第14話 波打ち際のマーメイドとトロピカルな劇薬
「ブー……ブー……ブー……」
通知をすべてオフにしたはずのスマートフォンが、なぜか再び不快な振動音を立てた。
薄暗いボロアパートの室内に、その無機質で暴力的な音が反響する。テーブルの上に裏返して置かれた端末が、木製の天板とぶつかってジリジリと移動し、不快なノイズを撒き散らしている。画面の端から漏れる光と、一定のリズムを刻むバイブレーションが、発信者が『佐々井部長』であることを告げていた。
おそらく、会社から支給されている端末の緊急時用強制通知設定でも使ったのだろう。昨日、労基署の立ち入り検査の最中に定時退社した直樹に対する、狂気に満ちた執念だった。
「きゅうぅ……」
直樹がソファに腰を下ろしてその振動音を眺めていると、足元から細く震える声がした。
チワワのこむぎだ。こむぎは耳をぺたんと後ろに伏せ、尻尾を股の間にきつく巻き込むようにして、短い足でタタタッと駆け寄ってきた。そのまま直樹のあぐらをかいた足の隙間に頭から潜り込み、小さな身体をブルブルと震わせる。
こむぎは、あのスマホが発する無機質な振動音と、その後に直樹の周りに漂うことになる重く冷たい空気が大嫌いだった。嫌なことがあると、こうして一番安全な場所である直樹の膝に逃げ込み、縋るように見上げてくるのだ。
「……ごめんな、うるさかったな」
直樹は大きなため息をつき、テーブルの上のスマホを手に取った。画面には着信を示す緑と赤のボタンが表示されているが、直樹は迷わず電源ボタンを長押しし、完全にシャットダウンした。
ブツン、と画面が真っ暗になり、部屋に静寂が戻る。
「よし、もう鳴らないぞ」
直樹が足の間に潜り込んでいるこむぎの背中を優しく撫でてやると、こむぎはホッとしたように「きゅ」と短く鳴き、直樹の手のひらに小さな鼻先を擦り付けてきた。指先をペロペロと舐める温かい舌の感触と、少しずつ落ち着いていく小さな心臓の鼓動に、直樹の口元も自然と緩む。
会社の崩壊も、上司のヒステリーも、今の直樹にとっては自身の平穏な生活を脅かすほどのものではなくなっていた。
直樹はこむぎが満足して自分のベッドに戻るのを見届けると、傍らに置かれたVRヘッドギアを手に取った。
★★★★★★★★★★★
波の音が、一定のリズムで白い砂浜を撫でていた。
ログインした直樹は、ログハウスのある高台から少し離れた、入り江になっている浅瀬のビーチに立っていた。
今日は朝から、この一角の整備に取り掛かっていた。リゾートとして機能させるには、ただの砂浜ではなく、快適にくつろげる『プライベートビーチ』の区画が必要だ。
直樹はインベントリから石のツルハシを取り出し、浅瀬に転がっている見栄えの悪い岩や、素足で歩くと危ない尖った貝殻を丁寧に砕いて除去していく。次に、木の板と植物の蔓を組み合わせて、角度の調整ができるビーチベッドを数台クラフトした。ベッドの上には、エミを堕落させたあの天然綿花を薄く敷き詰めた特製のマットを敷く。
さらに、海風を適度に遮るためのパラソル代わりとして、大きなヤシの葉に似た植物を編み込み、木陰を作った。
「……こんなものか。あとは、飲み物だな」
直樹は波打ち際に設置した石のテーブルに、先ほど森の奥で採集してきた果実を並べた。パイナップルに似た強い甘味を持つ黄色い果実と、柑橘系の酸味がある緑色の果実だ。
それらを木製のボウルで丁寧に絞り、果汁を合わせる。そこに、山頂付近の洞窟で見つけた氷を砕いてグラスに入れ、ミントに似た香草を添えた。
見た目は完全に南国のトロピカルカクテルだ。アルコールは入っていないが、システムが錯覚させる爽快感は本物以上のものになるはずだ。
「よし、試作としては上出来だ」
直樹がグラスの表面に結露した水滴を拭おうとした、その時だった。
ザバーン、と少し大きな波が打ち寄せ、ビーチベッドのすぐ近くの浅瀬に『何か』を運び込んだ。
「……ん?」
直樹が目を凝らすと、それは白い布の塊だった。いや、違う。
