第8話 洗練された男の帰還と、静かなる暗躍
胸元に感じる心地よい重みと、カーテンの隙間から差し込む夏の朝陽。それが、杉本直樹を静かな覚醒へと導いた。
「きゅう」
顔を舐めようとしてくるチワワのこむぎをそっと撫でながら、直樹はゆっくりと上体を起こした。時計を見ると、アラームが鳴るまでまだ30分以上ある。以前なら泥のような疲労感に引きずられてギリギリまで二度寝を貪っていたはずだが、今は不思議と頭がクリアだった。
ベッドから降り、洗面所へと向かう。両手にすくった冷たい水で顔を洗うと、指先から伝わる肌の弾力が昨日までとは明らかに違っていた。
タオルで水気を拭き取り、ふと鏡を見た直樹は、少しだけ目を丸くした。
くすみがちだった顔色には健康的な血の気が巡り、弛んでいた顎のラインはすっきりと引き締まっている。何より、常に焦点が合っていなかった目に、確かな活力が宿っていた。
VR空間で『完璧な睡眠』をとり、栄養バランスを錯覚させる疑似的な食事を摂り、大自然の中で労働するというサイクルが、現実の肉体の回復機能を劇的に引き上げている。最新技術の恩恵とはいえ、ここまでダイレクトに体調に表れるものかと直樹は感心した。
手早くシェーバーを滑らせると、そこには32歳という年齢相応の、精悍で落ち着いた大人の男の顔があった。
キッチンに向かい、こむぎの皿にドッグフードと新鮮な水を補充する。ついでに自分のためにも食パンを焼き、冷蔵庫にあった卵を落とした。朝に自分のための食事を用意する余裕など、ここ数ヶ月の記憶にはなかったことだ。
クローゼットを開け、休日にクリーニングに出しておいたネイビーのスーツを取り出す。
袖を通した瞬間、直樹は肩回りの収まりの良さに気づいた。VR内で連日重い石斧を振り回し、木材を担いでいたおかげで、無意識に前傾していた姿勢が矯正され、胸板に自然な厚みが出ている。
ネクタイを締める手つきにも迷いはない。鏡の中に立つ自分は、疲労に押し潰されかけていた限界の社畜ではなく、第一線で活躍するビジネスマンとしての静かな自信を身にまとっていた。
「行ってくる。おとなしくしてるんだぞ」
短く吠えるこむぎに見送られ、直樹は足取りも軽くアパートのドアを開けた。
★★★★★★★★★★★
午前8時の通勤ラッシュ。
駅のホームは相変わらずの蒸し暑さと、これから始まる労働への憂鬱な溜息で満ちていた。
満員電車に押し込まれ、直樹は吊り革を掴んだ。以前なら人の波に寄りかからなければ立っていられなかったが、今日は両足でしっかりと踏ん張り、揺れる車内でも体幹が全くブレない。
ふと、目の前の座席に座っていた若い女性が立ち上がった。直樹と視線が交差する。
女性は「あっ」と小さく息を呑み、直樹の顔をまじまじと見上げた後、さっと耳まで赤くして視線を逸らし、足早に隣の車両へと移動していった。
直樹は軽く首を傾げたが、すぐに思考を切り替えた。頭の中を占めているのは、今日のVRでの夕飯の献立だ。
昨日、海辺の岩場で削り出してきた天然の岩塩がある。それに森の奥で摘んだ数種類のハーブを合わせれば、香りの良い特製ハーブソルトができるはずだ。白身魚にそれを揉み込み、オリーブオイルとニンニクで皮目をパリッと焼き上げる。エミには食後に木の実のタルトも焼いておくか。
直樹は周囲の女性客たちからの、明らかに好意的な戸惑いを含んだ視線に全く気づくことなく、ただ脳内で料理の手順を精密に組み立てていた。
★★★★★★★★★★★
午前9時。定時ちょうど。
直樹が『ダークネス・システムズ』のオフィスに足を踏み入れた瞬間、フロア全体を包み込む異様な空気を肌で感じ取った。
誰もキーボードを叩いておらず、重苦しい沈黙だけが降り積もっている。若手社員たちは青ざめた顔で互いに目配せをし、フロアの中心では、ネクタイを乱した佐々井部長が頭を抱えていた。
直樹が自分のデスクに向かって歩き出すと、その足音に気づいた佐々井が弾かれたように顔を上げた。
「杉本ぉっ!!」
