第10話 肩こり限界の双剣士
休日の朝は、微かな爪音がフローリングを叩く音で始まった。
杉本直樹がベッドの上で薄く目を開けると、視界のすぐ端、鼻先から数センチの距離で、潤んだ大きな黒い瞳がこちらを覗き込んでいた。
「きゅう」
チワワのこむぎが、短い尻尾をちぎれんばかりに振りながら、小さな舌で直樹の鼻先をぺろりと舐めた。
「……おはよう、こむぎ」
直樹が上体を起こして頭を撫でてやると、こむぎは「待ってました」とばかりに前足を直樹の膝にかけ、早く早く、と急かすように小さく足踏みをした。その小さな温もりが、手のひらを通じて直樹の心にじんわりと染み込んでくる。
時計を見ると、午前7時を回ったところだった。アラームもかけていない休日に、これほど自然に、しかも心地よい疲労感の抜け切りとともに目覚めたのはいつ以来だろうか。少なくとも、このボロアパートに引っ越してきてから初めてのことかもしれない。
ベッドから降りた直樹の後を、こむぎがタタタッとリズミカルな足音を立ててついてくる。
キッチンに立ち、子犬用のドッグフードを小さなボウルに取り分ける。まだカリカリのままでは食べにくいだろうと、少しだけお湯を足してふやかしてやる。その間も、こむぎは直樹の足元を八の字にぐるぐると回りながら、時折見上げて「きゅんっ」と愛らしい声で催促を続けていた。
「よし、待て。……よし」
ボウルを床に置くと、こむぎは一目散に顔を突っ込み、小さな体を震わせながらハフハフ、チャチャチャッ、と元気な音を立てて食べ始めた。フードがお湯を含んで放つ独特の匂いすら、直樹には愛おしい生活の匂いに感じられた。
食べるのに夢中になっている小さな背中を見下ろしながら、直樹は自分用のコーヒーメーカーのスイッチを入れた。豆が挽かれ、ドリップされる香ばしい匂いが部屋に広がる。
ふと、テーブルの上に裏返して置かれたままのスマートフォンが視界に入った。
昨日、VRダイブ中に環境音として響き渡った佐々井部長のヒステリックな怒号。あの後、直樹は迷うことなくスマートフォンの電源を落とし、仕事用のチャットツールの通知もすべて切った。
週明けに出社すれば、確実に大目玉を食らうだろう。最悪の場合、何らかの懲戒をチラつかせて脅されるかもしれない。だが、不思議と直樹の心に恐怖や焦りはなかった。
(俺の代わりなんていくらでもいる、か)
佐々井が吐き捨てた言葉を思い出す。確かにその通りだ。会社というシステムにおいて、一人の人間は交換可能な歯車に過ぎない。自分が倒れても、別の誰かがその穴を埋め、システムは回り続ける。だったら、自分が壊れるまでその場所にしがみつく理由などない。
足元で、ボウルをきれいに舐め回したこむぎが満足そうに口の周りをペロペロと舐め、直樹のスリッパの上にあごを乗せてくつろぎ始めた。この小さな命の面倒を見る。休日の朝に美味いコーヒーを飲む。そして、あの島で木を切り、飯を作る。
今は、そのささやかな実感だけがあれば十分だった。
「さて、と」
コーヒーを飲み干し、こむぎの腹が膨れて二度寝の態勢に入ったのを見届けると、直樹はベッドの傍らに置かれた黒いVRヘッドギアを手に取った。
★★★★★★★★★★★
波の音が、心地よいサラウンドとなって直樹を包み込んだ。
ログインと同時に、澄み切った海風が肺を満たす。直樹は大きく深呼吸をし、昨夜のうちに仕込んでおいた作業の続きに取り掛かった。
かまどの火を落とさないよう薪をくべ、石鍋で湯を沸かす。朝食は、昨日海で採った海藻と、すりつぶした木の実を合わせた粥だ。胃に優しく、エネルギー効率もいい。
「おはよう、ナオ」
縁側の方から、落ち着いた声がした。振り返ると、シルフィが初期装備の白いワンピース姿で立っていた。長い銀髪が朝の光を反射してきらきらと輝いている。すっかりこの島の生活に馴染んだ彼女は、穏やかな表情で朝の空気を吸い込んでいた。
「おはよう。粥ができてるが、食べるか?」
「ええ、いただくわ。……ねえ、ナオ。少し相談があるのだけど」