うつ伏せに倒れ込んでいる、プレイヤーだ。
直樹はすぐさま駆け寄った。
現れたのは、目を疑うほどにグラマラスなプロポーションを持つ女性だった。身に纏っているのは、初期装備の布ではなく、純白の清楚な水着。そして何より異様なのは、彼女の下半身だった。
腰から下には人間の足がなく、代わりに美しいエメラルドグリーンに輝く鱗に覆われた、巨大な魚の尾びれが伸びていた。
「人魚……そういう種族もあるのか」
女性の顔は砂に半分埋もれていたが、豊かな黒髪の隙間から覗く横顔は、息を呑むほどエキゾチックで整っていた。HPバーに異常はない。だが、その全身からは、周囲の穏やかな空気とは明らかに異質の、ピリピリとした警戒心と極度の疲労感が漂っていた。
「おい、大丈夫か」
直樹が砂浜に片膝をつき、彼女の肩に手をかけた瞬間。
「……触るなっ!」
弾かれたように女性が身を翻し、直樹の腕を払い除けた。
彼女の目は、獲物を狙う猛禽類のように鋭く細められ、直樹の喉元を睨みつけている。その所作には一切の無駄がなく、明らかに修羅場をくぐり抜けてきた人間の反射速度だった。
(……相当な場数を踏んでるな。ベルと同じ匂いがする)
直樹は全く怯むことなく、両手を軽く上げて敵意がないことを示した。
「ここはPK禁止のセーフエリアだ。あんたが浅瀬で倒れていたから、声をかけただけだ」
「……」
女性――アバター名『ノーラ』は、荒い息を吐きながら直樹の顔をじっと見つめた。
ヨーロッパの裏社会を牛耳るPMC(民間軍事会社)の若き総帥。それが、現実世界におけるエレアノラ・ホジャの正体だ。常に暗殺の危機に晒され、裏切りと暴力の中で生きてきた彼女にとって、他人の気配はすべて『敵』でしかなかった。硝煙と血の匂いがこびりついた現実から逃れるため、せめてVRの中だけでも美しい人魚になり、平和な海を漂っていたかったのだ。
だが、目の前の男の瞳には、彼女が現実で常に見せられている『野心』も『恐怖』も『下心』も、微塵も存在しなかった。
ただ、道端で転んだ子供を心配するような、ひたすらにフラットで穏やかな温度。
ノーラの張り詰めていた肩の力が、ほんの僅かに抜けた。
「……ここは、どこ?」
「ただの辺境の無人島だ。俺が勝手にリゾートを開拓してる」
直樹は立ち上がり、先ほど作ったばかりのビーチベッドを指差した。
「疲れてるなら、そこで休むといい。太陽も高くなってきた。砂浜に転がったままじゃ、いくら人魚でも干からびるぞ」
ノーラは自分の尾びれを見つめ、システムメニューを操作した。光の粒子が下半身を包み、魚の尾がすらりとした人間の長い足へと変化する。彼女はよろめきながら立ち上がり、警戒を解ききらないままビーチベッドへと腰を下ろした。
「……っ」
沈み込むような天然綿花の感触に、ノーラは小さく息を呑んだ。現実の最高級ホテルのベッドすら、常に拳銃を枕の下に忍ばせている彼女にとっては安らげる場所ではなかった。だが、この簡素な木のベッドは、彼女の強張った背中を優しく包み込むような、不思議な温かさがあった。
「喉、渇いてるだろ。試作品だが、飲んでくれ」
直樹が、先ほど作ったトロピカルカクテルのグラスをテーブルに置いた。
グラスの中で氷がカランと涼しげな音を立てる。
ノーラの目が、スッと冷たく細められた。
「……見ず知らずの人間が出した飲み物を、疑いもせずに飲むほど、私は愚かじゃないわ。毒見は?」
それは、裏社会の頂点に立つ者としての当然の反応だった。現実で他人の淹れた飲み物を口にすることは、即ち死を意味する。
だが、直樹は呆れたように小さく息を吐いた。
「毒見って……ゲームのシステム上、毒薬をクラフトするスキルなんて今の俺にはない。それに、わざわざ自分の作ったビーチを汚すような真似をするわけがないだろう。冷たいうちに飲め」
直樹はグラスを押し付けることもなく、ただ事実だけを告げて背を向けた。そして、浅瀬に転がっている別の貝殻を拾い集める作業に戻ってしまった。
ノーラは、直樹の無防備な背中を呆然と見つめた。
