第15話 波乱のビーチと焦がしソースの誘惑
静かな波音が、白い砂浜に心地よい一定のリズムを刻んでいた。
どこまでも高く澄み渡る青空から降り注ぐ初夏の陽光は強いが、直樹が器用に編み上げて組んだヤシの葉のパラソルが、ビーチベッドの上に涼しく快適な日陰を作っている。エメラルドグリーンの海面が、風に揺れてきらきらと宝石のように輝いていた。
そのベッドの上で、ノーラは人間の足に戻した長い脚をだらしなく投げ出し、寝そべっていた。純白のビキニに包まれた豊満な身体は、リゾートの風景の中でひときわ目を引く。計算し尽くされたかのような美しいカーブを描くウエスト、砂浜の白さにも負けない滑らかな肌。しかし、彼女の意識は自身の完璧なプロポーションにも、目の前に広がる絶景にも向いていなかった。
視線の先にあるのは、数メートル先の浅瀬で黙々と石を積んでいる男の背中だけだった。
直樹は浅瀬にしゃがみ込み、海に突き出るような形で平らな飛び石を並べていた。満潮時でも足元が濡れずに少し奥まで行けるようにするための、ちょっとした桟橋代わりの動線作りだ。無心に石の角度や高さを調整する横顔には、一切の邪念がない。
「ねえ、ナオ。背中が痒いわ。日焼け止め、塗ってくれない?」
ノーラが甘えるような、それでいてどこか命令を含んだような声で呼びかける。
「ゲーム内に日焼けのステータスはない。痒いなら砂でもこすりつけとけ」
直樹は振り返りもせず、手元の石の角度を微調整し続けた。
その素っ気ない返答に、ノーラは不満を漏らすどころか、くすくすと喉の奥で笑い声を上げた。
自分から誘いをかけて、これほどまでに無関心にあしらわれたのは初めてのことだ。彼女が蠱惑的なポーズをとっても、豊満な胸の谷間を見せつけても、彼は「作業の邪魔だ」としか言わない。
(誰も私を特別扱いしない。ただの女の子として……こんなに雑に扱われるなんて)
ノーラの瞳の奥で、暗く熱い感情が渦を巻き始めていた。
現実世界での彼女の日常は、常に死と隣り合わせだ。食事に毒が盛られていないか気を張り、眠る時も枕元に銃を置く。彼女に向けられる視線は、恐怖、憎悪、あるいは欲望のどれかでしかなかった。
だが、ここには自分を恐れる者も、媚びへつらう者もいない。彼のフラットな態度と、何気なく差し出される冷たい果実水の優しさ。この安全で心地よい空間を維持してくれるこの男を、自分の手の届く場所に永遠に閉じ込めておきたかった。
ノーラはベッドから滑り降り、足音を殺して直樹の背後に忍び寄った。そして、しゃがみ込んで作業をしている直樹の背中から、長い腕を回して首に抱きついた。
「わっ……おい、急に乗っかるな。重いだろうが」
「ひどい。女の子に向かって重いなんて。ねえ、少し休憩にしましょうよ。私、ナオの膝枕でお昼寝したいな」
ノーラは豊満な胸を直樹の背中に押し付け、頬を彼の首筋にすり寄せた。濡れた髪から、微かに甘い花の香りが漂う。
「離れろ。石がずれた」
直樹が鬱陶しそうに肩を揺らした、まさにその時だった。
「――ちょっと、何してるのよ泥棒猫!!」
ビーチの入り口の斜面から、悲鳴のような鋭い声が響き渡った。
ノーラが視線を向けると、そこには鬼の形相をしたエミが立っていた。自慢の白い狐の尻尾が、怒りでボワッと数倍に膨れ上がり、狐耳は威嚇するようにピンと立っている。
その横には、腕を組んで冷ややかな視線を送るシルフィと、腰の小太刀に手をかけているリヴィの姿があった。
「あら、ずいぶんと大胆な水着ね。でも、公共の場での過度な接触はマナー違反じゃないかしら」
シルフィが、声音こそ穏やかだが、絶対に笑っていない目でノーラを射抜く。
「……ナオ、少し目を離した隙に変な虫がついたみたいね。私が物理的に排除しようか?」
リヴィが低く物騒なトーンで告げ、小太刀の柄を親指で弾いた。カチャリ、と硬質な音が響く。
三人の女性が放つ、明らかな敵意と牽制。
