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限界社畜のVR開拓記〜クビになったらVIP客が元職場を滅ぼした〜  作者: 伊達ジン


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第16話 謎の暴落と静かなる処刑

 月曜日の朝。


 杉本直樹は、クローゼットからアイロンの掛かったネイビーのスーツを取り出した。


 ハンガーから外す際のカサリという乾いた衣擦れの音が、6畳間の静寂をわずかに揺らす。その微かな音を拾い上げたのか、ベッドの足元で丸くなっていた茶色と白の毛玉が、弾かれたように顔を上げた。


「きゅう……」


 チワワのこむぎだ。


 こむぎは、直樹が休日に着ているラフな綿のシャツやスウェット姿の時は、短い尻尾をちぎれんばかりに振り回して足元にまとわりついてくる。しかし、この窮屈そうなスーツに袖を通す時だけは、直樹が「どこかへ行ってしまう」ことをすでに学習しているらしく、途端にテンションが下がるのだ。


 こむぎは耳をぺたんと後ろに伏せ、上目遣いで直樹を見上げながら、小さな足でとことこと近づいてきた。そして、直樹が履こうとしていた革靴の横にちょこんと座り込み、直樹のズボンの裾を小さな歯で甘噛みして、軽く、けれども確かな自己主張を込めて引っ張った。


「こら。行かせてくれ」


 直樹が苦笑してしゃがみ込むと、こむぎは待ってましたとばかりに直樹の膝に前足をかけ、顎の下に自分の小さな頭をぐりぐりと押し付けてきた。温かい体温と、かすかに震える心臓の鼓動が、薄手のスーツの生地越しに伝わってくる。


 首筋を撫でてやると、こむぎは目を細め、鼻を鳴らして直樹の手にすり寄った。その愛らしい仕草に、直樹の口元が自然と緩む。


 こむぎの良質なドッグフード代を稼ぎ、この静かで平穏な生活基盤を維持するためには、あの淀んだオフィスへ向かわなければならない。今の直樹にとって、会社とは自己実現の場でも忠誠を誓う場所でもなく、ただそのための手段でしかなかった。


「定時で帰ってくる。おとなしく待ってろよ」


 直樹が立ち上がると、こむぎは諦めたように「くぅん」と小さく鳴き、直樹が脱ぎ捨てた部屋着のシャツの上に移動して、器用に丸くなった。


 直樹は玄関のドアノブに手をかけ、振り返ることなく外の空気の中へと足を踏み出した。


★★★★★★★★★★★


 午前9時。東京株式市場の取引開始を告げる鐘の音は、ダークネス・システムズの社長室においては、完全に死へのカウントダウンだった。


「社長! 株価が……株価が異常です!」


 財務担当役員が、ノックもそこそこに血相を変えて飛び込んできた。


 革張りの椅子に深く腰掛けていた社長が、不機嫌そうに顔を上げる。その傍らには、週末の労基署対応で一睡もしておらず、目の下に真っ黒なクマを作った佐々井部長が立っていた。


「騒々しい。少し下がったくらいで喚くな」

「少しではありません! 寄り付きから凄まじい規模の売り注文が殺到しています! 買い手が全くつかず、現在ストップ安の気配のまま張り付いています!」

「なんだと!?」


 社長は弾かれたように立ち上がり、デスクの上のモニターを覗き込んだ。


 表示された自社の株価チャートは、文字通り垂直に滑落していた。まるで底が抜けたかのような、異常なナイアガラの滝だ。


「どういうことだ! 何か悪材料が出たのか!?」

「わかりません! ただ、金曜日の引け間際から、外資系の複数のファンドが連携するように大量の空売りを仕掛けていた形跡があります。それに……」


 役員はタブレットの画面を震える手でスワイプし、社長の目の前に突き出した。


「今朝方から、業界内の情報サイトやSNSで、不穏な噂が一斉に拡散されています。『中堅システム会社のD社、違法労働で労基のメス』『主要取引先からコンプライアンス違反で契約凍結か』と……」

「馬鹿な!」


 佐々井が悲鳴のような声を上げた。


「グローバル・ネットワークスの監査と労基が動いたのは金曜の夕方だぞ! なぜもう市場に漏れているんだ!」

「どこかの機関投資家が、事前に情報を掴んで空売りを仕掛けたとしか思えません。意図的な相場操縦です!」


 その時、社長室の固定電話がけたたましく鳴り響いた。


 ビクッと肩を震わせた社長が、恐る恐る受話器を取る。相手の言葉を聞くにつれ、社長の顔面から急速に血の気が引いていった。額から脂汗が滲み出し、受話器を握る手が小刻みに震え始める。


「……はい。いえ、それは事実無根の噂でして……。え? 融資の引き揚げ? ちょっと待ってください、今期はまだ……もしもし!? もしもし!」


 ツーツーという無機質な電子音が、静まり返った社長室に響く。


 社長は受話器をゆっくりと置き、亡霊のような声で呟いた。


「メインバンクだ……。規定のリスク基準に抵触したとして、当面の新規融資の停止と、既存融資の一括返済を検討すると……」


 資金繰りの悪化。それは、自転車操業を続けている下請け企業にとって即ち「死」を意味する。融資が止まれば、今月末の社員の給与支払いすらショートする。


「終わりだ……」


 誰かが落とした絶望の呟きが、重苦しい社長室の空気に吸い込まれていった。


★★★★★★★★★★★


 高層ビルの最上階、磨き上げられたガラス張りの窓から東京の街を見下ろすグローバル・ネットワークス社長室。


 島田幸子は、デスクの上に置かれたタブレットの画面を、冷ややかな灰色の瞳で見つめていた。


 画面には、垂直に落ち込むダークネス・システムズの株価チャートが表示されている。


「ご報告いたします」


 背後に控えていた黒スーツの秘書が、感情の乗らない声で口を開いた。


「提携先の投資ファンドを通じた市場での空売り、並びに業界ネットワークを用いた『契約凍結』のリーク、すべて予定通り完了しました。現在、ターゲット企業の株価はストップ安に張り付いています」

