第51話 最強の盾たちと、目玉焼きの焼き加減
朝露をたっぷりと含んだ下草が、微かな海風に揺れてサラサラと葉擦れの音を立てている。
エメラルドグリーンの海面から昇る太陽が、現実の無人島を少しずつ黄金色に染め上げていく。鬱蒼と茂る森の奥からは、名前も知らない野鳥たちのさわやかなさえずりが響き渡り、誰もいない島に新しい一日の始まりを告げていた。
完成したばかりの広大なウッドデッキ。その一角に設けられた野外キッチンの前で、直樹は黒光りする鉄のフライパンをじっと見つめていた。
使い込まれたネイビーのエプロンを締め、全神経をコンロの火加減と油の温度に集中させている。
彼の背後、なだらかな丘の上には、ノーラの手配したPMCが敷設した軍事レベルの対空・対潜センサーの巨大なレーダーが、一定の速度で静かに回転している。さらにその横には、ベルの医療財団が莫大な資金を投じて持ち込んだ、防爆・完全防菌仕様のシェルターコテージが鎮座していた。
本来であれば、手付かずの大自然の景観を著しく損なう、オーバースペックで無骨極まりない設備たちだ。だが、直樹の目には、それらもすでにこの島の見慣れた『風景』の一部として完全に溶け込んでいた。
「……よし」
フライパンに引いたオリーブオイルから、微かに白い煙が立ち上がった瞬間。直樹は手元のボウルにあらかじめ割っておいた二つの卵を、縁から滑らせるようにして静かに投入した。
ジューーーッ!
心地よい破裂音と共に、透明な白身が瞬時に白く不透明に変わり、縁がチリチリと波打ちながら香ばしい焦げ目を作っていく。
直樹は火加減を絶妙に弱め、フライパンの柄を細かく揺らして卵が底にくっつくのを防ぐ。蓋はしない。蒸し焼きにして黄身の表面を白く濁らせるのではなく、鮮やかなオレンジ色を保ったまま、白身の底面だけをカリッと揚げ焼きにする。それが直樹の理想とする目玉焼きだ。
白身の八割が固まり、黄身がぷるんと震える状態を保ちながら、薄い膜が張り始めたその完璧な瞬間に火を止める。
フライパンの余熱で最後の火入れを行っていると、背後からサンダルがデッキの板を踏む、パタパタという軽い足音が聞こえた。
「おはよう、ナオ。朝からすごくいい匂いがするわね」
振り返ると、シェルターコテージから出てきたばかりのイザベラ・バルガス――ベルが、手で小さくあくびをしながら歩いてくるところだった。
上質なリネン素材の白いオーバーサイズシャツに、短いデニムのショートパンツというラフな出で立ち。タイトに結い上げられた普段の髪は無造作に下ろされ、豊かな褐色の肌が朝陽を浴びて健康的な艶を放っている。
VIPの命を預かる天才外科医としての、あの張り詰めたような緊張感は鳴りを潜め、そこにあるのは、どこか隙だらけで無防備な一人の女性の姿だった。
「起きるのが早いな。理事長の仕事はいいのか」
「今日は完全なオフよ。予定されていたオペも、理事会のクソ退屈な会議も、全部来週に回したわ。私のスケジュールを丸一日空けるために、秘書が三日徹夜してたみたいだけど」
ベルは悪びれる様子もなく肩をすくめ、キッチンカウンターの前に置かれたハイスツールに、長い脚を組んで腰を下ろした。
「ブラック企業だな。後でしっかり労ってやってくれよ」
「人聞きの悪いこと言わないで。その分、莫大な特別手当と一ヶ月の有給休暇を約束してあるわ。……それに、私自身がここで限界まで息抜きをしないと、次のオペで指先が狂いそうだったから」
ベルはカウンターに頬杖をつき、直樹の手元をじっと見つめた。
