱗

 朝の光が薄いカーテンを透かし、6畳間のフローリングに四角い模様を描き出していた。

 開け放たれた窓からは、初夏の少しだけ湿気を帯びた空気が流れ込み、部屋の淀んだ空気を緩やかに循環させている。


「きゅ、きゅうっ」


 小さな足音がタタタッと鳴り、直樹の足元に柔らかな塊がぶつかってきた。

 チワワのこむぎだ。我が家に来て数日、すっかり環境に慣れたこむぎは、目覚めると同時に尽きることのない好奇心を発揮していた。

 今は直樹が脱ぎ捨てたスリッパを強大な敵と見なしたのか、前足を広げて低く身構え、短い尻尾をピンと立てて威嚇している。ひとしきり「ヴー」と愛らしい唸り声を上げた後、スリッパの先端をガブリと噛み、自慢げに直樹の方を振り返った。その一生懸命な姿に、直樹の口元から自然と笑みがこぼれる。


「よしよし、よくやったな。強いぞ」


 直樹がしゃがみ込んで頭を撫でてやると、こむぎはスリッパを放り出し、直樹の手のひらに顔を擦り付けて全身で喜びを表現した。ペロペロと指先を舐める小さな舌の感触と、小さな心臓の早い鼓動が手のひらから伝わってくる。温かく、ひたむきな命の重みだった。


 休日の朝。本来であれば、溜まりに溜まった疲労で昼過ぎまで泥のように眠り、起きた後は頭痛と胃の不快感に苛まれながらコンビニ弁当を流し込むだけの時間だった。

 しかし今の直樹は、朝から自分のために豆を挽いてコーヒーを淹れ、こうして小さな命と触れ合う余裕すら持っている。VR世界で得られる完全な休息と疑似的な自然体験が、現実の直樹の精神と肉体を劇的に修復していた。

 カップから立ち上る湯気を吸い込み、一口含む。深煎りの苦味が、クリアになった頭に心地よく染み渡る。


 直樹がコーヒーカップを手に取り、ソファに深く腰を下ろしたその時だった。


 テーブルの上に置いてあったスマートフォンが、無機質な振動音を立て始めた。

 画面に表示された名前は『佐々井部長』。


 直樹は無言でカップを置き、通話ボタンをスワイプした。


『おい! 杉本か!』


 耳に突き刺さるような怒声。直樹は少しだけスマホを耳から離した。


「はい。何かありましたか」

『何かありましたか、じゃねえよ! 昨日の監査のせいで役員がカンカンだ! 今日明日の土日返上で、過去3年の労働時間の再計算と開発スケジュールの引き直しをやる! 今すぐ会社に来い!』


 佐々井の声は完全に裏返っており、背後からは複数の怒号や物が落ちるような音が聞こえていた。おそらく、一部の隠蔽工作が早くも監査チームに露見し、パニックに陥っているのだろう。


 直樹は窓の外の青空に目を向け、淡々と答えた。


「お断りします。本日は所定の休日であり、事前の休日出勤命令も受けていません。それに、私の担当していた開発タスクはすでに完了しています」

『理屈をこねるな! お前が勝手に帰ったせいだろうが! いいから来い、これは業務命令だ!』

「先方の監査部門が入っている最中に、36協定を無視した違法な休日出勤を強要するんですか。無理な稼働記録を作れば、さらに状況が悪化すると思いますが」

『っ……てめえ……!』

「月曜日には出社します。それでは」


 直樹は佐々井の次の言葉を待たずに通話を切り、そのまま電源を落とした。

 足元では、こむぎが不思議そうに首を傾げてこちらを見上げている。


「気にするな。ただの雑音だ」


 こむぎを抱き上げ、その温かい身体を胸に抱いたまま、直樹はベッドの傍らに置かれたVRヘッドギアに手を伸ばした。


★★★★★★★★★★★


 波の音が一定のリズムを刻み、海から吹き抜ける風が心地よく火照った頬を撫でていく。どこまでも透き通った青い海と、白い砂浜。


 VR空間にダイブした直樹は、ログハウスの縁側に腰掛け、静かに目を閉じていた。

 午前中に畑の拡張と新しい果樹の苗植えを済ませ、心地よい疲労感に包まれている。乾いた土を耕し、種を蒔くという単純な作業は、複雑に絡み合ったコードを解読する現実の仕事とは違い、目に見える確かな成果となって直樹の心を満たしていた。