「ご苦労様。メインバンクの動きは?」

「情報の拡散と同時に、当社の財務部門から先方のメインバンクへ『今後の取引リスク』に関する非公式な懸念を伝えました。銀行側は即座に融資引き揚げの検討に入った模様です」

「そう。手を緩めないで。完全に息の根が止まるまで、真綿で首を絞めるように圧力を維持しなさい」


 幸子は淡々と指示を出しながら、傍らに置かれたボーンチャイナのカップを手に取り、香り高いダージリンティーを一口飲んだ。


 数十億の金が動き、一つの企業が社会的に抹殺されようとしている状況下でも、彼女の心拍数は平時と全く変わらない。


(私たちの専属シェフの時間を奪う害虫は、一匹残らず駆除する)


 幸子の手元のスマートフォンが短く振動した。


 暗号化されたメッセージアプリを開くと、『オリヴィア』からの短いテキストが表示されている。


『法務面での準備、完了。いつでも息の根を止められるわ』


 幸子の唇の端が、微かに吊り上がった。


「ええ、よろしく頼むわ、リヴィ」


 幸子の呟きは、空調の微かな音だけが響く社長室に、静かに溶けていった。


★★★★★★★★★★★


 午前9時5分。


 ダークネス・システムズのフロアは、静まり返っていた。キーボードを叩く音すらまばらで、若手社員たちはスマホのニュースサイトに表示される自社の社名と株価の暴落を、青ざめた顔で盗み見ている。


 そこへ、直樹がいつもと変わらない足取りで出社してきた。


「おはようございます」


 短く声をかけ、自分のデスクに鞄を置く。PCの電源を入れ、ジャケットを脱いで椅子の背もたれにかけた。


 その一連の淀みない動作が、フロアの淀んだ空気を一瞬だけ切り裂いた。


「杉本ぉっ!!」


 奥の席から、目を血走らせた佐々井部長がドスドスと足音を立てて歩み寄ってきた。ネクタイは緩み、スーツには皺が寄っている。週末の泊まり込みの激務と、今朝のパニックで完全に余裕を失っていた。


「お前、会社がこんな状況の時に、のんきに定時出社か! 土日はどうしてたんだ!」

「休みですが。何か問題でも?」


 直樹はモニターから視線を外さず、淡々と答えた。


「問題でも、だ!? 労基の対応と、グローバル・ネットワークスからの契約凍結の始末で、俺たちは一睡もしてないんだぞ! お前が金曜日に勝手に帰るからだ!」

「私は金曜日の段階で、自分に割り当てられたタスクはすべて完了させています。それ以上の対応は管理職である部長の責任範疇でしょう。休日出勤の指示も受けていませんし」


 直樹の声には、怒りも焦りもない。ただ事実を述べるだけのフラットな温度が、佐々井の神経をさらに逆撫でした。


「てめえ……自分がどういう立場か分かってんのか! 会社が潰れるかもしれないんだぞ!」


 佐々井が直樹の胸ぐらを掴もうと手を伸ばす。


 だが、直樹がゆっくりと顔を上げ、冷ややかに佐々井を見据えた瞬間、佐々井の手は空中でピタリと止まった。


「それより、佐々井部長」


 直樹は佐々井の伸ばしかけた手を無視し、モニターの画面を指差した。


「先ほどから、各部署で社内の稟議システムやファイルサーバーへのアクセスが異常に重くなっています。おそらく、不安に駆られた社員が一斉に経費精算の処理や、自分のデータのバックアップを取ろうとしているのでしょう。トラフィックが限界を超えています」

「な……それがどうした!」

「このまま放置すれば、サーバーがダウンし、進行中の数少ない開発業務すら完全に停止します。一時的に帯域制限をかけ、重要度の低いアクセスを遮断しますが、よろしいですね」


 直樹の的確な状況判断とシステムへの対応策に、佐々井は言葉に詰まった。


「あ……ああ、勝手にしろ」


 佐々井は捨て台詞を吐くように背を向け、フラフラと自分のデスクへ戻っていった。


 直樹は再びキーボードに向かった。


 システムエンジニアとしての最低限の矜持として、自分が組み上げたシステムが外的要因で無様に落ちることだけは防いでおきたい。それに、さっさとこの残務処理に近いタスクを終わらせなければ、定時で帰れない。


★★★★★★★★★★★


 昼休み。


 直樹はオフィスの屋上に上がり、コンビニで買ってきたサンドイッチをかじりながら、スマートフォンを取り出した。


 立ち上げたのは、ペットカメラのアプリだ。


 画面には、留守番中の直樹の部屋がモノクロの映像で映し出されている。


 カメラの角度を操作してベッドの方へ向けると、そこには、直樹が今朝脱ぎ捨てていった部屋着のシャツを器用に丸めて顎敷きにし、スースーと眠っているこむぎの姿があった。


 直樹の口角が、自然と緩む。


 帰ったら、少し長めに散歩に行ってやるか。


 そうすれば、こむぎも喜ぶだろう。


 そして、散歩から帰ったら、またあのVRの島にダイブしよう。


 昨日の夕飯で残った豚肉のブロック肉がある。システム内で醤油と砂糖、それに生姜の代わりになる香草をじっくりと煮込んで、角煮でも仕込んでみるか。


 あの白い獣のルナが嬉しそうに尻尾を振る姿や、エミが口の周りを汚しながら肉に食らいつく姿が目に浮かぶ。

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