第6話 干物狐と甘い罠.
昼食の片付けを終えた直樹は、ログハウスの縁側に腰を下ろし、インベントリから素材を取り出していた。
島を吹き抜ける風が心地よく、作業をするには絶好の午後だった。
「何を作っているの?」
シルフィが隣のベンチで、食後のハーブティーが入った木組みのコップを傾けながら面白そうに覗き込んでくる。
「クッションだ。ベッドも木の板じゃ硬いし、床に座る時にも何か背もたれになるものが欲しかったんでな。少し待ってろ」
直樹は植物の蔓を器用に編み込んで丈夫な外枠を作る。そこへ先ほど森の奥で採集してきた『天然綿花』の束と、初期装備の布を裁断したものを合わせ、限界まで詰め込んでいく。システムのアシストが働き、縫い目は均等に、かつ強固に仕上がっていく。
ただの綿ではない。先ほどの「精霊の愛し子」の補正のせいか、綿花自体が驚くほどふんわりとしており、指で押すと適度な反発力と共に絶妙に沈み込んだ。
作業効率の良さに任せ、ものの数分で大人がすっぽりと埋もれるほどの大きさの、巨大なクッションが完成した。
試しに直樹が拳を押し当てると、表面が柔らかく沈み込み、ゆっくりと元に戻る。
「……よし。悪くない出来だ」
「それ、私が試してもいいかしら?」
シルフィの目が獲物を見つけたように輝いたが、直樹が答えるよりも早く、足元にいたルナが跳躍した。
白い毛玉は巨大クッションのど真ん中に着地すると、そのままズブズブと埋もれ、幸せそうなため息をついて丸くなった。
「あっ、こら! 私が先って言ったのに」
シルフィが抗議するが、ルナはクッションと同化したまま薄く目を開け、シルフィを見てから「きゅ」と1声鳴いて再び目を閉じた。明らかに煽っている。
「……仕方ない、もう1つ作るか」
「ええ、お願い。私にも絶対作ってちょうだいね」
直樹がインベントリから再び素材を取り出し、2つ目のクッションを作り始めようとした時だった。
「……ん?」
ふと顔を上げると、海岸線の向こう、森と砂浜の境界線あたりを歩いてくる人影があった。
照りつける太陽の下、波打ち際を歩くその姿は、周囲の自然環境とは明らかに浮いていた。
「プレイヤー……かしら。足取りがおかしいわね」
シルフィもそれに気づき、目を細める。
近づいてくるその姿は、女性だった。初期の村人服ではなく、和風の着物をアレンジしたような豪奢な衣装を身に纏っている。頭にはピンと立った白い狐の耳、背後には自分の背丈ほどもある巨大なモフモフの尻尾が砂浜に引きずられていた。
ただ、その華やかな装いとは裏腹に、歩みはふらふらとしており、足元の砂に足を取られて今にも倒れそうだ。
直樹が素材を置き、立ち上がって砂浜に降りた直後。その狐耳の女性は限界を迎えたように膝から崩れ落ち、うつ伏せに砂浜に倒れ込んだ。
「おい、大丈夫か」
駆け寄った直樹が肩を抱き起こす。
見えた顔立ちに、直樹は一瞬だけ息を呑んだ。ゲームのアバターとはいえ、誰もが目を奪われるような圧倒的な美貌だった。高貴でクラシカルな顔立ち、意志の強そうな眉。しかし、その顔色は真っ青で、HPバーは底をつきかけていた。
ステータスには『重度の疲労』『カロリー不足』のアイコンが点滅している。
「……また行き倒れね」
後ろからついてきたシルフィが、苦笑混じりに言った。
「飯と休養が必要だな。運ぶぞ」
直樹は女性を抱え上げ、ログハウスへと向かった。シルフィの時よりもさらに軽い。不健康なほどの軽さだった。
ベッドに彼女を寝かせると、直樹はすぐにかまどへと向かった。
「今回は脱水症状よりカロリー不足が深刻そうだ。消化に良くて、手早くエネルギーになるもの……」
直樹はインベントリを開き、森で採集しておいた素材を素早く確認した。
「パンケーキでも焼くか。幸い、小麦の代わりになる粉と、甘味はある」
直樹は外のかまどに火を入れると、石板を熱し始めた。手早く生地を練り、熱した石板の上に流し込む。じゅうっという軽快な音と共に、甘く香ばしい匂いが辺りに漂い始める。
その間に別の石鍋でベリーを煮詰め、特製のソースを作る。さらに木の実のミルクを撹拌してクリームを立てていく。複数の工程を並行して処理していく手つきは、相変わらず精密機械のように無駄がなかった。
★★★★★★★★★★★
微かな甘い匂いが、鼻腔をくすぐった。
古川秀美は、ゆっくりと重い瞼を開けた。
見知らぬ木の天井。背中には、硬い地面ではなく柔らかな布の感触がある。
(……ここは? 私、たしか誰もいない島を探して歩いていて……)
