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限界社畜のVR開拓記〜クビになったらVIP客が元職場を滅ぼした〜  作者: 伊達ジン


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第11話 氷の刃の融点

 湯屋の扉を開けた瞬間、リヴィの鼻腔を清涼感のある香りが突き抜けた。


 脱衣所で初期装備の麻の布を纏い、洗い場を抜けてサウナ室の分厚い木戸を開ける。内部は薄暗く、中央に積まれた石の炉から圧倒的な熱気が放射されていた。

 だが、息苦しさはない。炉の脇には木桶が置かれており、柄杓が添えられている。ただの水ではない。水面にはペパーミントやユーカリに似た、いくつかの薬草とハーブが浮かんでいた。


 リヴィは柄杓でそのハーブ水を掬い、熱されたサウナストーンの上にゆっくりと掛けた。


 ジュワァァァッ。


 弾けるような音と共に、熱の塊が爆発的に膨張し、室内の上部から降り注いでくる。同時に、鼻の奥から脳天までを突き抜けるような、鮮烈で爽やかなハーブの香りが充満した。


「……っ」


 一段高いベンチに腰を下ろしたリヴィの肌から、瞬く間に汗が噴き出し始める。

 冷房の効いたオフィスで長年滞らせていた血流が、熱波によって一気に押し流されていく感覚。焼け付くように痛んでいた右肩から首にかけての筋肉が、アロマの成分を伴った深呼吸と共に内側から強引にほぐれていく。


 あと1時間でロンドンに送らなければならなかったNDAのドラフト。明日提出予定のデューデリジェンスの報告書。無能なクライアントの顔。

 脳髄にこびりついていたそれらのノイズが、汗の粒と一緒に体外へ排出され、蒸発していくのがわかった。


 極限まで熱に耐え、サウナ室を飛び出す。

 すぐ横に用意された湧き水の水風呂へ向かい、冷たさに一瞬息を呑みながらも肩まで身を沈めた。

 皮膚の表面が急速に冷却され、熱を閉じ込めた体内との間に強烈な温度差が生まれる。心臓の鼓動が早鐘を打ち、ドクン、ドクンという音が耳の奥で鳴り響く。


 数十秒後、水風呂から上がり、ふらつく足取りで湯屋の外のベンチに倒れ込んだ。


 午前中の明るい陽光の下、初夏の爽やかな海風が濡れた肌の熱を心地よく奪っていく。

 視界が澄み渡り、張り詰めていた頭の芯がじんわりとした麻痺に包まれた。ベンチに背中を預けると、重かった身体がふわりと軽くなる感覚があった。


(私……なんで、あんなに焦っていたのかしら……)


 完璧な弁護士としての理性が、ハーブの香りと極限の温度差の前に、音を立てて崩れ去っていた。


★★★★★★★★★★★


 湯屋から出てきたリヴィは、足元がおぼつかない様子で縁側へと歩いてきた。

 褐色の肌は上気してほんのりと桜色に染まり、夜の闇のように深い黒髪は濡れて首筋に張り付いている。いつもは獲物を狙う鷹のように鋭い銀色の瞳は、今はとろんと半ば閉じられていた。


「上がったか。水分は取ったか?」


 かまどの前で火の番をしていた直樹が、振り返って声をかけた。


「ええ……。なんだか、全身の骨を抜かれたみたい」

「少し肩を回してみろ。まだ芯に張りがあるはずだ」


 リヴィが言われるままに右肩を大きく回すと、ゴリッ、という鈍い感触が首の付け根から肩甲骨にかけて走った。表面の筋肉はほぐれたが、長年のデスクワークで癒着した深層の凝りは、まだそこに居座っている。


「そこに座れ。ほぐしてやる」


 直樹が、縁側に敷いた布の上を顎でしゃくる。

 リヴィは僅かに眉をひそめた。


「……素人に触られて、逆に筋を痛めたくないのだけれど」


 それは、国際弁護士としての最後の抵抗であり、他人に背中を預けることへの本能的な警戒だった。


「痛かったらすぐに言え。一瞬でやめる」


 直樹の淡々とした、しかし有無を言わせぬ響きに、リヴィは小さくため息をついて縁側に腰を下ろし、直樹に背を向けた。


 直樹の両手が、リヴィの肩に置かれる。

 その瞬間、リヴィの肩がビクッと跳ねた。


 直樹の指は、迷いなく首の付け根から肩甲骨の内側――菱形筋と僧帽筋が複雑に絡み合う、最も凝り固まっているポイントを正確に捉えていた。


(この男、ただの素人じゃないわね)