 現実のストレスを忘れるためにログインしたはずだが、思いのほかあの電話の余韻が頭の片隅にこびりついていた。


 隣では、エミが気持ちよさそうに寝息を立てている。その向こうでは、シルフィが直樹の淹れたハーブティーを飲みながら、静かに読書を楽しんでいた。直樹の膝の上では、いつの間にか現れた聖獣のルナが丸くなっている。


 この静寂と平穏。誰にも脅かされることのない、自分だけのオアシス。

 直樹の意識は、ゆっくりと微睡みの底へと沈んでいった。


 現実の部屋でこむぎが鳴いた時に備え、直樹は環境モニタリング機能のマイク感度を少し高めに設定したままだった。

 それが、思わぬ形で機能することになるとは知らずに。


 直樹が深い眠りに落ちて数十分後。


『――おい!! 杉本!!』


 突然、縁側の空間そのものから、割れ鐘のような男の怒鳴り声が響き渡った。


「……っ!?」


 シルフィが驚いて本を取り落とし、エミがビクッと肩を跳ねさせて目を覚ました。ルナも耳をピンと立てて周囲を警戒している。


『おい! 電源切りやがって! これ聞いてるんだろ、今すぐ折り返せ!』


 声は、直樹の周囲に展開された不可視のシステムウィンドウから漏れ出ていた。

 現実世界で、直樹の社用携帯に着信が入り、VRシステムの環境モニタリングがそのスピーカー音声を拾ってゲーム内に中継してしまったのだ。


 直樹はピクリと眉をひそめたが、深い眠りの中にあるのかすぐには目を覚まさない。


『いいか杉本直樹! てめえのせいでダークネス・システムズは終わりなんだよ! お前がチンタラ仕事してたから監査に目をつけられたんだろうが! 責任取れ! 今すぐ会社に来てデータを消せ! 聞いてんのか!!』


 汚い罵倒と、責任転嫁の怒号。

 それは、この美しく平穏なリゾートには到底そぐわない、醜悪な現実のノイズだった。

 鳥のさえずりも、波の音も、その瞬間だけは凍りついたようにかき消された。


 やがて留守番電話の録音時間が切れたのか、プー、プーという無機質な電子音と共に、空間は再び波の音だけの静寂を取り戻した。


 エミが、呆然とした顔でシルフィを見た。


「……なに、今の」


 シルフィは答えない。

 彼女は床に落ちた本を拾うこともせず、ただ静かに、眠り続ける直樹の顔を見つめていた。


(杉本直樹。ダークネス・システムズ……)


