第12話 ヤケ酒戦士と至高のタコス
澄み渡る青空から降り注ぐ初夏の陽光が、波打ち際の白い砂を眩しく照らし出していた。
ログハウスの縁側では、日陰の涼しい場所を陣取ったリヴィが巨大なクッションに沈没して完全に干物と化しており、その隣ではエミが自慢の白い尻尾を抱き枕にしながらスースーと平和な寝息を立てている。二人はまだ、深い微睡みの中にあった。
直樹はかまどの火の始末を確認し、インベントリから石のツルハシと採取用のカゴを取り出した。リゾートの基本的な設備は順調に整いつつあるが、滞在者が増えたことで食料の消費ペースも上がっている。今のうちに探索範囲を広げ、食材のバリエーションをもう少し増やしておきたかったのだ。
「お出かけかしら、ナオ」
背後から声がかかる。振り返ると、初期装備の白いワンピースを風に揺らしながら、シルフィが立っていた。銀色の髪は綺麗に梳かされており、あのやつれきっていた顔色には健康的な血色が満ちている。
「ああ。島の東側に手付かずのエリアがある。新しい食材がないか見てこようと思ってな」
「私も一緒に行っていいかしら」
シルフィが小首を傾げて微笑む。直樹は一瞬だけ縁側で眠る2人に視線を向けたが、すぐに頷いた。
「構わないが、道が悪いぞ。足元には気をつけろ」
「ええ、邪魔はしないわ」
直樹を先頭に、2人は波の音が遠ざかる深い森へと足を踏み入れた。
木漏れ日が落ちる獣道を歩く。直樹は先行しながら、シルフィの顔に当たりそうな枝を石斧で払い、歩きにくい段差があれば先に降りて足場を確かめた。
「そこ、少し苔が滑る。手を」
急な斜面の下りで、直樹が自然な動作で手を差し出した。
シルフィは少しだけ目を瞬かせ、その大きな手の上に自分の手を重ねた。
(……温かい)
現実の世界で、彼女が誰かに手を取られることなどない。差し出されるのは常に分厚い契約書か、打算に満ちた握手だけだ。だが、この男はただ純粋に「転ばないように」という気遣いだけで、彼女をエスコートしている。
昨日の昼間、環境マイク越しに漏れ聞こえてきた、彼の無能な上司のヒステリックな怒声。
シルフィは、直樹に引かれて斜面を降りながら、前を歩く彼の広い背中を見つめた。
これほどまでに周囲を観察し、的確な配慮を無言で実行できる有能な男を、ゴミのように使い潰している企業がある。その事実が、彼女の脳内で冷酷な計算式を走らせていた。
(徹底的に、逃げ場のないように潰す。この人の時間を奪う害虫は、私の世界に一匹たりとも残さない)
グローバル・ネットワークスCEOとしての冷徹な決断が下された一方で、直樹に繋がれた手のひらから伝わる熱は、彼女の胸の奥を一人の女性として甘く焦がしていた。
「……ナオ。現実の仕事は、辛くない?」
不意に口を突いて出た言葉だった。直樹は歩みを止めず、振り返りもせずに答えた。
「仕事なんて、どこも似たようなものだ。タスクを消化して、また次のタスクが降ってくる。それだけさ」
「そう……。でも、あなたは少し、働きすぎに見えるわ」
「そうかもしれないな」
直樹は軽く息を吐き、立ち止まって前方を指差した。
「だが、ここでこうしている時間は悪くない。……ほら、着いたぞ」
森が開け、視界が一気に広がった。
崖の上から見下ろすコバルトブルーの海と、見渡す限りの青空。そして、崖沿いの平地には、直樹が求めていた手付かずの植生が群生していた。
シルフィは海風に銀髪を揺らしながら、その絶景にほうっと息を吐いた。
「綺麗……」
「目当ての物もあった。来て正解だったな」
