第7話 契約見直しと逆鱗
スマートフォンの無機質なアラームが鳴る数分前。杉本直樹は、擦り切れたような疲労感ではなく、細胞の隅々まで休息が行き渡った心地よい覚醒とともに自然に目を覚ました。
黒いVRヘッドギアを静かに外し、軋むベッドの上で小さく伸びをする。カーテンの隙間から差し込む夏の朝の光が、網膜を柔らかく刺激した。
「……よく寝たな」
足元で丸くなっていたチワワのこむぎが、直樹の身動きに気づいて短い尻尾を振りながら顔をすり寄せてくる。その柔らかな淡い茶色の毛並みを撫でながら、直樹はベッドから降りた。
洗面所の鏡の前に立ち、冷たい水で顔を洗う。タオルで水気を拭き取り、ふと顔を上げた直樹は、鏡に映る自分の顔をまじまじと見つめた。
連日の社内泊とエナジードリンクの過剰摂取で、目の下にべったりと張り付いていた赤黒い隈が、明らかに薄くなっている。落ちくぼんでいた頬には自然な血色が戻り、肌の嫌な脂浮きも消えていた。無精髭をシェーバーで丁寧に剃り落とすと、そこには年齢相応の、いや、それ以上に落ち着いた大人の男の顔があった。
「VRの疲労回復効果って、ここまで現実にフィードバックされるのか」
最新のフルダイブ技術が脳波に与える影響は計り知れない。睡眠の質が劇的に改善されたこと、そしてVR内で疑似的とはいえ「美味い飯」を摂取し、美しい自然環境の中で精神的なストレスが完全にリセットされたことが要因だろう。
クローゼットから、休日にまとめてアイロンを掛けておいたシャツを選び、袖を通す。数日前まで、よれよれのシャツを3日連続で着回し、自分の匂いにすら鈍感になっていた自分が嘘のようだった。
こむぎの皿に子犬用のドッグフードと新鮮な水を補充し、小さな頭を指の腹で撫でる。
「行ってくる。おとなしくしてるんだぞ」
こむぎの「きゅう」という愛らしい鳴き声に見送られ、直樹はアパートのドアを閉めた。足取りは、いつになく軽かった。
★★★★★★★★★★★
午後6時。ダークネス・システムズのフロアには、乾いたキーボードの打鍵音と、誰かの重いため息、そして空調の低い排気音だけが充満していた。
直樹はモニターの光を浴びながら、キーボードの上で滑らかに指を滑らせていた。
頭の中は、恐ろしいほどクリアだった。
昨日までなら、絡み合ったコードの依存関係を読み解くのに数時間はかかっていたはずの他人の書いたスパゲティコードが、今は1本1本の糸のようにはっきりと視認できた。
VRの無人島で、効率的な動線を考えながら木材を組み上げ、温泉の導水管とサウナの排熱システムを並行処理していたあの感覚。それが、現実のプログラミングにも完全にリンクしていた。
どの処理をどこに逃がし、どのタイミングでデータベースと同期させるか。メモリの解放漏れはないか。最適解が直感的に導き出され、迷いなく堅牢なコードへと変換されていく。バグの温床となっていた無駄な記述を次々と削ぎ落とし、シンプルで美しい構造へと書き換える。
「……よし。コンパイル通った。単体テストもオールグリーンだ」
エンターキーを静かに叩き、直樹は小さく息を吐いた。
今日までに割り振られていたタスク、さらに明日の午前中までに終わらせる予定だった分の作業まで、すべて完璧に終わっていた。
PCの時計を見る。午後6時5分。
定時は午後6時だ。
直樹は迷うことなく、作業中のファイルを共有サーバーに保存し、PCをシャットダウンした。黒くなったモニターに、すっきりとした顔つきの自分が一瞬映る。
立ち上がり、デスクの上のマグカップを片付け、鞄を手に取った。
「お疲れ様です。お先に失礼します」
周囲の席で死んだ魚のような目をしている同僚たちに短く声をかけ、フロアの出口へと向かう。
「おい、杉本」
背後から、フロアの空気を一気に凍らせるような、濁りきった声が飛んできた。