直樹はそれ以上は何も言わず、焼き上がった完璧な半熟目玉焼きを、あらかじめお湯で温めておいた白い皿に滑り込ませた。隣のコンロで炊き上がっていた土鍋の蓋を開け、艶やかに光る白米を茶碗によそう。最後に、島で採れた海藻と自家製の味噌で作った熱々の味噌汁を添えて、ベルの前に並べた。
「味付けは塩と胡椒、それとも醤油か?」
「醤油で。たっぷりね」
直樹が小皿で醤油を渡すと、ベルは受け取り、黄身の頂点に数滴垂らした。
箸を手に取り、白身のカリッとした端の部分から切り分けるようにして口に運ぶ。
「……んっ」
ベルの長いまつ毛が伏せられ、微かに喉が鳴る。
底面の香ばしさと、白身のプリプリとした食感。そして、絶妙な温度で温められた濃厚な黄身が、醤油の塩気と混ざり合って口の中に広がる。
ただの目玉焼きだ。高級な食材を使ったフレンチでもなければ、緻密に計算された薬膳料理でもない。だが、その一つのありふれた食材に対して、一切の妥協なく注ぎ込まれた「完璧な火入れ」という技術が、ベルの疲労した細胞の隅々にまで染み渡っていく。
「美味しい……。ナオ、あなた本当に、ただのシステムエンジニアだったの? うちの財団の専属シェフでも、ここまで完璧な火入れはできないわ」
「ただの慣れだ。自分の食う飯くらい、自分で美味く作れないと心が死ぬからな。……まあ、昔はゼリー飲料しか喉を通らない時期もあったが」
直樹は自分用の目玉焼きを皿に乗せながら、淡々と答えた。
ベルは土鍋ご飯に目玉焼きを乗せ、黄身を崩してご飯に絡めながら、幸せそうに頬張っている。その表情は、世界的な権威を持つ外科医のそれではなく、美味しい朝食に心底喜ぶ、普通の女性の顔だった。
二人で波の音を聞きながら静かに朝食を終え、直樹が手際よく食器を洗い始めた頃。
食後のコーヒーが入ったマグカップを両手で包み込んでいたベルが、ふと顔を上げた。
「ねえ、ナオ。今日は一日、私のために時間を使いなさい」
それは提案というより、有無を言わせぬ決定事項のような響きだった。
直樹は洗った皿を水切りカゴに伏せ、水道の蛇口をキュッと締めてから振り返った。
「予定を空けたってのは、そういうことか」
「ええ。他の子たちが来る前に、私の特権を行使させてもらうわ。文句ある?」
挑発的に微笑むベルに対し、直樹は特に動じることもなく、エプロンを外して壁のフックに掛けた。
「いいだろう。ただし、リゾート気分の散歩じゃないぞ。今日は島の東側、崖の近くの地質を見に行く予定だった。岩塩の鉱脈があるかもしれないからな。少し歩く」
「上等よ。私をただの深窓の令嬢と一緒にしないで。足腰には自信があるわ」
ベルはマグカップの残りを飲み干し、勢いよく立ち上がった。
★★★★★★★★★★★
一時間後。
二人は鬱蒼と茂る森の中を歩いていた。
直樹は手にした鉈で邪魔な枝を払いながら、歩きやすいルートを的確に選び出して進んでいく。足元の土の硬さ、傾斜、風の通り道。彼は無人島の自然環境を、かつてのシステムコードの羅列を読み解くかのように、冷静かつ正確に観察し、判断していた。
「足元、苔が滑るな。そっちの木の根を踏んだ方がいい」
直樹が振り返り、少し手を差し伸べる。ベルはその手を取り、ヒールのないスニーカーで軽快に段差を越えた。
ベルは直樹の少し後ろを歩きながら、その広い背中をじっと見つめていた。
(本当に、不思議な男……)
彼女の周囲にいる男たちは、彼女の莫大な財力、医療界での権力、あるいは美貌に群がる有象無象ばかりだ。少しでも隙を見せれば足元をすくわれ、弱みを見せれば食い物にされる。だから彼女は、常に完璧な「イザベラ・バルガス」として振る舞い、誰に対しても防御の姿勢を崩さなかった。
だが、この男は違う。
