第4話 極上のヒノキ風呂と蕩ける鉄の女
空になった木椀を前に、シルフィは微かに充血した目で、ふうと長い息を吐いた。
「ごちそうさま。本当に……美味しかったわ」
「なら良かった。少し休むといい」
直樹は空いた食器を手早く片付けると、木桶に汲んでおいた水で手早く洗い始めた。無駄のない滑らかな動作は、長年の自炊生活と、プロジェクトの空き時間に雑務を片付ける癖が染み付いたものだ。
シルフィはベッドに背中を預け、その背中をぼんやりと見つめていた。
(不思議な人……)
洗い物をする彼の背中から感じるのは、他人を値踏みするような打算や、見返りを求める下心の一切ない、ただの静けさだった。
現実の世界で、彼女の周囲に集まる人間は常に何かを求めていた。数字、権力、あるいはそれに群がる利益。だからこそ、この見ず知らずの男が保つ、無遠慮に踏み込んではこないが、確かな温度のある気遣いが、ひどく心地よかった。
「俺は少し外で作業してくる。疲れているなら、そのまま寝てていい」
「作業って?」
「あんたの部屋作りと、水回りの整備だ」
直樹は振り返り、インベントリから石斧を取り出しながら事もなげに言った。
「え? いや、いくらなんでもそれは悪いわ。昨日も言ったけど、私、手伝うから……」
シルフィが慌てて身を起こそうとしたが、直樹は片手でそれを制した。
「腹に飯を入れた直後に動くと吐くぞ。それに、素人が下手に手を出されるより、俺1人でやった方が早い。気にせず寝てろ」
それは、後輩のバグだらけのコードを修正するよりも、最初から自分で全て書き直した方が早いという、PMとしての悲しい経験則から出た言葉だった。だが、シルフィの耳にはプロフェッショナルとしての頼もしい気遣いとして響いた。
「……ごめんなさい。甘えさせてもらうわ」
「ああ」
直樹がログハウスを出ていくと、波の音と鳥のさえずりだけが残された。満たされた胃袋が体温を上げ、シルフィは抗いがたい睡魔に引きずり込まれるように、再び深い眠りへと落ちていった。
★★★★★★★★★★★
ログハウスの外に出た直樹は、少しだけ首を鳴らし、森を見据えた。
ただの空き部屋を作るだけなら、先日のように1時間もあれば十分だ。だが、直樹の脳内ではすでに、顧客の真のニーズを満たすためのプロジェクトが立ち上がっていた。
『極度の飢餓と脱水状態』。それに、あの痩せこけた頬と、ひび割れた唇。
ゲーム内のステータスとはいえ、彼女が現実でも相当なストレスと疲労を抱え込んでいることは想像に難くない。自分と同じ、擦り切れた側の人間だ。
ならば、提供すべきは単なる雨風をしのぐ寝床ではない。芯から冷え切った身体と心を解きほぐす、究極の癒やし空間だ。
「まずは、温泉の整備だな」
先日掘り当てた温泉は、岩で囲っただけの野趣あふれる造りだ。直樹1人ならそれでいいが、女性客を案内するには少々粗すぎる。それに、着替えのスペースや洗い場も必要だ。
直樹は森の奥へ入り、植生を慎重に観察した。
(温泉に合う、水に強くて香りのいい木材があればいいんだが……)
そう考えながら歩き始めた直樹だったが、驚くほどあっさりと目当てのものは見つかった。まるで森のほうから「これを使ってくれ」と差し出されているような、不思議なくらいの順調さだった。
「……お、これはいけそうだな」
直樹の目に留まったのは、幹が赤みがかった太い樹木だった。表面を軽く削ると、鼻腔を抜けるような、清涼感のある強い香りが漂ってきた。現実のヒノキやアスナロに近い。
「水に強くて、香りがいい。浴槽には最適だ」
直樹は石斧を構えた。
カーン、カーン、カーン。
一切の無駄を省いた、最適化されたモーション。システムの判定が追いつかないほどの速度で木が削られ、次々とインベントリに『香木ブロック』として収納されていく。
十分な量の木材を確保すると、直樹は温泉の湧き出し口へと向かった。
頭の中で、設計図を引き直す。
佐々井部長の「明日までに仕様を変えろ」という理不尽な要求に比べれば、物理法則とシステムルールが明確なVRの建築など、息抜き以下の遊びでしかない。
岩を削り、整地する。インベントリから香木ブロックを取り出し、指先で弾くように空間に配置していく。
カチッ、カチカチッ。
小気味良い音と共に、木材が組み合わさる。直樹は複数の工程を並行処理していた。浴槽の枠組みを作りながら、余った木材で床板を張り、同時に湧き出し口の温度を調節するための導水管を石で組む。さらに、排水の仕組みや、洗い場に敷くための滑りにくい石材の選定など、見えない部分の仕様まで手を抜かない。素人が見よう見まねで作るログハウスとは次元が違う、計算し尽くされた構造だ。
