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限界社畜のVR開拓記〜クビになったらVIP客が元職場を滅ぼした〜  作者: 伊達ジン


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第5話 日だまりの特等席と白い獣

 静かな波の音が、心地よい一定のリズムで網膜の裏側を撫でていた。


 ログハウスの簡素な木のベッドで目を覚ました直樹は、しばらくの間、天井の木目をぼんやりと見つめていた。視界の隅に小さく表示させている現実世界の環境モニタリングアイコンは、異常なしを示す緑色を保っている。こむぎはまだ大人しく寝ているようだ。


 深く息を吸い込むと、昨日建てたばかりの香木の微かな匂いが肺を満たした。現実の、淀んで埃っぽいワンルームの空気とはまるで違う。


「……起きるか」


 ゆっくりと上体を起こし、軽く首を回す。30連勤の代償として骨の髄までこびりついていた重金属のような疲労は、昨夜の温泉と深い睡眠によって嘘のように消え去っていた。


 外へ出ると、眩しい朝の光が視界いっぱいに広がった。海風が肌を撫でる。


 隣の湯屋から、微かな水音が聞こえた。シルフィだ。昨夜「一生ここに居座る」と宣言した彼女は、文字通りこのリゾートの最初の住人として、朝から風呂を堪能しているらしい。


 直樹は石で組んだかまどに火を入れ、朝食の準備に取り掛かった。昨日多めに採っておいた野草とキノコ、それに海で捕まえた小魚の干物。システム上で「干す」という工程を挟むことで、保存が利くだけでなく旨味が凝縮される仕様になっていることに昨夜気づいた。


 小魚を網でじっくりと炙り、石鍋で湯を沸かす。インベントリから初期装備の固パンを取り出し、薄くスライスして石板の上で軽く両面を焼く。焦げ目がついたところで、昨日見つけた甘い樹液を薄く塗る。熱で樹液が溶け、キャラメリゼされたような香ばしい匂いが立ち上った。


「いい匂い……」


 振り返ると、湯屋から出てきたシルフィが縁側に腰掛けていた。銀色の長い髪はまだ少し濡れており、首筋に水滴が光っている。初期装備の布服ではなく、直樹がインベントリの素材から適当にクラフトした、風通しの良い白いワンピースのような服を着ていた。


「おはよう。よく眠れたか」

「おはよう、ナオ。ええ、泥のように眠ったわ。あのお風呂、本当に反則ね。出た後もずっと身体の芯がぽかぽかしてる」


 シルフィは目を細め、幸せそうに息を吐いた。あのやつれ切っていた顔に健康的な血色が戻っているのを見るのは、悪くない気分だった。


「パンと魚が焼けた。食べるか」

「いただくわ」


 木のお盆に並べた朝食を渡すと、シルフィは行儀良く両手を合わせ、小さく千切ったパンを口に運んだ。サクッという軽い音の後、彼女の目が驚きに見開かれる。一口食べるごとに、ほうっと小さく息をついた。


「……信じられない。ただの固パンのはずなのに、どうしてこんなに美味しいの?」

「薄く切って火を入れて、甘味を足しただけだ。素材が良かったんだろう。温かいうちにキノコのスープも飲んでおけ」

「ええ、ありがとう」


 直樹は自分の分のパンをかじりながら、視線を島の奥、深い森の方へ向けた。


「俺は午前中、少し畑を作ってくる。見つけた種や苗を植えておきたい。昼には戻るから、適当に休んでいてくれ」

「畑まで作るの? あなた、本当に休む気がないのね」


 シルフィが呆れたように笑う。


「作業自体が苦にならない質でね。それに、食のバリエーションは多い方がいいだろ」

「……確かに。楽しみにしてるわ」


 食後の片付けを済ませると、直樹は石で作ったクワを肩に担ぎ、ログハウスの裏手に広がる平坦な土地へと向かった。


★★★★★★★★★★★


 直樹は黙々とクワを振るい、赤茶けた土を掘り返していた。


 昨日から薄々感じていたことだが、どうもこのアバターの挙動は妙だった。


 作業を始めて1時間。畑にするための区画を整地し、畝を作っているのだが、土にクワを入れるたびに、周囲の空気が微かに発光しているように見えるのだ。


 幻覚ではない。淡い緑色の光の粒子のようなものがフワフワと舞い、直樹の動きに合わせて集まってくる。それらが土に触れると、固かった岩混じりの地面が、まるで計算されたかのように柔らかく解け、ふかふかとした最適な養分を含んだ土壌へと変化していく。