 シルフィの脳内で、バラバラだったピースが完璧な形で1つに組み上がった。

 昨日、彼女自身が「契約を凍結し、徹底的に監査を入れろ」と命じた下請け企業。

 そこで、すべての負荷を背負わされ、30連勤という異常な労働を強いられていた、過労死寸前の有能なプロジェクトマネージャー。


 まさか。そんな偶然があるはずがない。

 だが、あの声が呼んだ名前と社名は、紛れもなく一致していた。


 餓死寸前だった自分に、温かい手料理を振る舞ってくれた男。

 たった数時間で極上のヒノキ風呂を作り上げ、不器用ながらも確かな気遣いで自分の心を救ってくれた男。

 大人の余裕と、どこか諦めたような疲労感を漂わせていた、32歳のエンジニア。

 彼は自分の仕事の遅れなどではなく、無能な上層部の尻拭いを1人で背負わされ、あのような暴言を日常的に浴びせられているのだ。


 シルフィの銀色の瞳から、柔らかな光がすっと消え失せた。


「……ナオ」


 シルフィが低く呟いた声には、冷たく研ぎ澄まされた静かな怒りが孕んでいた。


「シルフィ? ちょっと、顔が怖いんだけど……」


 エミが戸惑いながら声をかける。

 シルフィはゆっくりとエミの方へ顔を向けた。


「エミ。彼が現実で、どんな扱いを受けているか知っているかしら」

「え?」

「私が耳にした情報が正しければ……彼は現実で、1ヶ月以上も家に帰れず、あの電話の男のような上司からすべての責任を押し付けられ、命を削って働かされているわ」


 エミの狐耳が、ピクリと反応した。


「……ナオが? 嘘でしょ。だってナオは、こんなに美味しいご飯を作ってくれて、すごく優しくて……」

「そうよ。彼は有能で、優しすぎる。だから、あんな連中にいいように搾取されているの」


 シルフィは立ち上がり、直樹の傍らまで歩み寄った。

 彼の寝顔は穏やかだが、よく見れば眉間に微かな皺が寄っている。現実での過酷な状況が、VRでどれだけ癒やそうとも完全に消え去ってはいないのだ。

 彼が提供してくれたこの場所の平穏は、彼自身の身を削った上に成り立っている危ういものだった。


「私たちのこの安息の場所を、ナオの優しさを、食い物にしているなんて」


 シルフィの握りしめた拳が、微かに震えていた。

 それは悲しみではない。自らの最も大切な領域を土足で踏み荒らされたことに対する、純粋な怒りだった。

 彼を搾取し、あまつさえその責任を彼1人になすりつけようとする者たちを、シルフィの矜持が許すはずがなかった。


 エミもまた、ゆっくりと身を起こした。

 普段のだらしなく口を開けている顔はない。


「……許せない」


 エミの背後で、巨大な白い尻尾がブワッと逆立った。


「ナオは私のご飯係よ。それに、私にこんな場所を作ってくれたの。そのナオに向かって、あんな汚い声で怒鳴るなんて。絶対に許さない」


 エミの冷たい声が、縁側に低く響く。

 彼女にとっても、ここは現実のしがらみから逃れられる唯一の聖域だった。その中心にいる男を不当に貶める声は、彼女の心の底にある逆鱗に触れるのに十分だった。


「シルフィ。あなた、何かあの男の会社について知ってるのよね」

「ええ。たまたまね。私が現実で少しだけ手配をしたところだったの」

「足りないわ」


 エミは無表情のまま、直樹の足元で怯えたように縮こまっているルナを一瞥した。


「ただ会社を潰すだけじゃ生温い。ナオの時間を奪い、あんな声を出させた連中には、相応の報いを受けてもらわないと。ねえ、そうでしょ?」


 シルフィは、エミの目を見て静かに微笑んだ。


「同感よ、エミ。私の癒やしスポットを脅かすとは、万死に値するわ。徹底的に追い詰めましょう」

「ええ。私も手伝うわ。どうなるか楽しみね」


 2人の女性は、眠り続ける直樹を挟んで静かに視線を交わした。


「……ん?」


 不意に、直樹が小さく唸り声を上げて目を開けた。

 まばたきを数回し、自分の周囲に立つ2人を見上げる。


「悪い、寝落ちしてた。なんだか、嫌な夢を見たような気がするんだが……」


 直樹が上体を起こすと、シルフィとエミは先ほどの冷酷な顔を瞬時に隠し、いつもの柔らかな表情に戻っていた。


「おはよう、ナオ。少し寝汗をかいていたみたいよ。お水、飲む?」


 シルフィが優しく木製のコップを差し出す。


「ナオ〜、起きたならおやつにして! 私、甘いものが食べたい!」


 エミがいつものように尻尾を揺らしながら甘えた声を出す。


「ああ、分かった。今、果物を切る」


 直樹は立ち上がってかまどの方へと向かっていった。

 その後ろ姿を見送る2人のヒロインは、静かに頷き合った。

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