直樹は早足で植物の群生地に近づいた。そこには、トウモロコシによく似た太い茎を持つ穀物と、小ぶりだが真っ赤に熟したトマトのような果実、そしてツンと鼻を突く辛味のありそうな緑色の香草が生えていた。
直樹が手際よくそれらを採取していく横で、シルフィはただ穏やかな波の音を聞きながら、彼の横顔を見つめていた。
誰にも邪魔されない、2人きりの時間。
彼女にとって、それはどんな高級レストランのディナーよりも贅沢な、完璧なデートだった。
★★★★★★★★★★★
空が茜色に染まり始めた頃。
カゴいっぱいの収穫物を抱えた直樹とシルフィが拠点に戻ると、ログハウスの前の空間が、乱暴に引き裂かれるようにぐにゃりと歪んだ。
ジリジリと空間を焦がすような音を立てて火の粉に似た赤い光の粒子が弾け飛び、新たなプレイヤーが実体化する。
「あら。あの子も限界だったのね」
少し距離を取りながら、シルフィが口元に手を当てて呟いた。
砂を巻き上げて現れたのは、身の丈ほどもある巨大な両刃剣を背負った、褐色肌の女戦士だった。ワイルドな革製のビキニアーマーという露出度の高い装備だが、その顔立ちはラテン系の華やかさと情熱を感じさせる、息を呑むような美貌だ。
だが、その女戦士の様子は明らかに尋常ではなかった。
「酒だ……!」
彼女は砂浜に降り立つなり、血走った目で周囲を見渡し、地響きのような声を上げた。
「強い酒を寄越せ! もう仕事なんて真っ平だ! 重すぎるプレッシャーも、鳴り止まないアラートの音も聞きたくねぇ! 私は! 酒を飲んで寝る!!」
バーサーカーのクラスそのままに、今にも背中の巨大な剣を振り回しそうな剣幕だ。
直樹はカゴを置き、冷静に彼女を観察した。
極度の疲労と、張り詰めた神経の断裂。尋常ではないプレッシャーに日々押し潰されかけている人間の姿だった。
「おい、あんた」
直樹の低く、よく通る声が、女戦士の怒号を遮った。
女戦士がギラついた目で直樹を睨みつける。
「なんだお前! NPCか!? 酒を出せって言ってんだよ!」
「酒なら冷やしてある。いくらでも飲ませてやる」
直樹は全く怯むことなく、淡々と告げた。
「だが、その前に風呂に入ってこい。今のあんたは全身に疲労と緊張がこびりついている。そんな状態で酒を胃に流し込んでも、悪酔いして吐くだけだ。血と泥を落としてから来い」
一切の妥協を許さない、静かだが有無を言わせぬ響きだった。
女戦士は毒気を抜かれたようにぽかんと口を開け、背負っていた剣の柄から手を離した。
「……風呂、あるの?」
「あっちだ。バスタオル代わりの布は中にある」
直樹が湯屋を指差すと、彼女はフラフラとした足取りでそちらへ吸い込まれていった。
「ナオ、見事な手綱捌きね」
シルフィがくすくすと笑いながら近づいてきた。
「彼女はイザベラ。みんなからは『ベル』って呼ばれてるわ。少し……現実で他人の命を救いすぎたのよ」
「……なるほどな。外科医か」
直樹は短く納得すると、カゴの中から今日採ってきたばかりの食材を取り出し、かまどに火を入れた。
「風呂上がりだ。ガツンとくるやつがいいだろう」
石板を熱し、すり潰したトウモロコシの粉に水と少量の油を混ぜて練り上げる。薄く円形に伸ばした生地を熱した石板に乗せると、ジュワッという音と共に香ばしい匂いが立ち上った。トルティーヤの完成だ。
次に、インベントリに保存しておいた野生のイノシシ肉を粗挽きにし、塩と胡椒、そして今日見つけた辛味のある緑の香草と一緒に豪快に炒める。脂が弾ける音と共に、スパイスの強烈な香りが周囲の空気を支配した。
仕上げに、トマトに似た赤い果実と玉ねぎ代わりの根菜を細かく刻み、酸味のある果汁を絞ってサルサ・ピコ・デ・ガヨを作る。
