第48話 ドタバタな日常と、小さなしゃっくり
「ヒック」
静かな6畳間に、小さく、しかしはっきりとした音が響いた。
開け放たれた窓からは、初夏の風が心地よく吹き込んでいる。網戸越しに届くのは、遠くの道路を走る車の走行音と、微かに土の匂いを孕んだ空気だけだ。杉本直樹のボロアパートは、いつものようにどこまでも平穏な休日の午後を迎えていた。
その音の出処は、フローリングの中央に敷かれた薄いラグの上だった。
先ほどまで心地よさそうに丸くなって昼寝をしようとしていたチワワのこむぎが、ビクッと小さな身体を跳ねさせた。こむぎは驚いたように目を丸くしてパチパチと瞬きをし、短い鼻先で自分の脇腹をツンツンと小突いている。
数秒後。再び「ヒック」という音と共に、こむぎの身体が弾んだ。
誰も触っていないのに自分の身体が勝手に動くという生理現象が、まだ幼いこむぎにはまったく理解できないらしい。どうしてだ、とばかりに小首を傾げ、不安そうに部屋の中をとことこと歩き回り始めた。トテトテという軽い爪音が少しだけ早くなる。何かの敵が自分の中に潜んでいるとでも思ったのか、自分の尻尾を追いかけるようにくるりと一回転し、それでも止まらないしゃっくりに困惑しきっていた。
「こむぎ。こっちへおいで」
ローテーブルの前にあぐらをかいて座っていた直樹が、手を差し伸べて低く呼んだ。
こむぎは待ってましたとばかりに軽快な爪音を立てて駆け寄り、直樹のあぐらの隙間に潜り込もうとした。しかし、その途中でまた「ヒック」と跳ねてしまい、情けない顔で直樹を見上げて「きゅうぅ……」と細く鳴いた。
「大丈夫だ。ただのしゃっくりだよ。子犬にはよくあることだ。何も怖いものじゃない」
直樹はこむぎを両手でそっと抱き上げると、自分の胸元に抱え込んだ。
片手で小さな頭を支え、もう片方の手で背中から腰にかけて、一定のリズムでゆっくりと撫でてやる。温かい体温が洗いざらしのシャツ越しに伝わってくる。こむぎの小さな心臓が、不安からか少しだけ早く打っているのがわかった。
「……息をゆっくり吸って、吐くんだ。そう、いい子だ。ゆっくりでいい」
直樹の低く落ち着いた声と、規則正しい手の動きに安心したのか、こむぎは直樹の胸元に顔を埋め、ふうと長いため息をついた。しばらくの間、時折ビクッと肩を震わせていたものの、やがてその間隔は長くなり、十分もする頃には完全にしゃっくりは治まっていた。
時折ピクピクと動いていた耳もすっかり寝かされ、スースーという規則正しく柔らかな寝息へと変わっていく。
「……お兄ちゃんって、犬の扱いもプロ並みなんだね」
ローテーブルを挟んだ向かい側から、亜紀がぽつりと呟いた。
彼女の手元には、最新型のタブレットと、黒い画面に緑色の文字列が高速で流れるノートPCが開かれている。先日、幸子の主導で急遽決まった現実での無人島リゾート計画。その島のための完璧な暗号化通信網を構築すべく、亜紀は昨夜から文字通り徹夜で作業を進めていたのだ。国家の機密データベースすら容易くすり抜ける彼女の技術が、今はただ、直樹と過ごす安全な領域を守るためだけにフル稼働している。
亜紀は「ふぅ」と長いため息をついてタブレットをローテーブルに放り出すと、あぐらをかいている直樹の隣へと、じりじりと膝歩きで近寄ってきた。その碧い瞳の奥には、モニターの光を見続けたことによる濃い疲労の色が沈殿している。
「……お兄ちゃん。私もしゃっくり出そう」
「嘘をつけ。お前はただ眠いだけだろう」
直樹が前を向いたまま淡々と返すと、亜紀は少しだけ口を尖らせたが、そのままこてんと直樹の右肩に自分の頭を乗せた。
「……うん、眠い。もう三十二時間起きてる。島に敷く暗号化回線の構築と、軍事衛星のバックアップ設定に無駄にリソース食われたし。あんな大人たちの面倒なインフラ作り、もう二度とごめん」
「ご苦労だったな。よくやってくれた。少し寝ろ」