フロア中に響き渡る怒声。佐々井は血走った目で直樹を睨みつけ、ドスドスと足音を立てて歩み寄ってきた。
「お前、こんな状況でのんきに出社してきやがって! 昨日さっさと帰りやがったから、とんでもないことになっただろうが!」
佐々井の唾が飛ぶほどの剣幕にも、直樹は歩みを止めず、自分のデスクに鞄を置いた。
「おはようございます。何か問題でも起きましたか」
「問題でも、だと!? グローバル・ネットワークスから契約凍結の連絡が来たんだよ! 監査部門が直接動いて、うちの開発体制と労働環境を徹底的に調べ上げると言ってきた!」
周囲の社員たちがビクッと肩を揺らす。だが、直樹の表情は一切動かなかった。
直樹はPCの電源を入れ、ジャケットを脱いで椅子の背もたれにかけた。
「なるほど。つまり、コンプライアンス違反の疑いで先方の監査が入るということですね」
「他人事みたいに言ってんじゃねえ! お前が昨日、タスクもまとめずに勝手に帰ったから、先方が怒ったんだろうが!」
佐々井の論理の飛躍に、直樹は小さく息を吐き、ゆっくりと佐々井に向き直った。
「私が昨日退社したのは午後6時の定時です。私の担当分の仕様書も、その時点で共有フォルダにアップ済みでした」
低く、しかしフロアの隅々までよく通る落ち着いた声。
直樹の真っ直ぐな視線が、佐々井の目を射抜いた。
「それに、先方の通達内容は『労働環境の徹底監査』ですよね。私の定時退社が引き金になったという因果関係はありません。むしろ、このフロアで常態化している過酷な労働環境や、管理職による不適切なタスクの丸投げが先方に露見したと考えるのが自然ではないですか」
「なっ……お、お前……」
佐々井は言葉に詰まり、思わず後ずさった。
いつもなら理不尽に怒鳴りつければ縮こまっていたはずの男が、微塵も怯まず、冷静な正論で切り返してくる。その落ち着き払った声音と、真っ直ぐに見据えてくる揺るぎない視線に、佐々井は本能的な気圧されを感じていた。
「ふ、ふざけるな! お前が先方に泣きついて、ある事ない事吹き込んだんじゃないだろうな!」
焦りから出た佐々井の言いがかりに、直樹の目がさらに冷ややかな温度を帯びた。
「私が? いつ、どうやって先方の監査部門に接触したというんですか。証拠のない言いがかりは名誉毀損に当たりますよ」
「っ……!」
「監査が入る以上、こちらから不用意に接触するのは悪手です。下手な隠蔽工作やデータの改ざんを疑われれば、それこそ致命傷になる。我々は粛々と通常の業務を進め、指示を待つべきです」
直樹はそう言い捨てると、再びモニターに向かい、キーボードに手を置いた。
カチャッ、という静かなタイピング音が、静まり返ったフロアに響き始める。
佐々井は真っ赤な顔で数秒間立ち尽くしていたが、直樹の放つ完全に他を寄せ付けない空気に呑まれ、舌打ちをして自分のデスクへと逃げるように戻っていった。
フロアの空気が、少しだけ緩んだ。
隣の席の若手女性社員が、おそるおそる直樹の方へ顔を向けた。
「あの、杉本さん……」
「なんだ」
直樹が顔を向けると、女性社員ははっと息を呑んだ。
至近距離で見る直樹の顔は、昨日までの疲れ切ったおじさんとは別人のようだった。肌は綺麗で、知的な目元には大人の色気すら漂っている。
「えっと……その、なんか雰囲気変わりましたね。すごく……体調良さそうというか……」
「そうか? よく寝るようにしたからな」
直樹は淡々と返し、モニターに視線を戻した。
「それより、先週お前が書いたCモジュールのコードだが、非同期処理の部分が少し冗長だ。監査対応で動けなくなる前に、ここからここまでをこの関数に置き換えておけ。バグのリスクが減る」
「あ、はいっ! ありがとうございます!」
女性社員は顔を赤らめ、慌てて自分のPCに向かった。
フロアのあちこちから、女性社員たちの熱を帯びた視線が直樹に注がれていたが、直樹の意識はすでにコードの海へと没入していた。
★★★★★★★★★★★
午後6時。