シルフィは木製の椀を受け取りながら、少しだけ申し訳なさそうに上目遣いで直樹を見た。
「なんだ」
「今日、この島に私の友人を一人、呼んでもいいかしら」
直樹は粥をかき混ぜる手を止めず、軽く首を傾げた。
「ここは誰の所有物でもないフリーエリアだ。俺に許可を取る必要はないだろう」
「そうだけど、ここはあなたが作ってくれた大切な場所だから。勝手なことをして気分を害したくなかったの」
シルフィは真剣な目でそう言った。
「そうか。まあ、俺は構わない。来るなら昼飯の量も増やしておくが、どんな奴だ? アレルギーとか、嫌いな食べ物はあるか」
直樹の自然な気遣いに、シルフィの口角がふっと上がる。
「ありがとう。好き嫌いはないはずよ。ただ……彼女、少し働きすぎなの。現実の仕事に追われて、まともな食事も睡眠もとっていない。少し前の私みたいにね」
「なるほど」
直樹は火加減を調整しながら頷いた。
「分かった。風呂も沸かしておく。何時頃来るんだ?」
「……今すぐよ」
シルフィが空中で指を弾くようにシステムメニューを操作した。
直樹が振り返った先、砂浜と森の境界付近の空間が、水面に石を投げ込んだようにぐにゃりと歪んだ。淡い光の粒子が集束し、そこに一人のプレイヤーの姿が実体化する。
現れたのは、褐色の肌を持つダークエルフの女性だった。
シルフィと同じように長く尖った耳を持っているが、髪は夜の闇のように深い黒で、後ろで無造作に束ねられている。身に纏っているのは、動きやすさを重視した革製の軽鎧。腰には二振りの小太刀を下げている。双剣士というクラスのアバターだ。
だが、その勇ましい装いとは裏腹に、彼女の放つ空気はひどく刺々しく、同時に今にも倒れそうなほど張り詰めていた。
「……ちょっと、幸……じゃなくて、シルフィ。どういうつもり?」
ダークエルフの女性は、現れるなり低い声でシルフィを睨みつけた。
「高価なパーティー召喚アイテムなんて使って、無理やり呼び出すなんて。私、あと1時間でロンドンのクライアントに送るNDAのドラフトを切らないといけないのよ。こんな何もないエリアに引きずり込んで、何の冗談?」
早口でまくしたてる彼女の声には、隠しきれない苛立ちと、極度の疲労が滲んでいた。
「おはよう、リヴィ。相変わらず眉間のシワが深いわね」
シルフィは涼しい顔で、直樹の作った粥を一口すすった。
「シワにもなるわよ! あなたこそ、ここ数日連絡が取れないと思ったら、こんな初期エリアで何をしてるの。先方の監査対応の件で、法務からあなたに確認したいことが山ほど……」
「仕事の話は禁止よ、リヴィ」
シルフィがピシャリと言い放つ。
「あなたはもう72時間、まともな睡眠をとっていないでしょう。アバターのステータス画面にも『過労』のアラートが出ているはずよ。そのままじゃ、ドラフトの条項を見落とすわ」
「……っ、それは……」
リヴィと呼ばれたダークエルフは言葉に詰まり、忌々しげに自分の肩を揉むような仕草をした。
直樹は、少し離れた場所からそのやり取りを静かに観察していた。
褐色の肌を持つ整った顔立ちだが、その目元にははっきりとした疲労の色が浮かんでいる。何より直樹の目を引いたのは、彼女の不自然な姿勢だった。
肩が極端に内側に入り、首の筋が異様に張っている。アバターの挙動は現実のプレイヤーの身体感覚をある程度トレースする。あれは、長時間モニターに噛みつくようにして書類を読み込み続け、極度の緊張状態から交感神経が昂りっぱなしになっている人間の特有の姿勢だった。同僚のエンジニアたちが、限界を迎えて潰れていく時に見せていたのと同じ兆候だ。
直樹は無言でかまどから離れ、ログハウスの横にある天然の冷蔵庫から、昨日作っておいた果実水を取り出した。
「おい」
リヴィがシルフィに詰め寄ろうとしたところに、直樹が声をかけた。
「え?」
リヴィが振り返る。そこに麻の服を着たただの男が立っていることに、彼女は今気づいたようだった。