振り返ると、佐々井部長が眉間に深いシワを寄せて立ち上がっていた。手には、直樹が先日提出したはずの仕様書の束が握られている。
「どこに行くつもりだ」
「定時ですので、帰宅します」
直樹が淡々と答えると、佐々井の顔がみるみるうちに赤黒く染まっていった。
「定時だ? 冗談言うな。明後日のクライアントとのミーティング資料、まだできてないだろうが」
「私の担当部分は、昨日のうちに共有フォルダにアップ済みです。残りは営業部の作成待ちのはずですが」
「営業は今、別の案件で手一杯なんだよ! お前が巻き取って今夜中にまとめとけ。それから、Bチームの進捗が遅れてる。あっちのコードレビューも手伝え」
佐々井が苛立ち紛れに、仕様書の束をバサリと近くのデスクに叩きつけた。ビクッと肩を揺らす若手社員たちの姿が視界の隅に映る。
以前の直樹なら、ここで諦めて鞄を置き、「分かりました」と妥協していただろう。それが組織の波風を立てないための、一番手っ取り早い自己犠牲だったからだ。自分の時間を削れば、この場は丸く収まる。そうやって神経をすり減らしてきた。
だが、今の直樹には明確な「帰る理由」があった。
家に帰って、こむぎの世話をして、一緒に遊ぶ。
そして、あの島にダイブして、風呂を沸かし、夕飯の支度をする。
シルフィが、エミが、ルナが、自分の作った飯を待っている。
そんなささやかだが確かな「自分の生活」を、この無能な上司の保身と怠慢のために犠牲にする気は、もはや毛頭なかった。
「お断りします」
直樹の静かで、しかしはっきりとした拒絶に、フロアの空気がさらに張り詰めた。キーボードの打鍵音が完全に止まる。
佐々井が信じられないものを見るように目を剥く。
「……なんだと?」
「私の業務は完了しています。他部署の遅れを私がカバーする義理はありません。それに、これ以上の残業は著しく生産性を低下させます。明日以降のパフォーマンスにも悪影響が出る。非効率です」
「理屈をこねるな! お前、自分がどういう立場か分かって言ってんのか? お前の代わりなんていくらでも……」
「いるなら、その代わりの誰かに頼んでください。では、失礼します」
直樹は一礼すると、佐々井が次の怒声を発する前に、さっさと背を向けて歩き出した。
「おい、待て! 杉本! 戻れ!!」
背後でフロア中に響き渡る怒鳴り声が聞こえたが、直樹の足は止まらない。自動ドアを抜け、エレベーターのボタンを押す。
扉が閉まる瞬間、顔を真っ赤にして追いかけてこようとする佐々井の姿が見えたが、直樹は一切の感情を動かされることなく、ただ階数表示が下がっていくのを眺めていた。
(……さて、今日の夕飯は何にするか。エミには甘いものを出さないとうるさいだろうな)
オフィスビルを出ると、まだ明るい夏の夕空が広がっていた。
肺いっぱいに外の空気を吸い込む。自由な空気の味がした。
★★★★★★★★★★★
高層オフィスビルの最上階。
全面ガラス張りの社長室からは、東京の煌びやかな夜景が一望できる。しかし、その豪奢なマホガニーのデスクに座る島田幸子の視線は、手元にある1枚のレポートに向けられたまま微動だにしていなかった。
漆黒のハイブランドスーツに身を包んだ彼女は、冷徹な経営トップとしての顔をしていた。
「……つまり、この『ダークネス・システムズ』という下請け企業が、今回の次期インフラシステムの開発において深刻なボトルネックになっているということね」
幸子の低く冷たい声に、デスクの前に直立する担当役員がハンカチで額の汗を拭った。
「は、はい。先方のプロジェクトマネージャーが非常に優秀で、なんとか実作業のスケジュールは維持している状態なのですが……度重なる仕様変更と無茶な人員配置により、そのPM1人にすべての負荷が集中しておりまして。過労による急な体調不良や離脱が強く懸念される、と現場の監査チームから報告が上がっております」