 直樹は、長年デスマーチの度に腕のいい整体師に通い詰め、時には自分でも解剖学の書籍を読み込んで自身の身体の構造を研究していた。手のひらから伝わる筋肉の癒着や血流の滞りを指先で感知し、的確な角度と圧でアプローチしていく。


「息を止めない。ゆっくり吐き出せ」


 直樹の静かな声に合わせて、リヴィが細く息を吐き出す。

 それに連動するように、直樹の親指がゴリッとした凝りの芯を、絶妙な体重移動で押し流した。


「……っ! ちょ、そこ……っ」

「右肩、かなり内側に入って固まってる。マウスを握る手に力が入りすぎだ」


 直樹の手技は止まらない。肩甲挙筋から首筋にかけて滑り込むように指を入れ、硬く張った筋をゆっくりと引き剥がしていく。痛い、だがそれ以上に、長年塞き止められていた何かが一気に開通するような、強烈な快感がリヴィの脳髄を直撃した。


「ぁ……あ……っ」


 最初は堪えていたリヴィの口から、漏れ出すような吐息がこぼれる。


「もう少し力を抜け」

「力なんて、もう、入らな……あ゛っ」


 肩甲骨の裏側に直樹の指が深く入り込んだ瞬間。

 氷の弁護士の口から、深夜の赤提灯でくだを巻く疲れたサラリーマンのような、濁点混じりの声が漏れ出た。


「あ゛……あ゛あ゛ぁ〜……」

「リヴィ、いい声出てるわよ」


 横の巨大クッションに埋もれながらハーブティーを飲んでいたシルフィが、くすくすと笑う。


「う、るさい……幸子……。でも、これ……あぁっ、そこ、抜ける……」


 直樹が肩甲骨を回すように動かし、最後に肩から背中にかけてさするように流して、ポンと軽く肩を叩いた。


「終わりだ。どうだ」


 リヴィは、糸の切れた操り人形のように、すぐ横にあったもう一つの巨大クッションへと横倒しに崩れ落ちた。


「……もう、どうでもいいわ。ロンドンの件は、明日の朝イチでアシスタントに投げ飛ばす……」


 ダークエルフの双剣士は、自慢の小太刀を抜くこともなく、完全に干物と化してクッションの海に沈没した。


「私もー! ナオ、私も肩揉んでー!」


 エミが自分の尻尾を抱き枕にしたまま、ずりずりと直樹の方へ寄ってくる。

 直樹の膝の上で丸くなっていたルナが、自分の縄張りを荒らされまいと「シャーッ!」と牙を剥いた。


「はいはい、順番な」


 直樹は苦笑しながらエミの肩周りも軽くほぐしてやり、その後は昼食の準備に取り掛かった。午後からは少し離れた森へ入り、畑の拡張や薪の補充、さらには海岸での魚釣りなど、リゾートの整備と素材集めを黙々とこなす。

 いつの間にか日は西へ傾き、オレンジ色の夕焼けが海を染め上げ、やがて満天の星が夜空に瞬き始めた。

 かまどに薪をくべ、干物と化してクッションから動かないリヴィを含め、客人たちが思い思いにログハウス周辺の夜風を楽しんでいるのを見届けてから、直樹はログアウトのシステムメニューを開いた。


★★★★★★★★★★★


 視界が暗転し、次に目を開けると、見慣れたアパートの天井が視界に入った。


 時計の針は、午後9時を少し回ったところを指している。

 休日とはいえ、半日以上もぶっ続けでVR空間にダイブしていたことになる。以前の直樹なら、この時間はまだオフィスのブルーライトを浴びながら、絶望的なバグ取りに追われている時間だ。自分の意志で仕事を切り上げ、夜の静寂の中にいることが、まだ少しだけ信じられなかった。


「きゅう」


 足元で、こむぎが尻尾をちぎれんばかりに振って見上げている。


「待たせたな、こむぎ」


 ベッドから降りてこむぎの頭を軽く撫でてやると、不意に腹の虫が小さく鳴った。VR内で疑似的な食事は摂っていたが、現実の肉体のカロリーが消費されていることに変わりはない。