「あんた、目が真っ赤だ。そのままじゃ頭痛で画面の文字も読めなくなるぞ」
直樹は木製のコップに冷たい果実水を注ぎ、リヴィの前に差し出した。
「とりあえず、これでも飲んで座れ。話はそれからでいい」
リヴィは警戒するように目を細め、直樹と、差し出されたコップを交互に見た。
「……誰? NPC?」
「ナオよ。この島を作った主。私の……命の恩人ね」
シルフィが微笑みながら口を挟む。
「命の恩人……? 何を言っているの、シルフィ。それに、見ず知らずの人から出されたものを簡単に口にするほど、私は不用意じゃないわ」
リヴィは冷たく言い放ち、直樹から視線を外した。国際的な企業法務やM&Aの世界で生きる彼女にとって、隙を見せることは即ち敗北を意味する。現実世界の癖が、この仮想空間でも抜け切っていなかった。
直樹は気分を害した様子もなく、ただ淡々と口を開いた。
「毒なんて入ってない。ベリー系の果実と、少しのミント、それに岩塩とハチミツを混ぜただけの果実水だ。眼精疲労に効く成分が入ってる」
「だから、そういう問題じゃ……」
「あんたの右肩」
直樹の低い声が、リヴィの言葉を遮った。
「無意識に庇ってるな。マウスの使いすぎか、長時間のタイピングのせいか知らないが、首から肩にかけてかなり張ってるみたいだ。そのまま放置すれば、近いうちに右腕に痺れが出るぞ」
「……っ」
リヴィの肩が、ビクッと跳ねた。
図星だった。数日前から右の首筋から肩甲骨にかけて、焼け付くような痛みが走り、鎮痛剤と湿布で誤魔化し続けていたのだ。なぜ、初対面の、しかもゲーム内のアバターを一目見ただけで、そこまで正確に言い当てられるのか。
「風呂、沸いてるぞ。そういう芯の凝りは、まずはしっかり温めないことにはどうにもならない。入ってくるか?」
直樹は押し付けるでもなく、ただ事実としてそう告げた。
リヴィは、目の前に立つこの男を見上げた。
数分前まで、あと1時間でロンドンにドラフトを送らなければと焦燥感に駆られていた自分はどこへ行ったのだろうか。身体が、これ以上の労働を明確に拒絶している。代わりに、目の前の男が提案する圧倒的な休息という誘惑に、理性が音を立てて白旗を上げていた。
リヴィはコップを半ば無意識に受け取り、口に運んだ。
冷たい液体が食道を下っていく感覚が、熱を持っていた脳を静かに冷やしていく。同時に、ベリーとハチミツの自然な甘みが、強張っていた全身の細胞にじんわりと染み渡るのが分かった。
「おいし……っ」
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
リヴィはコップを両手で握りしめ、ごくごくと音を立てて一気に中身を飲み干した。大きく息を吐き出すと、彼女の褐色肌にほんのりと赤い血色が巡る。
直樹は空になったコップを受け取りながら、いつもの落ち着いたトーンで言った。
「バスタオル代わりの布は脱衣所に置いてある」
「……入る」
リヴィはぽつりと、掠れた声で呟いた。
「サウナもあるわよ、リヴィ」
隣で粥を食べ終えたシルフィが、少しだけ勝ち誇ったような笑顔で付け加える。
「……行くわ」
リヴィはフラフラと歩き出し、直樹が指差した湯屋の方へと吸い寄せられるように向かっていった。その後ろ姿には、国際弁護士としての隙のない威厳も、双剣士としての勇ましさも、欠片も残っていなかった。
「……で、あいつは一体何者なんだ?」
湯屋に消えていくリヴィを見送りながら、直樹がシルフィに尋ねた。
「私の大切な友人よ。少し不器用だけど、すごく優秀な弁護士。かなりガタが来てるみたいだったから、少しでも休ませてあげたくて」
「なるほどな。まあ、上がってきたら少し肩周りでもほぐしてやるか」
「ええ、お願いするわ」
直樹が再びかまどの前に戻り、昼食の仕込みを始める。シルフィはその背中を見つめながら、静かに微笑んだ。
辺境の島に、一定のリズムを刻む波の音と、薪がパチパチと爆ぜる温かな音だけが響いていた。




