第50話 最高のヒロインたちと、究極のスローライフ
現実の無人島に朝が来た。
水平線からゆっくりと昇る太陽が、エメラルドグリーンの海面をまばゆい黄金色に染め上げていく。波が白い砂浜を優しく撫でる一定のリズムと、遠くの木々で野鳥がさえずる声だけが、まだ目覚めきっていない島の静寂を心地よく揺らしていた。空はどこまでも高く澄み渡り、初夏の少しだけ湿気を帯びた海風が、豊かな森の緑を抜けて吹き下ろしてくる。
杉本直樹は、完成したばかりの広大なウッドデッキに併設された野外キッチンの前に立っていた。
数日前にノーラが手配したPMC部隊が敷設を終えたという、軍事レベルの対空・対潜センサー網。そして、ベルの医療財団が莫大な資金を投じて持ち込んだ、防爆・完全防菌仕様のシェルターコテージ。それら国家予算規模のオーバースペックな設備も、今はただの静かな風景の一部として、この大自然の中にすっかりと溶け込んでいる。
直樹は使い込まれたネイビーのエプロンの紐を腰でキツく結び直し、目の前の土鍋に意識を集中させた。
あらかじめ一時間ほど浸水させて芯まで水分を含ませておいた特Aランクの米が、土鍋の中で見事な対流を起こしている。火を止め、十分に蒸らしの時間を取った分厚い木の蓋を、ゆっくりと持ち上げる。
ふわりと、圧倒的な米の甘い香りが白い湯気と共に立ち上った。
「……よし。完璧だな」
直樹は短く呟き、艶やかに輝く炊き立てのご飯を、水で濡らしておいたサワラの飯台へと移した。一粒一粒がしっかりと立ち、表面には米が美味しく炊き上がった証拠である美しいカニ穴が開いている。しゃもじで切るように混ぜ、余分な水分を飛ばしていく。
隣のコンロでは、厚切りの銀鮭が焼き網の上でチリチリと音を立てていた。
事前に軽く粗塩を振り、キッチンペーパーで包んで一晩寝かせることで、余分な水分を抜いて旨味を極限まで凝縮させておいたものだ。直樹は火箸を使い、遠火の強火で皮目をパリッと焦がし、身はふっくらとジューシーに焼き上げていく。滲み出た透明な脂が炭火にポタポタと落ち、ジュワッという音とともに食欲を暴力的に刺激する香ばしい匂いが潮風に乗って広がった。
焼き上がった鮭をまな板に移し、火傷しそうな熱さに耐えながら、手早く骨を抜き取る。包丁は使わず、身の繊維に沿って箸で粗くほぐすことで、口に入れた時のホロホロとした食感を残す。
そこに、京都から取り寄せた極上のチリメン山椒をたっぷりと合わせた。実山椒の鮮烈で爽やかな香りと、じゃこの凝縮された旨味が、鮭の濃厚な脂と絶妙に絡み合う。
直樹は手水を取り、手のひらに少量の粗塩を馴染ませた。
飯台からすくった熱々のご飯の中央に、鮭とチリメン山椒の具材をたっぷりと乗せ、空気を包み込むようにして、三回だけ軽く握る。
ギュッと押し固めるのではない。外側は崩れないよう形を保ちつつ、口に入れた瞬間に米粒がふわりと解ける、プロ顔負けの絶妙な力加減だ。
もう一種類は、昔ながらの酸っぱく塩分の強い、大粒の南高梅。
果肉を叩いてペースト状にするのではなく、あえて粗くちぎることで、梅本来の果肉の食感と鮮烈な酸味を際立たせた。
それを、軽く炙って香りを立たせた有明海産の海苔で包み込み、大きな竹ざるの上に美しく並べていく。
並行して、吸い物の準備を進める。
真昆布と本枯節で引いた、黄金色の一番出汁。味付けは、ごく少量の塩と薄口醤油のみで、素材の味を極限まで引き出している。漆塗りの椀には、流水で丁寧に塩抜きをした生モズクと、極細の千切りにしたミョウガを放つ。そこへ、グラグラと煮立たせないよう完璧に温度管理された熱々の出汁をたっぷりと張った。
磯の香りと、昆布のグルタミン酸、鰹のイノシン酸が織りなす深い旨味。そしてミョウガの清涼感が、一杯の椀の中で完璧な調和をみせる。
「……んー、すごくいい匂い」
コテージの重厚なドアが開き、目を擦りながら秀美がウッドデッキに姿を現した。
普段、カメラの前で見せる完璧なトップ女優のオーラは微塵もない。ゆったりとしたリネン地のワンピース姿で、メイクもしていない無防備な顔だ。
「おはよう、ナオ。朝からすごいご馳走ね」
「おはよう、エミ。顔を洗ってこい。冷める前に食うぞ」
秀美の声に釣られるように、次々とコテージから女たちが起きてきた。
最高級シルクのパジャマのまま、眠そうに目を細めている幸子。
直樹の足元にまとわりつくこむぎを抱き上げ、無邪気に笑うモモ。
寝癖のついた金髪を掻きむしりながら、タブレットを片手にあくびをする亜紀。
シャワーを浴びてきたのか、濡れた髪をタオルで拭きながら現れたノーラとベル、そしてオリヴィア。
日本の、いや世界の裏表を牛耳る女神たちが、誰の目も気にすることなく、ただの「寝起きの女たち」としてそこにあった。
「いただきます」
全員が揃い、大きな木のテーブルを囲む。
オリヴィアが、梅干しのお握りを両手で持ち、小さく一口齧った。