「そのPMの名前は?」
「杉本直樹、です。32歳。彼1人で実質3部門の業務を回している状態でして、ここ1ヶ月の勤怠記録を取り寄せたところ、30日連続の社内泊が常態化していると……」
幸子の長いまつ毛が、微かに伏せられた。
杉本直樹。32歳。異常なまでのタスク処理能力。そして、30連勤という過酷な労働環境。
(一人の優秀な実務担当者に全負荷を集中させ、経営陣はそれを黙認、あるいは助長している)
幸子の脳内で、冷酷なまでの計算が弾き出される。もしその杉本というPMが明日倒れれば、グローバル・ネットワークスの次期インフラ稼働は数ヶ月遅延することになる。たった一人の現場社員の健康状態が、自社の巨大プロジェクトの単一障害点(SPOF)になっているという事実は、経営リスクとして許容できるものではなかった。
「……馬鹿な会社ね」
幸子がぽつりと呟いた言葉に、役員がビクッと肩を震わせる。
「自社の最も価値あるリソースの保護すらできず、そんな属人的で脆弱な体制で綱渡りをするなんて。経営陣の怠慢と無能にも程があるわ」
幸子はデスクの上の万年筆を手に取り、レポートの『ダークネス・システムズ』という社名の上に、躊躇いなく赤い斜線を引いた。
「契約を見直します」
「えっ……しか、しかし、今からベンダーを変更すれば、スケジュールに遅れが……」
「遅れても構わないわ。そもそも、一人の社員を使い潰すようなコンプライアンス違反が常態化している企業に、我々の心臓部を任せること自体が最大のリスクよ。明日朝一番で、ダークネス・システムズの社長と担当部長に連絡を入れなさい。現在のすべての契約を一時凍結し、厳格な監査を入れると」
「す、すべてですか!?」
「ええ。労働基準法違反、下請法違反の疑い。徹底的に洗い出してちょうだい。もし隠蔽工作の形跡があれば、即座に法的措置に移行する準備も進めておくこと」
「承知いたしました……!」
役員が深く一礼し、足早に社長室を退出していく。
広い部屋に1人残された幸子は、革張りの椅子に深く背中を預けた。
目を閉じると、波の音と、香木の匂い、そして昨夜ナオが作ってくれた温かい食事の記憶が蘇ってくる。現実の泥沼のような調整業務に追われる中、あの島だけが彼女の唯一のオアシスだった。
(……今日は早く帰って、ダイブしましょう)
幸子は目を開け、眼下に広がる夜景を見下ろしながら、小さく息をついた。その頭の片隅から、先ほど切り捨てた下請け企業と見知らぬエンジニアの名前は、すでに消え去っていた。
★★★★★★★★★★★
翌朝。
ダークネス・システムズのオフィスは、阿鼻叫喚の地獄と化していた。
「どういうことだ!! なぜ突然グローバル・ネットワークスから契約凍結の連絡が来るんだ!!」
佐々井部長が、電話の受話器を握りしめたままフロアの中心で絶叫していた。
「わ、わかりません! 先方の監査部門からの直接の通達で……。開発体制の脆弱性と労働環境に関する徹底的な監査を入れるから、一切のデータの持ち出しと改ざんを禁じると……!」
電話口で対応していた若手社員の声が裏返っている。フロアの空気は完全に凍りつき、キーボードを叩く手は誰もが止まっていた。
「ふざけるな! 監査だと!? うちは昨日も杉本が帰ったせいで……そうだ、杉本はどうした!! あいつを呼べ!」
佐々井が血走った目で周囲を見渡す。ネクタイは無様に緩み、額にはじっとりと汗が浮かんでいた。
「杉本なら、まだ出社していません。定時出社なので……」
怯えた社員の言葉に、佐々井はギリッと歯を食いしばった。
「あの野郎……この非常時に、のんきに出社待ちか……!」
佐々井の怒鳴り声が空しく響く中、彼の手の中で、保留を知らせる電話の電子音だけが無機質に鳴り続けていた。




