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限界社畜のVR開拓記〜クビになったらVIP客が元職場を滅ぼした〜  作者: 伊達ジン


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第13話 迫る包囲網と、氷の刃の休息

 午前10時。

 ダークネス・システムズのフロアは、空調が効いているにもかかわらず、異様なほどの熱気と焦燥感に包まれていた。


「手が止まってるぞ! 早く過去3年分のタイムカードの打刻データと、オフィスの入退室記録の辻褄を合わせろ! 昼までにだ!」


 佐々井部長の血走った怒号が響く。若手社員たちは青ざめた顔でキーボードを叩いているが、その指先は震え、何度もタイピングミスを繰り返しては消去キーを連打していた。


 グローバル・ネットワークスからの突然の契約凍結通達。それに伴う厳格な監査の予告。

 会社の存亡に関わる危機の中、佐々井が下した指示は「問題箇所の洗い出し」ではなく「隠蔽工作」だった。超過残業の事実を消し去るため、システムのログを強引に改ざんしようとしているのだ。


「部長、杉本さんには連絡つきましたか? データベースの構造が複雑で、どこから手をつけていいか……」


 若手の悲鳴に近い声に、佐々井は忌々しげに舌打ちをした。


「あの野郎、昨日から電話の電源を切りっぱなしだ! 会社がこんな状況だってのに、のんきに休みやがって! 後で必ずたっぷり絞り上げてやる……!」


 佐々井が自分のデスクのモニターに視線を戻した、その時だった。


 フロアの入り口の自動ドアが開き、数名の男女が静かに足を踏み入れた。

 全員が地味だが仕立ての良いダークスーツを身に纏い、首からはIDカードを下げている。手には分厚いバインダーとノートPC。彼らが放つ、事務的で圧倒的な威圧感に、フロアの入り口付近にいた社員の手がピタリと止まった。


 先頭に立っていた白髪交じりの男が、周囲を見渡し、静かに通る声で告げた。


「東京労働局、労働基準監督署です。労働基準法違反の疑いにより、立ち入り調査に入ります」


 その言葉が落ちた瞬間、フロア全体を覆っていたキーボードの打鍵音が、一斉に鳴り止んだ。


「な、なんだと……?」


 佐々井は持っていたボールペンを取り落とした。

 労基署の抜き打ち検査。しかも、たった数名の窓口担当レベルではない。明らかに大規模な証拠保全を前提としたチーム編成だ。


「責任者の方はいらっしゃいますか」


 査察官の視線が、不自然な汗を流して立ち尽くしている佐々井を真っ直ぐに射抜いた。


「わ、私ですが……その、事前の連絡もなしに突然来られても困ります。うちは今、重要なプロジェクトの納期前で……」

「事前の通告は義務付けられておりません。直ちに業務を停止し、PCから手を離してください」


 査察官の背後にいた数名が、無言で各デスクに散っていく。


「おい、待て! 勝手にPCに触るな! 顧客の機密情報が入ってるんだぞ!」


 佐々井が慌てて若手社員のデスクに駆け寄ろうとしたが、白髪交じりの査察官がその前に立ち塞がった。


「機密保持に関しては法的な手続きに則って処理します。それよりも」


 査察官はバインダーを開き、一枚の書類を佐々井の目の前に突きつけた。


「『杉本直樹』氏の勤怠記録についてですが。提出されている表向きのタイムカードと、御社のサーバーへのアクセスログ、並びにオフィスビルの夜間入退室記録に、著しい乖離が見られます」


 佐々井の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。


「ここ1ヶ月間で、彼がオフィスを退出した記録が3日しかありません。残りの27日間、彼はこのオフィスに泊まり込みで稼働していた疑いがあります。これは事実ですか」

「そ、それは……っ」


 佐々井の脳内で、急速に言い訳の回路が回転する。

 隠蔽の準備は間に合わなかった。ならば、トカゲの尻尾切りをするしかない。


「事実無根です! 杉本は……そう、あいつは仕事の要領が悪く、勝手に会社に残ってネットサーフィンなどをしていただけです! 私ども管理職は再三にわたって帰宅を命じていましたが、あいつが命令を無視して……」

「なるほど」


 査察官は佐々井の顔を冷ややかに見つめ、一つ頷いた。


「では、それらの『帰宅命令』を出したという記録やメール、あるいは彼の業務量が適正であったことを示すタスク管理のデータを出してください。今すぐ」

「……っ!」

「我々は、既にビルの防犯カメラ映像やサーバーのアクセスログなど、客観的な証拠を確保した上で動いています。下手に隠蔽や責任転嫁を図れば、悪質とみなして即座に送検の手続きに入りますよ」