佐々井をはじめとする管理職たちが、監査対応のための書類作りに追われ、怒号を飛び交わせている中。
直樹は自分のタスクをすべて完璧に終わらせ、PCをシャットダウンした。
「お先に失礼します」
直樹の言葉に、周囲の社員たちは羨望の視線を向ける。佐々井は電話の受話器を握りしめたまま、憎々しげに直樹を睨みつけたが、呼び止める言葉を発する余裕すらなかった。
オフィスビルを出て、夏の夕暮れの空気を吸い込む。
直樹の足取りは、羽が生えたように軽かった。
(……帰ってこむぎの散歩をして、それから夕飯の支度だな)
現実世界の会社の危機など、今の直樹にとっては自身の生活を脅かすほどのものではなくなっていた。
★★★★★★★★★★★
VR世界。無人島のリゾート。
オレンジ色の夕日が海を染め上げる中、ログハウスの縁側では、いつもの光景が広がっていた。
巨大な綿花クッションの上で、エミが自慢の白い尻尾を抱き枕にしてゴロゴロと転がっている。
その隣では、湯上がりのシルフィが、直樹の作った冷たい果実水を飲みながら優雅に足を組んでいた。直樹の足元では、白い聖獣のルナが丸くなって寝息を立てている。
「ナオ〜、お腹すいた〜。今日のご飯は何?」
ログインして現れた直樹の姿を見るなり、エミがクッションから顔だけを出して甘えた声を出す。
「今から作る。昨日手に入れた岩塩とハーブで、白身魚のソテーにする予定だ。お前には食後にタルトも焼いてやる」
「やったー! ナオ大好き!」
直樹が石で作ったかまどに火を入れると、パチパチという薪の爆ぜる音とともに、温かな空気が周囲に広がり始めた。
すり鉢でハーブと岩塩を挽き、魚の切り身に丁寧に揉み込む。熱した石板にオリーブオイルを引き、ニンニクの香りを移してから魚の皮目を置くと、ジューッという軽快な音とともに香ばしい匂いが漂い始めた。
シルフィは、手際よく魚を焼き上げる直樹の広い背中を見つめながら、ふと口を開いた。
「そういえば、ナオ。現実のお仕事のほうは忙しいの?」
何気ない気遣いの言葉だった。
いつもこの島で自分たちをもてなし、環境を整えてくれる彼が、現実世界で無理をしていないか。それは、この数日で彼の人柄に触れたシルフィにとって、ごく自然に湧き上がる純粋な心配だった。
直樹はフライパン代わりの石板を揺すりながら、振り返らずに答えた。
「ああ、今日は少し騒がしかったが、自分のタスクだけ終わらせて帰ってきた。問題ない」
「そう……ちゃんと休めているなら良かったわ」
シルフィはカップの縁に口を当て、安堵したように微笑んだ。
「ふーん」
クッションの上で尻尾を振っていたエミが、無責任に鼻を鳴らす。
「ナオが仕事で疲れるなんて勿体ないわ。仕事なんて適当にサボっちゃえばいいのよ。どうせならずっとこの島にいればいいのに」
「そうもいかないさ。ほら、手が洗えたら皿を並べてくれ。もうすぐ焼けるぞ」
「……もう。ご飯ができたら許してあげる」
エミはしっぽをパタパタと振りながら、大人しく立ち上がった。
香ばしいソテーの匂いと、甘いタルトの焼ける匂いが混ざり合う。
「お待たせした。白身魚のハーブソテーだ」
直樹が手際よく木製の皿を並べると、エミは目を輝かせて尻尾をふり、シルフィも少し姿勢を正して手元のフォークを取った。
「いただきます」
二人が一口食べると、同時に感嘆の息が漏れた。
「んんーっ! 皮がパリパリで、中はふわふわ! このお塩、すごく美味しい!」
「本当ね……ハーブの爽やかな香りが、魚の旨味を完璧に引き立てているわ」
エミは無我夢中でフォークを動かし、シルフィも味わうようにゆっくりと咀嚼している。足元では、直樹から魚の切れ端をもらったルナが嬉しそうに喉を鳴らしていた。
直樹は自分の分のソテーを切り分けながら、その光景を静かに見つめた。
波の音が一定のリズムで砂浜を撫で、かまどの火が温かく周囲を照らしている。美味しい食事と、くつろぐ者たちの穏やかな空気だけが、この小さな空間を満たしていた。