常に無数のカメラに追われ、数千万人の視線に晒される息苦しい毎日。少しでも体重が変動すればマネージャーから厳しく叱責され、気を抜いた表情はすぐに週刊誌の標的にされる。プライベートな時間すら、変装用の帽子とサングラスに縛られていた。
もう、誰かの評価を気にするのは嫌だった。誰も私を知らない世界で、カロリーなんて言葉すら忘れて、ただゴロゴロしたい。
その一心でVRに逃げ込んだまでは良かった。だが、初期設定で「ミステリアスな妖狐」というロールプレイをしようと着物を選んだのが間違いだった。帯が肺を圧迫して息苦しく、慣れない下駄で歩き回ったせいで足はマメだらけ。チュートリアルを無視したせいで食料の調達方法もわからず、空腹と疲労で倒れたのだ。
「気がついたか」
落ち着いた低い声に、秀美はびくっと身をすくませた。
視線を向けると、簡素なシャツを着た大人の男が、ベッドの脇に立っていた。少し疲労感を滲ませたような、だがどこか余裕のある整った顔立ちだ。
(……男の人。ダメ、完璧に振る舞わないと)
反射的に身構え、秀美は気丈な妖狐の顔を作ろうとした。
「……貴方が、妾を助けてくれたのですね。感謝しま――」
「無理に喋らなくていい。胃が空っぽだろう。甘いものなら入るか?」
直樹は彼女の作りかけた演技をあっさりと遮り、手に持っていた木の盆を差し出した。
秀美は言葉を失い、盆の上のものに釘付けになった。
そこにあったのは、木のお皿に乗った3枚の分厚いパンケーキだった。
表面にはキツネ色の美しい焼き目がつき、上からは森で採れたベリーをじっくりと煮詰めた色鮮やかなソースと、木の実のミルクを撹拌して作った濃厚な代用クリームがたっぷりと掛けられている。傍らには、温かい紅茶の入ったコップから心地よい香りが漂っていた。
立ち上る湯気と、圧倒的なまでの甘い香りが、秀美の理性を激しく揺さぶった。
「あ……」
「生地にはこの島で採れた小麦粉の代用品を使ってる。クリームも植物性のものだ。品質は問題ない。食べられるなら食べておけ」
直樹の口調には、彼女の容姿に見惚れるような下心も、何かを期待するような色も一切なかった。ただ、「疲れているなら甘いものを食って休め」という、純粋な気遣いだけだった。
秀美は無意識に手を伸ばしそうになり、ハッと我に返った。
「だ、ダメよ……こんなの食べたら……カロリーが……」
長年染み付いた過酷な食事制限の恐怖が、彼女の手を止める。
直樹は不思議そうに首を傾げた。
「カロリー? このゲーム、満腹度のステータスはあるが、いくら食べてもアバターが太る仕様はないぞ」
「えっ」
「それに、現実の体にも影響しない。脳が味覚と満腹感を錯覚するだけだ。まあ、食べた直後に激しく動くとシステム的に吐き気を感じるらしいがな」
その言葉は、秀美にとって天啓だった。
(太らない……? この、クリームたっぷりのパンケーキを食べても……?)
「ほら、冷めるぞ」
直樹が木製のフォークを差し出す。
秀美は震える手でそれを受け取ると、もう演技も何もかも忘れ、パンケーキを大きく切り取ってクリームをたっぷりつけ、口の中へ放り込んだ。
「……っ!」
ふわふわの生地が、舌の上でほどけていく。ベリーの強烈な酸味と、クリームの濃厚な甘さが絶妙に絡み合い、脳の奥深くまで突き抜けた。
「おいし……っ、何これ、美味しい……!」
6ヶ月以上、ドレッシング抜きのサラダと鶏の胸肉しか食べていなかった彼女にとって、それは致死量の幸福だった。
1切れのパンケーキが胃に落ちた瞬間、秀美の脳内で何かが弾けた。完璧な自分を保つために張り巡らせていた警戒心も、見栄も、一切がどうでもよくなった。ただ目の前の圧倒的な甘味だけが、彼女のすべてを支配した。
「んん〜っ! 甘いっ! 最高……っ!」
秀美はもう誰の目も気にせず、フォークを動かす手を止めなかった。口の周りにクリームがつくのも構わず、ただひたすらにパンケーキを胃に流し込んでいく。1口、また1口と、瞬く間にお皿の上の山が消えていく。
直樹は壁際にもたれかかり、呆れたような、しかしどこか満足げな目でその食べっぷりを眺めていた。
「ゆっくり食え。お茶もある」
「ん、んぐ……はぁ〜っ……」
最後の1口を飲み込み、紅茶で息をつくと、秀美はベッドの上にだらんと仰向けに倒れ込んだ。
立派な狐耳がへたんと垂れ下がり、緊張感の欠片もないだらしない顔になっている。
「……生き返ったぁ……」
★★★★★★★★★★★
「食ったばかりで横になると行儀が悪いぞ。外の空気でも吸ってこい」
直樹に促され、秀美はのそのそとベッドから起き上がった。