 佐々井は、口をパクパクとさせたまま、完全に言葉を失った。

 足元から、自分がこれまで積み上げてきたものがガラガラと崩れ落ちていく音が聞こえた。


★★★★★★★★★★★


 初夏の強い日差しが、街路樹の葉を鮮やかな緑色に透かしていた。


 都内の閑静なエリアにある、ドッグランを併設したオープンカフェ。

 テラス席は心地よい風が通り抜け、休日の穏やかな時間を楽しむ人々で適度に賑わっていた。


 直樹はパラソルの日陰になるテーブルに陣取り、冷たく結露したグラスのアイスコーヒーに口をつけた。

 足元では、リードに繋がれたこむぎが、他の犬の匂いが残る地面を一生懸命に嗅ぎ回っている。


「こら、拾い食いはするなよ」


 直樹がリードを軽く引くと、こむぎは「きゅう」と小さく鳴いて直樹の靴の上にペタンと座り込んだ。


 深煎りのコーヒーの苦味が、クリアな頭に心地よく染み渡る。

 VRの島で迎えた今朝の出来事を思い出す。ベルの豪快なヤケ酒の残骸を片付け、シルフィとエミがそれぞれに要求してくる朝食を作り、自分の膝の上から絶対にどかないルナを撫で続けた。


 騒がしくも、確かな温度のある時間。

 現実世界に戻ってきても、その心地よい疲労感と充足感は直樹の身体の芯にしっかりと残っていた。


 ふと、直樹の隣のテーブルに、一人の女性が案内されてきた。


 彼女が席に着いた瞬間、周囲の空気が僅かに引き締まったように錯覚した。

 エキゾチックで整った顔立ち。深く知的な銀灰色の瞳。仕立ての良さが一目でわかるネイビーのタイトスーツを完璧に着こなしているが、休日のカフェには少し不釣り合いなほど、隙のない緊張感を纏っていた。


 彼女は席に座るなり、ウェイターにブラックコーヒーを頼み、手元の薄型ノートPCを開いた。


 カチャカチャと、迷いのない高速のタイピング音がテラス席に響き始める。

 直樹は無遠慮に見つめることはしなかったが、視界の端に入るその女性の姿に、ある種の既視感を覚えた。


(……相当な激務のようだな)


 彼女の顔には疲労の色は出ていない。だが、キーボードを叩く右肩が不自然に内側に入り込み、首の筋が強張っている。時折、眉間に微かな皺を寄せ、無意識のうちに右手で自分の左肩から首の付け根を強く揉む仕草を繰り返していた。


 直樹がそんな観察をしていた時だった。


「きゅんっ」


 直樹の足元にいたこむぎが、ふいに立ち上がり、隣のテーブルの女性に向かって短い尻尾を振りながら近づいていった。

 リードの限界まで歩き、女性のハイヒールのつま先をクンクンと嗅ぐ。


「こむぎ、ダメだ」


 直樹が慌ててリードを引こうとしたが、その前に女性のタイピング音がピタリと止まった。


 彼女はPCから視線を外し、足元の小さなチワワを見下ろした。

 その瞬間、氷のように冷たく鋭かった彼女の瞳が、ふっと柔らかく緩んだ。


「……構いませんよ」


 彼女は少しだけ身をかがめ、こむぎの頭を指先でそっと撫でた。こむぎは嬉しそうに彼女の手のひらを舐める。


「すみません。人懐っこいもので」


 直樹が軽く頭を下げると、女性はゆっくりと顔を上げ、直樹を見た。

 互いの視線が交差する。


 女性の目が、ほんの僅かに見開かれた。


「いえ。とても……可愛い犬ですね。おとなしくて」


 彼女の声は、どこか探るような、それでいて熱を帯びた響きがあった。

 オリヴィア・リード。

 彼女は今、目の前にいる男が、VR世界で自分の身体を骨の髄まで解きほぐした『ナオ』であることを完全に把握していた。


 シルフィから共有された「杉本直樹」の調査資料。そこに添付されていた証明写真よりも、はるかに精悍で、大人の余裕を感じさせる佇まい。

 何より、あの島で聞いたのと同じ、低く落ち着いた声。


 彼女は今日、労基署の立ち入り検査の裏で、あえてこのカフェを選んで仕事を持ち込んでいた。彼の行動パターンから、休日に犬の散歩でここを通る可能性が高いと予測しての、周到な「偶然」の演出だった。


「休日にお仕事ですか」


 直樹が何気なく声をかけた。

 本来なら他人の領域に踏み込むようなことはしない直樹だったが、彼女の纏うギリギリまで張り詰めた空気感が、かつての自分や、あるいはあの島にやってくる常連客たちの姿と重なったのかもしれない。