「……なんだ、これは」


 直樹は手を止め、メニュー画面を開いた。ステータスの詳細項目を一番下までスクロールさせると、昨日までは存在しなかった見慣れない項目が1つ追加されていた。


『隠しステータス:精霊の愛し子』


 直樹は眉をひそめた。


「精霊の愛し子……?」


 項目の詳細をタップするが、具体的な数値や効果の説明は表示されない。ただ、状況から推測するに、自然環境に対するあらゆるアクション――伐採、採掘、そして農作業において、強烈なプラスの補正がかかっていることは間違いなかった。


(俺のプレイスタイルが何かトリガーになったのか? それとも、この島自体の特殊なギミックか)


 システムエンジニアとしての思考が数秒間回転したが、直樹はすぐにウィンドウを閉じた。


(まあ、いい。バグにせよ仕様にせよ、作業効率が上がるならそれに越したことはない)


 原因究明に時間を割くよりも、目の前のタスクを処理する方が先だ。直樹は再びクワを握り直し、作業を再開した。


 インベントリにストックしておいた『野生の稲』や『謎の種』を等間隔で丁寧に植えていく。種が土に落ちた瞬間、またしても光の粒子が集まり、種を優しく包み込んだ。瞬きする間に土が僅かに盛り上がり、小さな緑の双葉が顔を出す。


「……成長速度まで補正がかかってるのか。恐ろしい仕様だな」


 直樹が独り言を呟いた、その時だった。


 ガサッ、と背後の茂みが揺れた。


 直樹は即座にクワを構え、音のした方へ向き直った。この島に来てからモンスターらしきものには遭遇していないが、油断はできない。


 茂みがガサガサと揺れ、やがてそこから、小さな白い塊が転がり出てきた。


「……犬?」


 いや、犬ではない。狐のようにも見えるが、耳は丸みを帯び、尻尾は身体の半分ほどもある豊かな毛量でフサフサとしている。全身が新雪のように真っ白な毛に覆われた、中型犬ほどのサイズの獣だった。


 獣は直樹の姿を見ると、警戒する様子もなく、トコトコと短い足で近づいてきた。その足取りはどこかふらついており、鼻先をヒクヒクと動かしている。


 直樹の足元まで来ると、獣はぺたんと座り込み、見上げるようにして「きゅぅ……」と細い声で鳴いた。


 視界の端に、小さな情報ウィンドウがポップアップする。


『聖獣 ルナ』


「聖獣……」


 直樹はクワを下ろし、ゆっくりとしゃがみ込んだ。


 名前の横に表示されているHPバーは半分ほど減っており、空腹を示すアイコンが点滅している。どうやらお腹を空かせているらしい。


 直樹はインベントリを開き、今朝の残りの小魚の干物を取り出した。それを手のひらに乗せて差し出すと、ルナと呼ばれた獣はくんくんと匂いを嗅いだ後、勢いよくかぶりついた。


「食欲はあるな。ゆっくり食え」


 直樹が空いている方の手でその白い頭を撫でると、驚くほど柔らかく、滑らかな感触が伝わってきた。現実世界でアパートにいるこむぎの毛並みも良いが、こちらは文字通り上質なシルクのような触り心地だ。