彼はベルが何者であっても、全く態度を変えない。過剰に気を遣って媚びるわけでもなく、かといって冷たく突き放すわけでもない。ただ、そこにある自然な距離感で、彼女の歩幅に合わせ、棘のある植物を薙ぎ払ってくれている。
そこに特別な意図はない。ただ彼が、「そうする方が効率的で安全だから」やっているだけだということが、ベルには心地よかった。
「少し休むか」
森を抜け、視界がぱっと開けた場所に出た。
眼下には切り立った崖と、どこまでも広がる群青色の海。遮るもののない強い海風が真っ直ぐに吹き付けてきて、ベルの長い髪を大きく揺らした。
直樹は崖の縁から少し離れた、手頃な平らな岩を見つけると、腰を下ろしてバックパックを下ろした。
ベルもその隣に座り、大きく息を吸い込んだ。潮の香りと、濃密な緑の匂いが肺の奥まで満たしていく。
直樹はバックパックから保温水筒を取り出し、蓋のカップに冷たい琥珀色の液体を注いだ。
「ほら。自家製のレモネードだ。歩いて汗をかいただろうから、少し塩を強めにしてある」
ベルはカップを受け取り、一口飲んだ。
キンと冷えた温度と、レモンの鮮烈な酸味、そして微かな塩気が、歩いて火照った身体に心地よく染み渡る。
「……ふぅ。生き返るわ」
カップを両手で持ったまま、ベルは群青色の海を見つめた。
「ねえ、ナオ」
「どうした」
「私ね、昨日まで、本当に気が狂いそうだったの」
ベルの声は、足元で砕ける波の音に溶けそうなほど、静かで細かった。
「三日連続で、絶対に失敗できないオペが続いたわ。中東の王族、ヨーロッパの要人。私が少しでもメスを入れる角度を間違えれば、国家間のバランスが崩れるような連中ばかり。……手術室の中では、私は神様でいなきゃいけない。誰よりも完璧に、一切の迷いなく血管を縫合する。でも、オペが終わって一人になった瞬間、手の震えが止まらなくなるのよ」
直樹は何も言わず、ただレモネードの入った自分の水筒に視線を落としていた。
余計な慰めも、的外れなアドバイスも口にしない。ただ、彼女が吐き出す重い言葉を、その場に留めるように黙って聞いている。
「でもね」
ベルは直樹の方へ顔を向け、柔らかく微笑んだ。
「今朝、あなたが焼いてくれた目玉焼きを食べてる時。……私、自分がただの『ベル』に戻れていることに気づいたの。バイタルモニターのアラートの音も、消毒液の匂いもしない。ただ、美味しいご飯を食べて、こうして波の音を聞いているだけ。それが、どれだけ救われるか」
ベルはカップを岩の上に置き、直樹の肩にコトン、と自分の頭を預けた。
直樹は避けることも、抱き寄せることもしなかった。ただ、そのままの姿勢で、海から吹く風を真っ直ぐに受け止めている。
「……もう少しだけ、こうさせて」
「ああ。気が済むまで休んでいけ」
直樹の低く落ち着いた声が、ベルの耳元で響く。
その時、直樹の視界の端で、丘の上に設置されたレーダーが微かに異なる軌道を描いて動いたのが見えた。同時に、風の音に混じって、遥か遠くの空で小さく「パァン」という乾いた破裂音が響いたような気がした。
ノーラの部隊が、この島に近づこうとした所属不明のドローンか何かを、遥か遠距離で静かに撃ち落とした音かもしれない。
だが、直樹は微動だにせず、振り返ることもしなかった。
それが何であれ、今の彼には関係のないことだ。
彼が守るべき日常は、目の前の海と、隣で静かな寝息を立て始めた女の安らぎ、そして明日の献立を考えることだけだ。
「……次は、豚の角煮でも仕込むか」
直樹の呟きは、波の音に吸い込まれて消えた。
強固な盾たちに守られた、平和すぎる新生活の幕開け。
限界社畜だった男の究極のスローライフは、静かに、そして確かにこの現実に根を下ろし始めていた。




