第49話 木漏れ日の路地裏と、ほどける鎧
朝の光が薄いカーテンを透かし、6畳間のフローリングに四角い模様を描き出していた。
換気扇の低い唸り音に混じって、フライパンの上でベーコンがジューッと脂を弾かせる音が響く。杉本直樹は使い込まれた菜箸で手早くベーコンを裏返し、空いたスペースに卵を二つ落とした。パチパチと白身が固まっていく心地よい音と匂いが、狭いキッチンを満たしていく。
「だから、対空防衛システムは必須だと言っているの。この前、島の上空を正体不明のドローンが飛んでいたわ。ナオの安全を確保するために、少なくとも短距離地対空ミサイルの配備と、周辺海域の機雷敷設は……」
「ノーラ、あなたの会社の重火器なんて島に持ち込ませないわよ。環境が汚染されるし、騒音でナオの自律神経が乱れるじゃない。それより、まずはナオの寝室を完全な防菌・防爆仕様の医療カプセルに改築するのが最優先。有事の際は、私の財団の医療チームが3分で駆けつけられるように……」
背後のローテーブルでは、淹れたてのコーヒーを前にしたノーラとベルが、朝から物騒な単語を飛び交わせていた。
彼女たちの財力と権力をもってすれば、無人島を要塞化することも、この築40年のボロアパートを最高レベルのシェルターに魔改造することも、決して冗談ではなく本気で数日以内に実行できてしまう。
直樹はコンロの火を止め、目玉焼きとベーコンを二つの皿に手際よく移した。
「ミサイルは日本の法律で撃てないし、機雷なんか撒いたら漁協が黙ってないだろ。医療カプセルも置く場所がないし、こむぎが怖がる。両方却下だ」
直樹が皿をテーブルに置くと、白熱していた二人の議論がピタリと止まった。
「……ナオがそう言うなら、ドローンへのジャミングと、私兵の巡回だけに留めておくわ」
「わかったわよ。じゃあ、せめて最新の空気清浄機とバイタルモニター内蔵のマットレスだけでも入れさせて。それくらいなら場所は取らないでしょ」
「それくらいなら構わないが。……ほら、冷める前に食べろよ」
直樹がパンの入ったカゴを差し出すと、二人は毒気を抜かれたように大人しくフォークを手に取った。世界を裏から動かすPMCの総帥と、国家元首の命すら握る天才外科医が、スーパーの特売の食パンと目玉焼きを前にして、「黄身は半熟がいいわ」「私はしっかり焼いた方が好き」などと他愛もない文句を言い合いながら食事を進めている。
直樹は自分の分のコーヒーカップを手に持ち、キッチンカウンターに寄りかかってその光景を眺めた。
足元では、直樹のズボンの裾に顎を乗せたこむぎが、気持ちよさそうに目を細めて寝息を立てている。
かつての朝は、絶望しかなかった。
数時間後に始まる理不尽な怒号、終わりの見えないタスク、鳴り止まない着信音。胃の腑には常に鉛のような重たさがあり、洗面所の鏡に映る自分の顔を見るたびに、寿命がすり減っていくのを実感していた。
それが今はどうだ。
休日の朝に、自分のために飯を作り、コーヒーの香りを楽しみ、規格外の女たちの現実離れした口論をBGMにしている。
「……こんな毎日も、悪くないな」
直樹の口から、自然とそんな言葉がこぼれ落ちた。
誰に聞かせるわけでもない。ただ、心の底から湧き上がった、静かで確かな実感だった。直樹の口元には、社畜時代には決して見せることのなかった、穏やかで年相応の柔らかな笑みが浮かんでいた。
★★★★★★★★★★★
その日の午後。
初夏の陽射しがアスファルトを白く飛ばす中、直樹は都内の下町、谷中の駅前に立っていた。
観光客と地元の人々が行き交う細い通りを、少し離れた日陰から静かに観察する。
数分後、人混みの中から、明らかに周囲の風景から浮いている一つの人影が現れた。
目深に被った黒いキャップ。顔の半分を覆う大きなサングラス。服装こそシンプルな白いTシャツにゆったりとしたネイビーのロングスカートというカジュアルなものだが、布の上からでも分かる骨格の美しさと、無意識に背筋が伸びた完璧な歩き方は、どうやっても隠しきれるものではない。
すれ違う人々の何人かが、不思議そうに、あるいはハッとして振り返りかけている。
直樹は壁から背を離し、歩き出した。
人混みの流れを縫うようにして彼女に近づき、すれ違いざまに、その細い手首を軽く掴んだ。
「……えっ」
ビクッと肩を震わせた古川秀美が顔を上げるより早く、直樹はそのまま彼女を大通りから一本外れた、車も通れないような細い路地へと引き込んだ。
「目立ってるぞ、エミ。変装は完璧でも、歩き方と姿勢で目を引いてる」
路地裏のブロック塀の陰に入り、直樹は手を離して短く言った。
秀美は驚いたように直樹を見つめ、それから周囲を見回した。喧騒は分厚い建物の壁に遮られ、遠くの環境音としてくぐもっている。ここには、スマートフォンを向けてくる人間も、値踏みするような視線もない。
