第52話 世界最強のセキュリティ特区と、犬小屋作り
初夏の強烈な陽射しを、鬱蒼と茂る広葉樹の枝葉が優しく濾過している。
現実の無人島の中腹、切り開かれた平地には、シュルッ、シュルッというリズミカルで心地よい音が静かに響いていた。
杉本直樹は使い込まれたカンナの刃先を指の腹で微調整し、作業台に固定した分厚いヒノキの板に滑らせている。
薄く透き通るような削り屑が空気を孕んで宙を舞い、同時に、真新しいヒノキ特有の濃厚で清涼感のある香りが周囲に広がった。直樹の額には薄っすらと汗が滲んでいるが、その呼吸は深く、長年の修羅場で培われたシステム構築時のように規則正しい。
先日のサウナ小屋の建造で余った、本土から空輸した最高級のヒノキ材。
直樹はそれをミリ単位で採寸し、釘や金属の金具を一切使わない伝統的な「ほぞ継ぎ」の技法で、あるものを組み上げようとしていた。
「ノーラ。島の北西側に敷設した対潜ソナー網だけど、少し感度を下げられないかしら」
直樹から数メートル離れた、巨大なタープテントの下。
パラソルの陰で冷たいハーブティーのグラスを傾けながら、島田幸子が手元のタブレットから視線を上げずに言った。
「私の直轄チームが展開している海流と地殻変動の観測データと、ミリ秒単位でコンフリクトを起こしているわ。このままじゃ、データ処理のアルゴリズムに余計な負荷がかかる」
「シビアね」
その向かいで、寝椅子に豊満な身体を預けていたノーラが、サングラス越しに呆れたような息を吐く。
「中東の最前線で使っている軍用規格のソナーよ。微細なスクリュー音を拾うためのチューニングだから、ノイズが多いのは仕方ないわ。……まあいいわ、後で部下に周波数の帯域をずらさせる」
「お願い。それと、対空迎撃システムの稼働テストはナオが島にいない時にやってちょうだい。ただでさえ野生動物が怯えているのに、騒音で彼の自律神経が乱れたらどうするの」
「分かってるわよ。迎撃ドローン群は、普段は高度3万フィートの成層圏ギリギリで待機させてるから、地上にはプロペラ音一つ聞こえないわ」
幸子とノーラ。
彼女たちが平然と交わしているのは、間違いなく国家予算レベルの防衛インフラに関する調整だ。現在、この無人島は彼女たちの莫大な資本と権力によって、物理的にも電子的にも不可侵な「絶対安全圏」へと変貌しつつあった。
しかし直樹は、その物騒極まりない会話をただの環境音として聞き流し、手元のノミを木槌で軽く叩いた。
トントン、という硬質な音が響き、木材に見事な凹凸が穿たれる。
「……よし、これで噛み合うはずだ」
複雑な形状に彫り込んだ二つの木材を、寸分の狂いもなく組み合わせる。ピタリと隙間なく木肌が密着し、一つの強固なパーツとなった。
「きゅうっ」
足元で、木の削り屑を不思議そうにクンクンと嗅いでいたこむぎが、短い尻尾を振りながら直樹を見上げた。
「待ってろ、こむぎ。もうすぐお前の専用の休憩所ができるからな」
直樹が作っていたのは、島に連れてきたこむぎが日差しを避けて休むための、犬小屋だった。
犬小屋といっても、ホームセンターで売っているようなプラスチック製のものとは次元が違う。床は通気性を考慮したすのこ状に組み上げ、屋根は雨風を完全に防ぐ二重構造。素材はすべて総ヒノキで、内部には直樹が手作りした特製の綿花クッションが敷き詰められている。
最後の屋根のパーツを嵌め込み、全体を細かなサンドペーパーで滑らかになるまで磨き上げる。どこから見ても芸術品のような、小さなログハウスが完成した。
「こむぎ、入れ」
直樹が入り口を指差すと、こむぎはタタタッと短い足で駆け寄り、躊躇いなく中へと潜り込んだ。
内部のヒノキの香りとクッションの柔らかさが気に入ったのか、くるくると二回ほど回ってから、あごを前足に乗せて満足げに「ふぅ」と小さなため息をつく。