「あー……極楽だ……。骨の髄まで解けた……」
湯屋から、憑き物が落ちたような顔をしたベルが出てきた。褐色の肌は上気し、濡れた髪を無造作に掻き上げている。
直樹は石で組んだ即席の冷蔵庫から、木製の大きなジョッキを取り出した。中には、数日前から小麦の代用品と野生の酵母を使ってシステム内で発酵させておいた、黄金色の液体と白い泡がたっぷりと注がれている。
「キンキンに冷やしてある。一気にいけ」
直樹がジョッキを差し出すと、ベルは目を見開き、ひったくるようにしてそれを受け取った。
「っ……!」
喉仏を鳴らし、息継ぎもせずに黄金色の液体を胃に流し込む。
半分ほど飲み干したところでジョッキを下ろし、彼女は夜空に向かって盛大に咆哮した。
「ぷっはぁぁぁぁっ!! 最高だぜアミーゴ!!」
「空きっ腹に酒は回る。これも食え」
直樹が手渡したのは、木の皿に乗せられた熱々のタコスだ。
ベルはトルティーヤに包まれた肉とサルサソースに、躊躇なくかぶりついた。
パリッとした生地の食感の直後、スパイシーな肉汁が口いっぱいに溢れ出す。そこにサルサの強烈な酸味とハラペーニョの鮮烈な辛味が加わり、脳の報酬系を暴力的なまでに刺激した。
「っっっっっっっまい!! なにこれ! 私の専属シェフの料理より美味いんだけど!?」
ベルの目が限界まで見開かれる。彼女は夢中でタコスを平らげ、すかさずビールのジョッキを煽った。
熱い、辛い、美味い、そして冷たいビールの爽快感。
考え得る限り完璧な無限ループだった。
「あー、生き返った! もう全部どうでもいい! 私はここで生きていく!」
2杯目のビールを飲み干し、すっかり出来上がったベルは、かまどの前で石板を拭く直樹の背中を熱っぽい目で見つめた。
自分の肩書きも、周囲の顔色も一切気にせず、ただ「風呂に入れ」「これを食え」とオカンのように世話を焼いてくれる男。それでいて、出てくるものは至高の癒やし。
ベルは勢いよく立ち上がり、直樹の背中をバンッと叩いた。
「ねえナオ! 私と結婚しない!? 私の財団の資産、半分あげるから!」
ラテンの血が騒ぐ、ド直球すぎるプロポーズだった。
「ちょっとイザベラ! あなた出会って5分で何言ってるの!」
その言葉に、隣でハーブティーを飲んでいたシルフィが血相を変えて立ち上がった。騒ぎを聞きつけたのか、ログハウスの中からエミとリヴィも飛び出してくる。
「抜け駆けは許さないわよ! ナオの隣は私の特等席なんだから!」
「ベル、あなた酔ってるわよ。少し頭を冷やしなさい」
ヒロインたちが牽制し合い、周囲が一気に騒がしくなる。
しかし、当の直樹は振り返ることもなく、布で石板の汚れを淡々と拭き取っていた。
「はいはい。酔っ払いは水を飲んでさっさと寝てくださいね。ベッドは空いてるぞ」
見事なまでのスルースキルだった。深夜の接待で絡んでくる厄介なクライアントをあしらい続けてきた社畜にとって、この程度の酔っ払いの戯言などBGMにも等しい。
「あはは! そういう冷たくて余裕のあるところも最高にセクシーだわ!」
軽くあしらわれたことで逆に火がついたのか、ベルは豪快に笑いながら直樹の腕に抱きついた。
「こら、火の側は危ない。離れろ」
「ナオぉ〜、もっとお酒とタコス〜!」
「ちょっとベル! 離れなさい!」
波の音をかき消すような賑やかなドタバタ劇が繰り広げられる中、直樹は小さくため息をつきながらも、どこか口角を上げていた。
限界を迎えていた女戦士の瞳からは、あの痛々しい疲労と殺気は、綺麗さっぱり消え去っていた。