着物の帯が苦しかったのか、インベントリを操作して初心者用のスウェットに着替えている。高貴な妖狐の姿はどこへやら、完全に休日のおっさんのような出で立ちだ。
直樹に続いて外に出ると、縁側には先ほど直樹が作った巨大なクッションが1つ置かれており、銀髪のエルフが身を沈めて優雅にお茶を飲んでいた。
秀美はフラフラとその隣に行き、空いている場所を探すが、板張りの縁側があるだけだ。
「あれ、私の座る場所は……?」
「ああ、あんたが倒れたから、2つ目を作りかけて止まっていたんだったな。今作る。少し待ってろ」
直樹がインベントリから蔓と大量の綿花を取り出す。秀美がぼんやりと見つめる前で、直樹の指先が目にも留まらぬ速さで動き始めた。システムのアシストを完璧に制御した無駄のない挙動で、またたく間に枠組みが編み上げられ、綿花が詰め込まれていく。
ものの数分。秀美がまばたきを数回している間に、大人をすっぽりと包み込む巨大なクッションが完成し、縁側にドンと置かれた。
「……えっ、嘘。何今の速さ」
「座り心地は悪くないはずだ」
秀美は呆気にとられながらも、目の前に現れたふかふかのクッションに引き寄せられ、そのままダイブした。
「……っぁあ」
身体の形に合わせて沈み込む天然綿花の極上の感触に、秀美の口から間抜けな声が漏れる。
「何これ……人をダメにするやつだ……」
直樹は隣の切り株に腰を下ろした。
秀美は巨大な自分の尻尾を抱き枕のように抱え込み、クッションに完全に埋没する。隣のクッションでは、シルフィが空になった木組みのコップを直樹の方へ差し出した。
「ナオ、お茶のおかわりをもらえるかしら」
「分かった」
直樹が立ち上がってやかんを手に取るのを見て、秀美はクッションに埋もれたまま首だけを傾けた。
「ナオ、って言うのね……私、エミ」
「ああ、よろしくな、エミ」
「私、もう動かないわ。ここで一生、ナオの作ったご飯とお菓子を食べて生きていく……」
「そうか。まあ、好きにすればいい」
直樹の否定しないあっさりとした態度に、秀美は心地よさを感じて目を細めた。現実では誰もが彼女を特別扱いし、何かを求めてきた。だが、この男はただご飯を与え、放っておいてくれる。それが何よりも居心地が良かった。
「そういえば、シルフィ」
直樹がお茶を注ぎながら、エルフに声をかけた。
「ルナはどこに行った?」
「さっきまでそこをウロチョロしてたけど、森に入っていったわよ」
シルフィが涼しい顔でお茶を受け取る。
その直後だった。
「きゅっ!」
ログハウスの裏手から、白い毛玉が弾丸のように飛び出してきた。ルナだ。
ルナは迷うことなく一直線に直樹の元へ向かうと、見事な跳躍で直樹の膝の上に着地し、くるりと丸くなって定位置を確保した。
「お、戻ってきたか」
直樹がルナの背中を撫でると、ルナはゴロゴロと喉を鳴らす。
その光景を見ていた秀美の狐耳が、ピクッと反応した。
「……ちょっと、ナオ。その毛玉は何?」
「毛玉じゃない。ルナだ。この島に住み着いてるらしい」
秀美はクッションから身を乗り出し、直樹の膝の上でこれ見よがしに寛ぐルナを睨みつけた。
ルナも薄く目を開け、秀美の巨大な狐の尻尾と、自分の尻尾を見比べるようにした後、ふんっと鼻を鳴らして直樹の手のひらに顔を擦り付けた。
カチン、と秀美の中で何かが弾けた。
「……生意気な毛玉ね。ナオの隣は、私の定位置にするって今決めたのに」
秀美が威嚇するように狐の尻尾を逆立てて「シャーッ!」と牙を剥く。
ルナも直樹の膝の上から立ち上がり、全身の白い毛を逆立てて「グルルル……!」と低く唸り声を上げた。
白狐の獣人と、白い聖獣。モフモフ同士の、ナオの膝を巡る熾烈な縄張り争いが勃発した瞬間だった。
「おいおい、喧嘩はよせ」
直樹が苦笑いしながらルナを撫でてなだめようとするが、ルナは直樹の太ももに爪を立てて絶対に退かない意志を示している。一方の秀美もクッションから這い出し、直樹の腕に抱きついてルナを物理的に押し退けようと奮闘し始めた。
「どきなさいよ! その膝は私のものよ!」
「きゅうぅっ!」
「こら、エミ、引っ張るな。ルナも爪を立てるな。痛いって」
その様子を隣のクッションから眺めながら、シルフィは優雅にハーブティーを飲み干した。
「……全く、騒がしいリゾートになったわね」
そう呆れたように呟きながらも、シルフィの目は直樹のもう片方の空いている隣のスペースをしっかりと計算に入れている。
波の音が静かに響く中、誰もいない辺境の島は、また少しだけ賑やかさを増していた。