 撫でられている間、ルナの身体から微かに光の粒子が立ち上り、直樹の手に吸い込まれていく。同時に、直樹の身体からも粒子が溢れ、ルナを包み込んだ。


「きゅうっ」


 魚を平らげたルナは、満足げに目を細め、直樹の手のひらに自分の顔をぐりぐりと押し付けてきた。


「……さて。作業に戻るか」


 直樹が立ち上がると、ルナもぴょんと立ち上がり、直樹の足元にピタリと寄り添った。1歩歩けば、ルナも1歩ついてくる。


 どうやら、完全に懐かれてしまったらしい。


「ついてくるなら、邪魔はするなよ」


 直樹がそう言うと、ルナは言葉を理解しているのか、短い尻尾をパタパタと振って応えた。


★★★★★★★★★★★


 昼前。一通りの農作業と周辺の素材集めを終え、直樹はログハウスへと戻った。


 足元には、すっかり影のように張り付いた白い毛玉が一緒だ。


 ログハウスの前の日陰にクラフトしておいた木製の長ベンチには、シルフィが座って海を眺めていた。彼女の傍らには、木のコップが置かれている。


 直樹の足音に気づき、シルフィが振り返った。


「おかえりなさい、ナオ。……あら?」


 シルフィの視線が、直樹の足元で止まった。


 ルナは直樹のふくらはぎの裏からひょっこりと顔を出し、不思議そうにシルフィを見つめている。


「可愛い……犬? 狐かしら。ナオ、その子はどうしたの?」

「森で畑を耕してたら、急に出てきた。餌をやったらついてきて離れなくなったんだ。名前はルナというらしい」

「ルナ。NPCのペットかしら。綺麗な毛並みね」


 シルフィが手を伸ばそうとすると、ルナはサッと直樹の後ろに隠れ、警戒するように「グルル……」と喉を鳴らした。


「……人見知りするみたいね」


 シルフィは少し残念そうに手を引っ込めた。


 直樹は肩のクワを下ろし、息を吐いてベンチの空いているスペースに腰を下ろした。


 その瞬間だった。


 直樹の後ろに隠れていたルナが見事な跳躍を見せた。白い毛玉は空中で弧を描き、真っ直ぐに直樹の膝の上に着地した。


「おっ」


 ルナは直樹の膝の上でくるくると2回ほど回ると、最適なポジションを見つけたように丸くなり、あごを直樹の太ももに乗せて目を閉じた。


「すっかり定位置だな」


 直樹は苦笑しながら、ルナの背中を撫でた。ルナは喉の奥でゴロゴロと猫のような音を立てて喜んでいる。


 その様子を、隣に座るシルフィがじっと見ていた。


 ルナは目を閉じているように見えて、薄く開いた片目で、確実にシルフィの方を見ていた。そして、直樹に撫でられるたびに、これ見よがしに尻尾を揺らし、直樹の手に自分の頭を押し付けている。


 シルフィの目が、僅かに細められた。


 ただのNPCの行動パターンだとは分かっている。だが、昨日からこのリゾートの最初の客としてナオの気遣いを一身に受けていた彼女にとって、ぽっと出の白い獣が彼の膝の上を占拠し、あまつさえ自分に流し目を送ってくる状況は、どうにも面白くなかった。


 シルフィは背筋を伸ばし、静かに口を開いた。


「ねえ、ナオ」

「ん?」

「私、少し肩が凝ってしまったみたいなの。慣れないベッドで寝たせいかしら。もし手が空いているなら、少し揉んでもらえない?」


 甘えるような、それでいて断らせない絶妙なトーンだった。


 直樹が「ああ、構わないぞ」と手を伸ばそうとした瞬間。


「きゅぅん……」


 ルナが、直樹の手を前足でがっしりとホールドした。


 そして、直樹の手のひらに自分の顔を埋め、まるで「行かないで」と言わんばかりに切なげな声を上げた。


 直樹の動きが止まる。


「……悪い、シルフィ。片手ずつなら空いてるが、どうする?」


 直樹は真面目な顔でそう提案した。


 シルフィは、直樹の腕の間からこちらを見つめ返すルナと視線を交差させた。


 ルナの喉から、直樹には聞こえないほどの微かな「ぐるる」という低い音が漏れている。シルフィは静かに息を吸い込み、口角を少しだけ上げた。


「……いいえ、結構よ。無理を言ってごめんなさいね」


 シルフィは微笑みながら、コップの中の水を一口飲んだ。


 波の音が響く静かな縁側で、1人と1匹の視線が静かにぶつかり合っている。


 直樹はそんな不穏な空気に気づく様子もなく、ただ無心で白い毛玉を撫で続けていた。


「……さて、昼飯にするか。ルナの分も要るな」


 直樹が立ち上がると、ルナは名残惜しそうに膝から降りた。


 シルフィはその後ろ姿を見送る直樹の背中を見つめ、ふんっと小さく鼻を鳴らした。そして、誰もいない膝の上へ視線を落とし、静かに目を細めた。

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