その様子を見ていた幸子とノーラが、タープの下から歩み寄ってきた。
「……相変わらず、異常なクオリティね」
「本当。私の本国の別荘のゲストルームより、この犬小屋の方がよっぽど居住性が高そうなんだけど」
幸子が呆れたように犬小屋の屋根を撫でる。
「島にいる間、こむぎをずっとキャリーケースに入れておくわけにはいかないからな。専用の居場所があった方が落ち着く」
「ナオ。私の専用の居場所も作ってくれないかしら。総ヒノキ造りの、キングサイズのベッドがいいわ」
ノーラが直樹の背中から腕を絡ませ、耳元で甘い声を出す。
「お前のシェルターコテージの中に、すでに最高級のベッドが搬入されてるだろ」
直樹はノーラの腕を軽く解き、作業台の上のカンナやノミを手際よく片付け始めた。
その背中越しに広がる、圧倒的な対空レーダーと防爆シェルター。そして足元にある、小さな総ヒノキの犬小屋。
世界最強のセキュリティ特区の中心には、どこまでも平和で、静かな時間が流れていた。
★★★★★★★★★★★
翌日の昼下がり。
直樹は、秋葉原から少し離れた都内のターミナル駅で、改札から吐き出される人波を静かに眺めていた。
「お待たせ、お兄ちゃん」
人混みを縫うようにして現れたのは、制服のネクタイを緩めた水野亜紀だった。
日差しの強い外を歩いてきたせいか、彼女のトレードマークである日傘がしっかりと握られており、背中にはいつも以上にずっしりとした重みのありそうな黒いリュックを背負っている。
「早いな。……学校はいいのか」
「午後は大した授業ないし。単位の計算は完璧にしてあるから問題ないわ」
亜紀は日傘を畳みながら、直樹の隣に並んだ。
「それに、今日は私がお兄ちゃんの時間を独占する日って、前から予定入れてたでしょ」
「そうだったな。……ずいぶん荷物が重そうだが、待ち合わせの前に秋葉原にでも寄ってきたのか?」
直樹がリュックに視線を向けると、亜紀は少し誇らしげに頷いた。
「うん。注文したサーバーのコア基板、わざわざ海外の倉庫から取り寄せてもらったの。初期不良のロットが混ざってないか、ちゃんと自分の目で確かめないと気が済まないから。……私たちの島を、ガバガバな物理セキュリティで動かしたくないしね」
「相変わらず念が入ってるな。貸せ、持つよ」
直樹がリュックの持ち手に手をかけると、亜紀は少しだけ嬉しそうに目を細めて荷物を預けた。
向かったのは、駅から徒歩数分の場所にある、ビルの高層階に入っている巨大な屋内水族館だった。
館内に足を踏み入れると、外界の蒸し暑さと喧騒が嘘のように消え去った。
冷房の効いた薄暗い空間に、水槽の青い光だけが幻想的に浮かび上がっている。
「ここなら、太陽の光もないし、人も多すぎないだろう」
直樹が前を歩きながら言うと、亜紀は少しだけ目を丸くし、それから小さく口元を綻ばせた。
「……私のこと、吸血鬼扱いしてるの?」
「ただの事実だ。お前は明るい場所より、モニターの光くらいの明るさの方が落ち着くんだろ」
図星を突かれ、亜紀は少しだけむっとしたように唇を尖らせたが、反論はしなかった。
巨大なエイが頭上を泳ぐトンネル型の水槽を抜け、クラゲの展示エリアへとやってきた。
円柱形の水槽の中で、何十匹もの半透明なクラゲが、青や紫のライトに照らされながら、目的もなくフワフワと漂っている。
亜紀は水槽のガラスに手をつき、その動きをじっと見つめていた。
彼女の碧い瞳に、クラゲの青い光が反射している。
「……変な感じ」
ぽつりと、亜紀が呟いた。
「いつも、数字とコードの羅列ばかり見てるから。こういう……計算式がなくて、アルゴリズムも存在しない、ただの無作為な動きを見るのって」
彼女の言葉には、国家の裏側で暗躍する天才ハッカーとしての冷たさではなく、18歳の少女としての素直な戸惑いが滲んでいた。