「……っ」
瞬間、彼女の氷のように冷たい銀色の瞳が、驚きに見開かれた。
パリッとした海苔の食感の直後、口の中でご飯がハラリと解ける。そこに南高梅の鮮烈な酸味と塩気が広がり、米の甘みを極限まで引き出していく。
「なにこれ……信じられないくらい、美味しい」
「ただの塩と米と梅干しだ。難しいことは何もしてない」
直樹は自分の分のお握りを頬張りながら、淡々と答える。
隣では、幸子がモズクの吸い物を一口すすり、ほうっと深い感嘆の息を吐き出していた。
「……五臓六腑に染み渡るわ。料亭の一番出汁より、ずっと優しくて、深い味がする」
「ナオ! この鮭のやつ、おかわり! すっごく美味しい!」
モモが口の周りにご飯粒をつけたまま、空になった皿を突き出す。
「こら、よく噛め。喉に詰まらせるぞ」
直樹は苦笑しながら、新しいお握りをモモの皿に乗せてやった。モモは「えへへ」と嬉しそうに笑い、今度は少しだけゆっくりと頬張り始める。
ノーラもベルも、普段の修羅場で見せる緊張感に満ちた顔を完全に崩し、黙々とお握りと吸い物を胃に収めていく。亜紀に至っては、いつも肌身離さず持っているタブレットをテーブルの端に追いやり、両手でお握りを持って幸せそうに咀嚼していた。
誰も、会社の株価の話もしない。敵対組織の動向も、明日の手術のスケジュールも、法律の解釈も口にしない。
ただ波の音を聞きながら、温かいご飯を共有する。
限界社畜だった杉本直樹が、彼女たちのために、自分のために作り上げた、現実世界における完璧な「避難所」がそこには完成していた。
★★★★★★★★★★★
その日の夜。
無人島での開拓作業を終え、ボロアパートの6畳間に戻った直樹は、小さな寝息を立てるこむぎの温もりを足元に感じながら、ベッドの上で黒いVRヘッドギアを手に取った。
あのブラック企業が完全に崩壊し、権田や佐々井が逮捕されてから、直樹を取り巻く時間の流れは完全に変わった。
今はもう、深夜の緊急コールに怯えることも、理不尽な仕様変更に胃を痛めることもない。明日の朝、重い身体を引きずって満員電車に乗る絶望感も、胃を締め付けるようなプレッシャーも、全てが遠い過去のものとなっていた。
「リンク・スタート」
冷たい電子音と共に、意識がデジタルの海へと沈んでいく。
視界が開けると、そこは満天の星空の下だった。
『Arcadia Second』の辺境の島。
初期装備の布の服を着た直樹が、一番最初に木を切り倒し、小さなログハウスを建てた場所だ。
今は巨大な総ヒノキ造りの温泉施設が建ち並び、開拓した畑には豊かな作物が実り、立派な石畳の道が続いている。
「遅かったわね、ナオ」
縁側に腰を下ろしていたシルフィが、銀色の髪を夜風に揺らしながら微笑んだ。
その隣の巨大な天然綿花クッションでは、エミが自慢の白い尻尾を抱き枕にしてゴロゴロと転がっている。
浅瀬の海からは、人魚の姿のノーラが水しぶきを上げ、空からは純白の羽を広げたモモがふわりと舞い降りてくる。
焚き火の前では、ベルとリヴィが果実水のグラスを傾け、アリスが日傘を差しながら、膝の上で丸くなる白い聖獣――ルナの背中を優しく撫でていた。
「悪い、現実の方で少し片付けることがあってな」
直樹が歩み寄ると、ルナがアリスの膝から跳躍し、直樹の足元にすり寄ってきた。
直樹はインベントリから特製のハーブティーを取り出し、全員のカップに注いで回る。
ペパーミントとカモミールの、心を深く鎮める香りが、潮風に混じってふわりと広がった。
「ああ……生き返るわ」
リヴィがカップを両手で包み込み、目を閉じて深く息を吐き出した。
「本当に。現実のあの島も最高だけど、やっぱりここが私たちの原点よね」
シルフィが星空を見上げて呟く。
直樹は縁側の端に腰を下ろし、彼女たちの穏やかな顔を静かに見つめた。
かつて、青白いモニターの光に焼かれ、ただただ死んだような目でキーボードを叩き続けていた日々があった。
誰からも顧みられず、使い捨ての部品として消費され、心身ともに擦り切れていた毎日。
それが今ではどうだ。
現実でも、この仮想世界でも、自分を必要とし、自分の作ったご飯を「美味しい」と笑って食べてくれる存在がいる。
世界を動かす圧倒的な権力や財力を持つ彼女たちが、ここではただの一人の女性として、直樹の傍らで羽を休めている。
「……美味いか」
直樹がぽつりと問いかけると、ヒロインたちは一斉に直樹の方を向き、それぞれが最高の笑顔を向けた。
「ええ、最高よ」
「ナオのお茶、大好き!」
「一生、ここで飲んでいたいわね」
波の音と、薪が爆ぜるパチパチという音。そして、彼女たちの楽しげな笑い声。
それらが、直樹の心の中にあった、冷たくて固い残滓を完全に溶かしていく。
限界社畜だった杉本直樹は、こうして、世界一幸せで、どこまでも穏やかなスローライフを手に入れたのだった。