「ええ。少し……片付けなければならない面倒な案件がありまして」


 オリヴィアはPCの画面を閉じ、小さく息を吐いた。

 そして、また無意識に右肩に手をやる。


「モニターの角度が、少し低すぎるんじゃないですか」


 直樹の言葉に、オリヴィアはハッとして直樹を見た。


「その体勢でタイピングを続けると、どうしても肩が内側に入ります。右の肩甲骨の裏側あたりから首の付け根にかけて、焼け付くような痛みが出ているはずだ」

「っ……」


 オリヴィアは言葉を失った。

 VRの島で、初めて彼に出会った時と全く同じ指摘だった。

 あの時はアバターの挙動を見て言い当てられたのだと思っていたが、現実世界でも、彼はたった数分隣に座っただけで、自分の身体の限界を正確に見抜いている。


「長時間のデスクワークは、同じ姿勢で筋肉が癒着するのが一番厄介です。仕事の合間に、両手を後ろで組んで、肩甲骨を寄せるようにして胸を張るだけでも違いますよ」


 直樹は自分のグラスを持ち上げながら、淡々とそう言った。

 押し付けがましさのない、純粋な気遣い。


 オリヴィアの胸の奥で、カチリと何かが外れる音がした。


 国際弁護士としての完璧な鎧。どんな相手にも隙を見せず、論理と法でねじ伏せてきた氷の刃。

 それが、目の前の男の何気ない言葉だけで、いとも容易く融解していく。


「……こう、でしょうか」


 オリヴィアは言われた通りに両手を後ろで組み、ゆっくりと胸を開いた。

 ゴリッ、と肩甲骨の奥で鈍い音が鳴る。


「ええ、そうです。息を止めずに、ゆっくり吐き出しながら」


 直樹の声に合わせて息を吐くと、張り詰めていた背中の筋が少しだけ伸び、強ばっていた首回りに血が巡るのがわかった。


「……ふぅ」


 オリヴィアの口から、深い吐息が漏れた。

 彼女は自分の身体から、あの島で感じた「ふにゃふにゃ」になる感覚が現実でも引き出されそうになっていることに焦りを感じたが、それ以上に、彼とこうして言葉を交わしているこの時間が愛おしかった。


「……ありがとうございます。少し、楽になりました」


 オリヴィアが微笑むと、それは法廷で見せる冷酷な笑みでも、社交辞令の愛想笑いでもない、年相応の女性としての柔らかな表情だった。


「無理をしないことです。代わりがいない仕事ほど、自分のメンテナンスが一番のタスクになりますから」


 直樹は自分のグラスの残りを飲み干し、立ち上がった。


「こむぎ、行くぞ」


 こむぎが短い尻尾を振りながら直樹の足元に戻る。

 直樹はオリヴィアに軽く会釈をして、カフェを後にした。


 オリヴィアは、彼が去っていった方向をいつまでも見つめていた。

 たった数十分の、名乗ることもない短い会話。だが、彼女にとっては、過去数年間で最も心満たされる、完璧な「デート」だった。


 テーブルの上に置かれた彼女のスマートフォンが、静かに振動した。


 画面を見ると、部下からの暗号化されたメッセージだった。


『ターゲット企業への労基署の証拠保全、予定通り完了しました。経営陣は隠蔽を図りましたが、こちらが事前に提出したサーバーログにより完全に退路を断たれています』


 オリヴィアはメッセージを一読すると、先ほどまでの柔らかい表情を消し去り、氷のような冷徹な弁護士の顔に戻った。


「当然ね。私が引いた包囲網から逃れられると思わないこと」


 彼女はコーヒーを一口飲み、画面をタップして返信を打つ。


『次のフェーズに移行します。契約不履行による民事での損害賠償請求、並びに佐々井という男のパワハラに関する集団訴訟のドラフトを至急準備しなさい。彼らに一息つく暇も与えないで』


 スマートフォンの画面を伏せ、オリヴィアは再びPCを開いた。

 先ほど直樹に教えられた通り、少しだけモニターの角度を調整し、軽く肩を回す。


「……さあ、害虫駆除を急がないと。私の大切な時間を、これ以上邪魔させるわけにはいかないから」


 彼女の呟きは、初夏の風に溶けて消えた。


★★★★★★★★★★★


 アパートへの帰り道。

 直樹はポケットの中で振動を続けるスマートフォンを無表情で見下ろしていた。


 画面には、佐々井からの着信履歴が30件以上、そしてチャットツールには大量のメッセージが押し寄せている。


『今すぐ会社に来い!』

『お前が勝手に帰ったせいだぞ!』

『電話に出ろ! 責任を取れ!』


 文字だけで伝わってくる異常なパニック状態。

 しかし、直樹の心には一波の波紋すら立たなかった。


「……うるさいな」


 直樹は画面をスワイプして通知を全てオフにし、再びスマートフォンをポケットに突っ込んだ。


 自分が去った後の会社がどうなろうと、もう彼には関係のないことだ。

 あの会社は、自分という歯車を使い潰すことでしか回らない欠陥品だった。それが本来の寿命を迎えて自壊しようとしているだけのこと。


「帰って少し昼寝するか。それから……今日の夕飯は、ベルが釣ってきた魚でアクアパッツァにでもするか」


 直樹は足元のこむぎに笑いかけ、軽快な足取りでボロアパートへの階段を上っていった。

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