幼い頃から大人たちにその頭脳を利用され、世界の裏側の汚いデータばかりを見せられてきた彼女にとって、「目的のないもの」は理解の範疇を超えているのだろう。
直樹は亜紀の隣に並び、同じように水槽を見つめた。
「すべてに意味があるわけじゃない。ただ漂っているだけの時間が必要な時もある。……俺も、あの島で木を削っている時は、何も考えてないからな」
「お兄ちゃんのあの作業は、傍から見たら異常な効率化の塊だけどね」
亜紀がクスッと笑う。
「でも……少し分かる気がする。頭の中を空っぽにするための時間なんだね」
「そういうことだ」
水槽の前を離れ、二人は館内のカフェスペースへと向かった。
窓際の席を確保すると、亜紀は珍しく自らカウンターへ行き、二つのトレイを持って戻ってきた。
直樹の前に置かれたのは、いつものブラックの無糖アイスコーヒー。
そして亜紀の前に置かれたのは、色鮮やかな青いゼリーと真珠に見立てた白玉が何層にも重なり、上にバニラアイスが乗った水族館限定の「深海クラゲのパフェ」だった。
「自分で頼んでおいてなんだが、すごい色だな」
「クラゲを見て少しは頭が冷えたからね。あとは冷たい糖分を入れて、疲れた脳みそを休ませるの。パーツ選びで頭を使って、糖分も消費したはずだし」
亜紀はストローの袋を破りながら、理路整然と甘いものを食べる言い訳を並べた。そして、少しだけ照れたように視線を逸らし、長いスプーンですくった青いゼリーとアイスを、直樹の方へとスッと差し出した。
「……お兄ちゃんも、一口食べる?」
それは、秋葉原の喫茶店で「子供扱いしないでよ」と不満げにしていた頃からは考えられない、柔らかな歩み寄りだった。
「もらうよ」
直樹はためらうことなく、差し出されたスプーンからパフェを一口食べた。ラムネ風味のゼリーの爽やかな酸味とバニラの甘さが、コーヒーの苦味を消していく。
「悪くないな」
「……でしょ」
亜紀は少しだけ頬を赤く染め、スプーンを引っ込めて自分もパフェに口をつけた。
冷たくて強烈に甘いゼリーが喉を通るたび、張り詰めていた彼女の肩の力がゆっくりと抜けていく。
「ねえ、お兄ちゃん」
グラスの水滴を指でなぞりながら、亜紀が小さな声で呼んだ。
「私ね、たまに怖くなるの。……あの会社を潰して、お兄ちゃんをあのアパートから連れ出して、私たちの我が儘に付き合わせて、こうやって時々引っ張り出して。……私たちがやってることって、あの社長たちがやってた『搾取』と、どこが違うんだろうって」
亜紀の言葉は、鋭利な刃物のように真っ直ぐだった。
彼女の持つ天才的な頭脳は、自分自身の行動の矛盾すらも、冷酷に計算し、言語化してしまう。
直樹はコーヒーのグラスをテーブルに置き、淡々と答えた。
「違うな」
「何が?」
「搾取ってのは、相手から選択肢を奪って、一方的に消耗させることだ。俺は今、自分の意志であの島を開拓し、自分の意志でお前たちの飯を作り、自分の意志で今日、ここにいる」
直樹は亜紀の目を真っ直ぐに見据えた。
「俺はもう、誰の道具でもない。……お前も、誰かのための道具じゃない。ただの、甘いものが好きな高校生だ」
その言葉に、亜紀の目がわずかに見開かれた。
グラスを握る彼女の指先が、微かに震えている。
「……生意気。大人の余裕ぶっちゃって」
亜紀は強がってそう言い捨てたが、その目尻はほんの少しだけ赤く染まっていた。
彼女はパフェのアイスを大きくすくい、無理やり口の中に放り込む。
「美味しいか」
「……うん。すごく甘い」
薄暗い水族館のカフェ。
冷房の微かな稼働音に包まれながら、ラムネ風味の青いゼリーと溶けかけたバニラアイスが、グラスの中で静かに混ざり合っていく。
微かな水の音を聞きながら、二人はいつまでも、穏やかな休日の午後を惜しむように座っていた。