「サウナも要るな……」
直樹は呟きながら、浴槽の隣に小さな小屋を組み上げ始めた。断熱材代わりに土と粘土を壁に仕込み、中央には熱を蓄えるための石を積んだ炉を作る。
作業に没頭する直樹の目は、システムエンジニアとしての冷徹な計算と、純粋な職人としての喜びに満ちていた。やった分だけ、確実に形になる。誰にも邪魔されない。
2時間後。
森の中に、周囲の自然と見事に調和した、香木造りの立派な湯屋が完成していた。
ログハウスとの間には屋根付きの渡り廊下を設け、湯屋の中には脱衣所、洗い場、広々としたヒノキの浴槽。そして、奥には本格的なサウナ室が備え付けられている。
直樹は額の汗を拭い、満足げにその出来栄えを見上げた。
「……よし、稼働テストといこうか」
★★★★★★★★★★★
シルフィが目を覚ました時、窓の外はすでにオレンジ色の夕日に染まりかけていた。
「しまった、寝過ぎた……」
慌てて身を起こす。身体の重さは消え去り、驚くほど頭がクリアだった。現実では何年も味わったことのない、深い休息の証だった。
ベッドから降り、ログハウスの扉を開ける。
「起きたか」
ちょうど外のかまどで、火の番をしていた直樹が振り返った。
「ナオ……ごめんなさい。手伝うって言ったのに」
「気にするな。おかげで捗った」
直樹は立ち上がり、ログハウスの裏手へと顎をしゃくった。
「風呂が沸いてる。汗、流したいだろ」
「風呂……? ええ、でも、どこに……?」
シルフィが裏手へ回ると、そこには朝には存在しなかったはずの、立派な渡り廊下と、木の香りが新しい湯屋が建っていた。
「……は?」
シルフィは絶句した。
「これ、あなたが……? たった数時間で?」
「材料が近くで揃ったからな。ゲームの建築システムが優秀なおかげだ」
直樹は平然と答えるが、シルフィは最新のVRシステムの仕様はある程度把握している。初心者装備のプレイヤーが単独で、短時間でこれだけの規模の建造物を完成させるなど、本来なら数日がかりのプロジェクトであるはずだ。
「……あなた、実はどこかのランカーじゃないの?」
「いや、昨日この機器を買ったばかりの初心者だ。ほら、冷める前に入ってこい。バスタオル代わりの布は脱衣所に置いてある」
直樹に背中を押され、シルフィは半信半疑のまま湯屋へと足を踏み入れた。
脱衣所で初期装備の布を脱ぎ、洗い場への扉を開けた瞬間。
「あ……」
濃厚な、それでいて頭の芯がすっきりするような深い木の香りと、温かな湯気が彼女を包み込んだ。
綺麗に磨き上げられた木の床。その奥に、なみなみと湯を湛えた広い浴槽がある。湯口からはこんこんと新鮮な湯が注がれ、縁から静かに溢れ出していた。
シルフィは呆然としながら、掛け湯をして浴槽へと足を踏み入れた。
「……っぅ」
足先から、太もも、腰、そして肩へと、滑らかな湯が肌に吸い付くようにまとわりついていく。
「ぁ……あぁ……」
熱い湯に完全に肩まで浸かった瞬間、シルフィの口から、彼女自身も聞いたことのないような、間の抜けた声が漏れた。
誰かの視線を気にして無意識に保ち続けていた背中の強張りが、嘘のように解けていく。芯まで冷え切っていた骨の髄から、黒く濁った疲労の塊がじんわりと湯の中へ溶け出していく感覚。常に頭の片隅で鳴り響いていた不快な耳鳴りすら、深い香木が放つ清涼感のある香りが優しく上書きしていく。
「何これ……信じられない……」
シルフィは浴槽の縁に頭を預け、手足をだらんと投げ出した。エルフの長い耳が、気持ちよさそうにぴくぴくと揺れる。
しばらく湯に浸かっていると、ふと視界の端に『サウナ室』と書かれた木札が掛けられた扉が目に入った。
「サウナまで……?」
熱った身体を起こし、扉を開ける。
内部は乾燥した熱気に満ちていた。中央の石積みからは、チリチリとした熱が放射されている。シルフィは木のベンチに腰を下ろした。
数分もすると、玉のような汗が全身から吹き出し始めた。現実の冷房の効いた部屋では決してかくことのない、老廃物を絞り出すような純粋な汗だ。
心臓の鼓動が早くなり、限界に達したところでサウナ室を出る。
直樹の気配りか、サウナ室のすぐ横には、竹の筒から冷たい湧き水が注がれる水風呂が用意されていた。
躊躇なくそこへ身を沈める。