普通なら気圧される場面だが、ノーラは直樹の背中に抱きついたまま、余裕の笑みを浮かべた。
「あら、お友達? 残念だけど、ナオは今、私のお世話で忙しいの。順番待ちなら向こうの岩陰ででもしててくれないかしら」
「なっ……! 順番待ち!? ここは私の定位置なんだからね!」
エミが斜面を駆け下り、砂を蹴立てて直樹の横に陣取った。
「ナオ! その女から離れて! 今日のおやつは私が先に予約してたでしょ!」
「予約なんて取った覚えはないぞ」
直樹はため息をつき、首に絡みついていたノーラの腕を強引に引き剥がして立ち上がった。
「いいか、喧嘩するなら向こうの森でやれ。せっかくならした砂が舞うだろうが」
直樹の言葉に、四人の女性の視線が一斉に彼に集まった。
バチバチと火花が散るような視線の交錯。シルフィの静かな怒り、エミの直情的な嫉妬、リヴィの臨戦態勢、そしてノーラの余裕ぶった挑発。
だが、当の直樹はそんなヒロインたちの修羅場など全く意に介していなかった。彼にとっては、飛び石の基礎が砂に埋もれないことの方が重要だった。
「……ちょうどいい、区切りもついたし、今日はもうログアウトする」
「えっ、ナオ、帰っちゃうの?」
エミが不満げに狐耳を垂らす。
「ああ。現実の方で腹が減った。明日はまた昼頃に来る。それまでにビーチの砂を荒らしたら、明日の飯は抜きだからな」
「えっ、それは困る! ほら、あんたたちも大人しくして!」
明日のご飯を人質に取られ、エミが慌ててシルフィとリヴィの前に立ちはだかる。
直樹はインベントリに石や道具をしまい込み、呆然とするノーラを見下ろした。
「あんたも、あまり無防備に寝てると風邪引くぞ。適当に切り上げろ」
それだけ言い残し、直樹はシステムメニューを開いてログアウトのボタンを押した。
光の粒子となって消えていく直樹の姿を見送った後、ビーチには四人の女性が残された。
「……ふふっ」
ノーラが、艶やかな唇を舐めながら低く笑った。
「本当に、面白い人ね。……ますます手放したくなくなったわ」
「言っておくけど、彼は私たちの専属シェフよ。新入りは弁えなさい」
シルフィが冷たく言い放つ。波の音だけが響くビーチで、静かなる領土争いが幕を開けていた。
★★★★★★★★★★★
視界が暗転し、次の瞬間、ボロアパートの天井が目に飛び込んできた。
顔を覆っていたVRヘッドギアを外すと、部屋の少し湿気た空気が肺を満たす。
「きゅうっ!」
直樹がベッドから起き上がった途端、足元で待機していたこむぎが、短い尻尾をちぎれんばかりに振って飛びついてきた。
「ただいま、こむぎ。いい子にしてたか」
直樹はしゃがみ込み、こむぎの温かい身体を撫でた。小さな舌で指先をペロペロと舐められる感触が、現実世界に帰ってきたことを実感させる。
時計を見ると、午後7時を回ったところだった。
休日の夕暮れ。窓の外からは、遠くの幹線道路を走る車の音が微かに聞こえる。
「腹が減ったな……。今日はガッツリしたものが食べたい気分だ」
VR内での労働は現実の肉体を動かしているわけではないが、脳が消費したエネルギーは確かな空腹感となって胃袋を刺激していた。
直樹は立ち上がり、小さなキッチンへと向かった。
冷蔵庫を開ける。数日前の休日にスーパーで買っておいた食材が目に入った。
『富士宮そば』と書かれた、市販のチルド焼きそばのパッケージ。通常の焼きそば麺とは違い、水分が少なくコシが強いのが特徴だ。
それに、使いかけの豚バラ肉のブロックと、少ししんなりし始めたキャベツの1/4玉。
「よし、これでいこう」
直樹は袖をまくり、包丁とまな板を取り出した。
料理は段取りがすべてだ。システム開発における要件定義とコーディングの順序と同じように、直樹の頭の中にはすでに完成までの最適なフローが組み上がっていた。
まず、キャベツの芯を切り落とし、少し大きめのざく切りにする。火を通すことで甘みが出るが、小さすぎるとシャキシャキとした食感が死んでしまうため、あえて大きさを残す。