「……ごめんなさい。気をつけてたつもりなんだけど」
秀美はキャップのつばを少しだけ上げ、息を吐いた。
「気にするな。染み付いた癖はどうしようもない。こっちだ」
直樹はそれ以上は何も言わず、路地の奥へと歩き出した。
秀美は少しだけ小走りになって、直樹の広い背中の後ろにぴたりとついて歩いた。彼が前を歩いてくれるだけで、正面からの視線を完全に遮ってくれる。それが、秀美にとってはたまらなく安心できた。
入り組んだ路地をいくつか曲がり、古い長屋を改装した小さな喫茶店の前で直樹は足を止めた。
錆びた鉄の看板に、控えめな文字で店名が書かれている。
ドアに付いた真鍮のベルが、カランと古風な音を立てた。
店内は薄暗く、焙煎されたコーヒーの深い香りと、古い木材の匂いが混ざり合っている。客はカウンターで本を読んでいる初老の男性が一人だけ。
「いらっしゃいませ」
エプロン姿の年配の店主が静かに会釈する。
直樹は一番奥の、通りからは見えないボックス席へと秀美を促した。
席に座り、おしぼりで手を拭いた後、秀美はキャップとサングラスを外してバッグにしまった。
長い髪がふわりと広がり、薄暗い店内でも発光するような完璧な美貌が露わになる。
「……やっと、息ができた」
秀美はベルベットの背もたれに深く寄りかかり、目を閉じて長く息を吐き出した。
「窮屈そうだな」
「ええ。一歩外に出れば、私は『古川秀美』だから。誰が見ているか分からないし、少しでも隙を見せればすぐにネットに書かれる。……だから、現実でこうやって誰かとお店に入るのなんて、本当に久しぶり」
秀美がメニューを開く。
直樹はアイスコーヒーを、秀美は温かいダージリンティーと、自家製のプリンを注文した。
「甘いものを食うのは珍しいな。いつもカロリーを気にしてるだろう」
直樹が指摘すると、秀美は少しだけ恥ずかしそうに視線を逸らした。
「今日は……特別。ナオが作ったご飯やお菓子以外で、現実で美味しいものを食べたい気分だったの。それに、ナオの前なら、少しだけ体重が増えても……ううん、なんでもない」
運ばれてきたプリンは、昔ながらの固めで、少し苦味のあるカラメルがたっぷりとかかっていた。
秀美は銀色のスプーンでそれをすくい、そっと口に運ぶ。
「……ん」
卵の濃厚な風味とカラメルのほろ苦さが口の中で溶け合い、秀美の顔が自然と綻んだ。
女優としてカメラに向けられる計算された笑顔ではない。ただの一人の女性としての、無防備で幸せそうな表情だった。
「美味しい」
「そうか。なら良かった」
直樹はアイスコーヒーのグラスに水滴が結露していくのを眺めながら、淡々と相槌を打つ。
「ねえ、ナオ」
秀美はスプーンを持ったまま、まっすぐに直樹を見た。
「ナオは、私が誰だか分かっているのに、全然特別扱いしないのね。仕事のことも聞いてこないし、変に気を使うこともない」
「特別扱いしてほしいのか」
「ううん」
秀美は首を横に振った。
「それが、すごく心地いいの。私の周りにいる大人は、みんな私を『商品』として扱うか、遠巻きに神様みたいに扱うかのどっちかだから。ナオみたいに、ただの『エミ』として、私が転びそうになったら手を引いてくれて、歩き方がおかしいって普通に注意してくれる人なんて、いなかった」
直樹はグラスをテーブルに置き、秀美をじっと観察した。
完璧なメイクの下に隠された、肌の微かな疲労。カップを持つ指先の、無意識の力み。
「肩の力、抜け」
直樹の低く落ち着いた声に、秀美はピクリと反応した。
「まだ完全には気が休まってないな。誰も見ていない。ここはただの喫茶店で、お前はただプリンを食ってるだけの客だ。もっとだらしなく座っていいぞ」
その言葉に、秀美は目を丸くし、やがてふふっと吹き出した。
「だらしない座り方なんて、事務所に怒られちゃうわ」
そう言いながらも、秀美は背もたれにさらに深く身を沈め、肩の力をストンと抜いた。張り詰めていた糸が解け、彼女を取り巻いていた見えない鎧が、音を立てて崩れ落ちていくのがわかった。
「……ナオの言う通りね。少し、楽になった」
1時間ほど店に滞在し、二人は外に出た。
太陽はすでに西に傾き始め、路地裏には長い影が伸びている。吹き抜ける風が、昼間の熱気を冷まして心地よかった。
並んで歩く帰り道。
秀美は帽子を目深に被り直しながら、直樹の横顔を見上げた。
「ナオ」
「ん」
「また、誘っていい?」
少しだけ不安の混じった、探るような声。
直樹は足を止めることなく、前を見たまま淡々と答えた。
「ああ。次は、もっと人目のつかない場所を探しておく」
その言葉を聞いた瞬間、秀美の口元に、今日一番の、心からの笑顔が咲いた。
「うんっ。約束よ」
夕暮れの路地裏に、二人の足音が静かに響いていた。