「ひゃっ……!」
冷たさに一瞬息が詰まるが、直ぐに皮膚の表面に薄い温度の膜ができ、内側の熱と外側の冷気が絶妙な均衡を保ち始める。
数十秒後、水風呂を出て、風通しの良い場所に置かれた木のベンチに横たわる。
海から吹き込む夜風が、濡れた肌を優しく撫でた。
その瞬間。
「…………ぁ」
世界が、反転した。
頭の芯が痺れ、視界の輪郭が曖昧に溶けていく。全身の血流が脈打つ音だけが大きく聞こえ、自分がまるで宇宙の無重力空間に浮かんでいるような、圧倒的な多幸感と浮遊感が押し寄せてきた。
いわゆる『ととのう』という状態。極限の緊張と緩和がもたらす、脳内麻薬の分泌だ。
シルフィはベンチにだらしなく手足を広げたまま、虚空を見つめて口を半開きにしていた。
濡れた銀髪が額に張り付いているが、それを払いのける気力すらない。ただ究極の癒やしに完全に屈服し、だらしなく蕩けてしまった姿だけがそこにあった。
★★★★★★★★★★★
「長風呂だったな。湯あたりしてないか」
湯屋から出てきたシルフィを見て、かまどの前の切り株に座っていた直樹が声をかけた。
シルフィの銀糸のような髪は濡れて色気を増し、色白の肌は上気してほんのりと桜色に染まっている。だが、その足取りはどこかふらふらとしており、目はとろんと半ば閉じていた。
「ナオぉ……」
舌足らずな声。シルフィは直樹の隣の切り株に、どさりと腰を下ろした。
「これ、飲んでおけ。水分補給だ」
直樹が差し出したのは、木製のジョッキだった。中には、森で採れた柑橘系の果実を絞り、少しの塩とハチミツに似た甘い樹液を混ぜた、特製のスポーツドリンクのような冷たい水が入っている。
シルフィは両手でジョッキを受け取ると、ごくごくと一気に飲み干した。
「ぷはっ……!」
冷たさと、絶妙な甘酸っぱさが、火照った身体に染み渡る。
「……生き返る」
ジョッキを膝に置き、シルフィはぽつりと呟いた。
「ねえ、ナオ」
「ん?」
「昨日の朝、私が絶対に逃がさないって言ったこと……覚悟しておいてよね」
直樹は黙って先を促すように視線を向けた。シルフィは自分の両手を見つめたまま、ぽつりとこぼした。
「私、本当に現実に戻る気がなくなっちゃった」
それは、甘えでも冗談でもない、痛切な本音だった。
「向こうの世界では、いつも私の周りに人がたくさんいるの。でも、みんな私自身を見ているわけじゃない。私の持っている数字や、決裁印を見ているだけ。私が昨日の夜、温かいご飯を食べたかどうかなんて誰も気にしないし、こんなに安心して休める場所を作ってくれたりもしない」
シルフィはゆっくりと顔を上げ、直樹を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、今まで見せたことのない、無防備な熱が帯びていた。
「でも、あなたは違った。名前も素性も知らない私を拾って、ご飯を作ってくれて……たった半日で、こんな信じられないくらい素晴らしいお風呂まで作ってくれた」
彼女はジョッキの縁を指でなぞり、ふっと自嘲するように笑った。
「あなたの作ったご飯を食べて、あのお風呂に入ったら……もうダメね。私、完全に腑抜けになっちゃったわ。だから……一生ここに居座らせてもらうから」
直樹は少しだけ目を細め、夜の海へと視線を向けた。
面倒なことに巻き込まれるのは嫌いだ。だが、この少し不器用で、いっぱいいっぱいに生きているらしい年上の女性を、追い出す理由など元よりない。それに、自分が作ったものを心から喜んでくれる存在がいることは、直樹自身のすり減った心をも確かに満たしていた。
直樹は無言で立ち上がり、インベントリから大判の布を取り出すと、シルフィの肩にふわりと掛けた。
「湯冷めするぞ」
「……」
「風呂は毎日沸かすし、飯も作る。好きに腑抜けになればいいさ」
直樹のいつもの落ち着いた声に、シルフィの目が大きく見開かれた。
やがて、彼女は布を引き寄せるようにして両手で顔を覆い、深く頭を垂れた。呜咽を漏らすことすらできず、ただ震える肩と、指の隙間からこぼれ落ちる大粒の雫だけが、彼女の限界を超えた安堵を物語っていた。
直樹は何も言わず、ただ静かにかまどの火を細めた。
夜空には、都会では決して見ることのできない満天の星が瞬いている。
パチパチと爆ぜる薪の音と、静かな波の音。直樹は手元のジョッキに残った水を飲み干すと、隣で静かに肩を震わせる彼女の気が済むまで、ただその夜風の心地よさに身を委ねていた。