次に豚バラ肉を少し厚めの一口大にカットする。富士宮そばのアイデンティティである「肉かす」の代わりとして、この豚肉からしっかりと脂を引き出し、旨味のベースにする計算だ。
コンロに火をつけ、使い込んだ鉄のフライパンを熱する。十分に熱くなったところで、油を引かずに豚バラ肉を投入した。
ジューッ!という激しい音と共に、豚の脂が溶け出し、香ばしい匂いが立ち上る。焦げ目がつき始めると、食欲をそそる香りがさらに強くなった。
直樹は菜箸で手早く肉をほぐし、表面にカリッとした焼き色がつくまで中火でじっくりと炒めた。滲み出た透明な脂がフライパンの底を覆う。これが最高の調味料になる。
「ここに、キャベツだ」
ざく切りにしたキャベツを一気に投入する。豚の脂をまとわせるように、強火でサッと炒め合わせる。キャベツが油を吸ってツヤを帯び、緑色が鮮やかになって甘い香りが立ってきたところで、主役の出番だ。
パッケージから取り出した富士宮そばの麺を、野菜の上に被せるように乗せる。
通常の焼きそばならここでほぐすが、富士宮そばの麺は硬く、無理にほぐせばちぎれてしまう。
直樹は計量カップに少量の水を入れ、フライパンの縁から回し入れた。すぐに蓋をして、蒸し焼きにする。
数十秒。フライパンの中で水分が弾ける音がチリチリという音に変わったのを聞き分け、直樹は蓋を開けた。
蒸気を吸って少しだけふっくらとした麺を、菜箸で一気にほぐしていく。豚肉の旨味とキャベツの甘みが溶け出した水分を、麺に吸わせるように手早く炒める。
水気が完全に飛んだところで、付属の特製ソースを回しかけた。
ジュワァァァッ!!
フライパンの温度でソースが焦げ、スパイシーでフルーティーな、強烈に食欲を刺激する匂いがキッチン全体に爆発した。
直樹はフライパンを大きく煽り、ソースを全体に均一に絡ませる。焦げ付く寸前の、一番香ばしいタイミングを見計らって火を止めた。
皿にこんもりと盛り付け、最後に付属の削り粉(イワシの削り節)と青のりをたっぷりと振りかける。
「完成だ」
立ち上る湯気と共に、ソースと削り粉の入り混じった香りが鼻腔をくすぐる。
直樹は冷蔵庫からよく冷えた缶ビールを取り出し、プシュッと小気味良い音を立てて開けた。ボーナスが出た時に少しだけ奮発して買っておいたプレミアムビールだ。
小さなテーブルに向かい合い、割り箸を割る。
「いただきます」
熱々の麺を大きく持ち上げ、ふーふーと息を吹きかけてから口に運ぶ。
「……美味い」
噛み応えのあるモチモチとした独特の太麺。そこに絡みつく、豚バラ肉のカリッとした脂のコクと、キャベツのシャキシャキとした甘み。それらを特製ソースの酸味とスパイシーさが完璧にまとめ上げている。
後を引く削り粉の風味が、ただの市販の焼きそばを、鉄板焼き専門店の味へと昇華させていた。
すかさず、冷えたビールを缶のまま豪快に喉に流し込む。きめ細かい泡と強い炭酸が、ソースの濃い味を見事に洗い流してくれた。
「っはぁ……最高だ」
濃い味付けの焼きそばと、炭酸の爽快感。これ以上ない組み合わせだ。
直樹は無心で箸を動かし続けた。VRの島で過ごす時間も極上だが、現実世界で自分のために作り、自分で味わうこの時間もまた、彼にとっては代えがたい安息だった。
直樹は最後の一口を飲み込み、ビールの空き缶をテーブルに置いた。
「さて、明日は少し島の北側を開拓してみるか」
足元では、こむぎがおこぼれをもらえないかと期待して、直樹の膝に前足をかけて小さな鼻をヒクヒクさせている。
「これはこむぎには味が濃すぎる。待ってろ、犬用のおやつをやるから」
直樹は立ち上がり、戸棚から犬用のボーロを取り出した。袋の音を聞きつけたこむぎが、短い尻尾をちぎれんばかりに振って足元をくるくると回り始める。
一つ手のひらに乗せて差し出すと、こむぎは勢いよく食いつき、嬉しそうに喉を鳴らした。
その小さな頭を撫でながら、直樹は休日の夜の静けさに身を委ねた。