「さて、飯にするか」


 直樹は財布とスマートフォンをポケットに突っ込み、アパートのドアを開けた。

 夜の生ぬるい風が頬を撫でる。疲労困憊で這うように歩いていた深夜の買い出しとは違う、穏やかな足取りで、歩いて数分の場所にあるセブンイレブンへと向かった。


 明るい店内に入ると、直樹は迷わず惣菜のチルドコーナーへと向かった。

 弁当では味気ない。だが、一から全てを作る気力もない。こんな夜は、便利なものに頼るのが一番だ。陳列棚を眺める余裕があるだけでも、精神的な回復を実感できる。

 直樹は『黒酢の酢豚』と『焼き餃子』のパックを手に取り、レジへ向かった。


 アパートに戻ると、直樹はまず炊飯器のスイッチを早炊きで入れた。

 それから、冷蔵庫の野菜室を開ける。数日前に買っておいた牛蒡と人参が、まだ手付かずのまま残っていた。


 直樹は袖をまくり、包丁を手に取った。

 牛蒡の泥をたわしでサッと洗い流し、斜め薄切りにしてから細切りにしていく。トントントン、というリズミカルな音が狭いキッチンに響く。

 人参も同じように千切りにする。VRの島で石斧を振るっていた時のように、無心で野菜を刻む作業は、直樹の脳を静かにリセットしてくれた。


 フライパンにごま油を引いて中火にかけ、刻んだ牛蒡と人参を投入する。

 ジューッという音と共に、ごま油の香ばしい匂いが立ち上った。菜箸で手早く炒め合わせ、野菜が少ししんなりしてきたところで、醤油、酒、みりん、そして少量の砂糖を回し入れる。

 強火にして水分を飛ばすように炒め、照りが出てきたら火を止め、白いりごまをたっぷりと振りかける。


 セブンイレブンで買ってきた酢豚と餃子を電子レンジで温め、それぞれ皿に移し替える。手作りのきんぴらごぼうも小鉢に盛った。


 ピーッ、と炊飯器が鳴る。

 炊き立ての白いご飯を茶碗によそい、小さなテーブルに並べる。惣菜と手作りの小鉢を組み合わせただけの食卓だが、今の直樹にとってはどんな高級レストランよりも魅力的に映った。


「いただきます」


 まずは、きんぴらごぼうを一口。

 シャキシャキとした牛蒡の食感と、ごま油の風味、そして甘辛い味付けが食欲を強烈に刺激する。


 次に、セブンイレブンの黒酢の酢豚。

 豚肉のしっかりとした旨味と、黒酢の深くまろやかな酸味が、疲れた身体の細胞一つ一つに染み渡っていく。ゴロリと入ったレンコンの食感もいいアクセントになっている。


 すかさず白飯をかき込み、焼き餃子に箸を伸ばす。

 肉汁とニンニクのパンチが効いた餃子を頬張り、再び白飯で追いかける。


 会社で、冷めて油の浮いたコンビニ弁当をモニターの光だけを頼りに胃に流し込んでいた日々とは、天と地ほどの差があった。


「何を食べるか」ではなく「どう食べるか」。自分のために用意した食事を、ゆっくりと味わう時間。それがどれほど贅沢なことかを、直樹は噛み締めていた。


 食事を終え、直樹はシンクで手早く皿を洗うと、やかんで湯を沸かした。

 急須に茶葉を入れ、熱湯を注ぐ。


 湯呑みに注がれたのは、濃い琥珀色をした熱い烏龍茶だ。

 立ち上る湯気と共に、深く焙煎された茶葉の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。


 直樹はソファに深く腰を下ろし、湯呑みを両手で包み込んだ。

 一口すすると、口の中に残っていた酢豚と餃子の油分がすっきりと洗い流され、胃の腑からじんわりとした温かさが広がっていく。


「ふぅ……」


 口から漏れた大きなため息は、疲労のそれではなく、確かな充実感から来るものだった。

 足元では、直樹の夕食のおこぼれをもらえなかったこむぎが、諦めたように丸くなってスースーと寝息を立てている。


 テーブルの端に裏返して置かれたスマートフォン。

 仕事の通知はすべて切ってあるが、会社は今頃、契約凍結のパニックと監査対応、そして終わりの見えない残業で阿鼻叫喚の地獄絵図だろう。佐々井の怒鳴り声が、空虚なオフィスに響いている光景が容易に想像できた。


 だが、今の直樹の心には、焦りも罪悪感も微塵もなかった。

 彼らが直樹の生活を保障してくれないように、直樹もまた、彼らの無能の尻拭いをする義理はない。


 烏龍茶をもう一口飲み、窓の外の夜空を見上げる。


(明日は、あの島でどんな飯を作ろうか。ルナが魚ばかりだと飽きるかもしれないな)


 直樹の頭の中は、次なるリゾート開拓のアイデアと、そこにいる少し手のかかる客人たちの顔で満たされていた。

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