護衛もいない。武器も持っていない。ただ、この空間を快適にするためだけに動いている男。
(……この男、本当に何も知らないのね)
ノーラはグラスに手を伸ばした。冷たい感触が指先に伝わる。
香りを嗅ぐ。毒物のツンとした匂いはない。爽やかな果実とミントの香りだけだ。
彼女は覚悟を決め、グラスに口をつけた。
「……っ!」
瞬間、ノーラの瞳が見開かれた。
南国果実の強烈な甘みと、それを引き締める柑橘の酸味。砕かれた氷が喉の奥を冷やし、炭酸にも似た爽快感が、疲労で泥のように濁っていた脳の芯までを一気に洗い流していく。
それは、彼女が現実の高級ラウンジで飲んできたどんなヴィンテージワインよりも、鮮烈で、五感に直接訴えかけてくる『癒やし』だった。
グラスから口を離すと、ふわりと潮風が頬を撫でた。
頭上にはヤシの葉が優しい日陰を作り、背中には極上のクッション。波の音だけが、一定のリズムで世界を隔離してくれている。
硝煙の匂いも、部下の報告も、敵対組織の動向も、ここには一切存在しない。
「……あぁ」
ノーラの口から、熱い吐息が漏れた。
(もう、どうでもいいわ……。抗争なんて部下に任せておけばいい。私、一生ここで潮風に吹かれていたい……)
完璧な防御姿勢を保っていた彼女の身体が、スライムのようにベッドの上へ崩れ落ちた。
★★★★★★★★★★★
数十分後。
直樹が浅瀬の清掃を終えて戻ってくると、ノーラは再び人魚の姿に戻り、浅瀬の温かい海水を尾びれでパチャパチャと跳ねさせながら、恍惚とした表情で空を見上げていた。
「気分は落ち着いたか」
直樹が声をかけると、ノーラは振り返り、妖艶な笑みを浮かべた。
先ほどまでの鋭い殺気は嘘のように消え失せている。
「ええ。ナオって言ったかしら? あなたの作った飲み物、最高だったわ」
ノーラは濡れた髪を掻き上げながら、波打ち際を這うようにして直樹の足元まで近づいてきた。そして、純白の水着に包まれた豊満な胸の谷間を強調するように、直樹のふくらはぎに自分の腕を絡ませた。
「……おい、何してる」
「ねえ、ナオ。私、なんだかすごく安心して……甘えたくなっちゃった。もっと撫でてくれない?」
ノーラは上目遣いで直樹を見つめ、自分の頬を直樹の膝下辺りに擦り付けた。
それは、彼女の現実の姿を知る者が見れば、恐怖で卒倒するような光景だった。だが、直樹にはただ「やけに距離感のおかしい、手のかかる客」にしか見えていない。
「濡れるから離れろ。それに、俺は膝を貸す商売はしてない」
「冷たいこと言わないでよ。人魚の鱗、触ってみたくない? 凄く滑らかで気持ちいいわよ?」
ノーラがさらに身を乗り出し、直樹の太ももに自分の胸を押し付けるように密着してきた。
「……おい、新入り」
直樹は足に絡みつくノーラを、静かな、しかし確かな圧のある声で見下ろした。
その低い声に、ノーラは一瞬、現実世界で自分に向かってくる凶弾を前にした時のような、ぞくりとしたものを背筋に感じて動きを止めた。
「そんなに密着されると、作業がしづらい。それに、せっかくならしたばかりの砂が蹴立てられる。フルーツの追加が欲しいなら、大人しくベッドに座ってろ」
その言葉には、下心に対する照れも、彼女の美貌に対する動揺も一切なかった。ただ「自分の作業の邪魔をするな」という、職人としての純粋なクレームだった。
自分に対して、媚びるでもなく、怯えるでもなく、ただ「作業の邪魔だ」と言い放つ男。
ノーラはポカンと口を開け、やがて腹を抱えてクスクスと笑い始めた。
「……あははっ! 本当に、あなたって最高ね。わかったわ、大人しく待ってる」
ノーラは素直に直樹から離れ、長い尾びれを揺らしながら再びビーチベッドへと戻っていった。その表情は、どこか晴れやかだった。
直樹は少しだけ砂が乱れた浅瀬を足でならし、騒ぎなどなかったかのように、再びフルーツを絞る作業に戻った。
波の音が響く静かなビーチに、劇薬のような常連客がまた一人、居座ることになった。