直樹は右肩にわずかな重みと、シャンプーの仄かな甘い香りを感じながら、胸元で眠るこむぎを起こさないように姿勢を固定した。亜紀の金糸のような髪が直樹の腕に触れる。大人たちの都合に翻弄されてきた亜紀が、直樹の前でだけ見せる無防備な寝顔は、ひどく穏やかだった。
「あーっ! 亜紀ちゃんずるい!」
キッチン側の壁に背を預け、大きなクッションを抱え込んでいた元子が、弾かれたように声を上げた。
元子もまた、今日は分刻みのスケジュールで組まれていた財閥の退屈な会合を、隙を突いてSPの目を盗み、半ば強引に抜け出してきたのだ。格式高い窮屈な着物ではなく、少し大きめのラフなパーカー姿の彼女は、パタパタと小走りで近づいてくると、直樹の空いている左側のスペースに迷いなく滑り込んだ。
「モモも疲れたの! おじいちゃんたちのお説教、長くて耳が痛くなっちゃった! あれはダメ、これもダメって、モモはただナオのところに行きたいだけなのに!」
言うが早いか、元子は直樹の左腕に両腕でぎゅっとしがみつき、そのまま顔を押し付けてきた。
パーカー越しでも伝わってくる、柔らかく温かい感触。直樹は小さく息を吐いた。
右肩には世界最高峰のホワイトハッカーがもたれかかり、左腕には日本経済を牛耳る財閥のトップがしがみついている。そして胸の中では、小さなチワワが平和な寝息を立てている。
客観的に見れば異常極まりない構図だが、直樹にとっては、システムのエラーログを睨みながら胃痛に耐えていた社畜時代の休日に比べれば、はるかに平和で、人間らしい時間だった。
直樹は何も言わず、左腕の力を少しだけ抜き、元子がよりかかりやすいように角度を調整してやった。元子がえへへ、と嬉しそうに笑い、亜紀が右肩で微かに規則正しい寝息を立て始める。
静かな昼下がり。
窓の外から聞こえる遠くの車の走行音だけが、6畳間の空間を緩やかに流れていた。
――ガチャリ。
唐突に、玄関の鍵が開く音がした。
このアパートの合鍵を持っている人間は限られている。直樹が首だけを向けると、重い鉄のドアが開き、二つの高いヒールの足音が土間を踏んだ。
「ナオ、昨日のサウナ小屋の配管の件だけど、専門の業者の手配が済んだわ。それと……」
完璧なスーツ姿の幸子が、片手に分厚いカタログの束を抱えながら入ってくる。その後ろからは、エレガントなリネンのワンピースを着こなしたオリヴィアが、有名百貨店の紙袋を提げて続いていた。世界を動かす多国籍企業のCEOと、トップクラスの国際弁護士。二人が纏うビジネスの最前線の空気が、玄関先にわずかな緊張感をもたらす。
「ナオ、島から戻ってすぐに悪いけれど、新しい登記の手続き書類にサインを……」
仕事の延長線上の会話をしながらリビングへと視線を向けた二人の動きが、文字通り、ピタッと静止した。
フローリングの中央。
直樹の両脇に、18歳の少女と20歳の娘がぴったりと密着してくつろいでいる姿があった。
6畳間の温度が、一瞬にして氷点下まで下がった。
窓から吹き込む初夏の風すら、完全に凍りついたように錯覚するほどの沈黙。彼女たちが纏っていたビジネスの空気は霧散し、ただの一人の女としての剥き出しの感情がそこにあった。
「……ナオ」
幸子の声は、かつてダークネス・システムズの役員たちを震え上がらせた時よりも、はるかに低く、冷たかった。完璧なメイクで整えられたその顔には、笑みが浮かんでいる。だが、その目は一切笑っていない。
「それは、どういう状況かしら? 私には、少しばかり理解が追いつかないのだけれど」
「ええ、同感ね」
オリヴィアが、銀色の瞳を細めて直樹を見据えた。前回の現実の島での夜、ウッドデッキで直樹と二人きりで静かな時間を過ごした彼女にとって、この光景は到底看過できるものではない。
「未成年と、社会的影響力のある財閥の当主を両脇に侍らせる。……法的な見地から言えば、非常に危うい絵面ね。パラリーガルとしての雇用契約に、素行不良の条項を直ちに付け加える必要がありそうかしら」
理詰めで迫るオリヴィアの言葉に、右肩で寝入りばなを邪魔された亜紀が、不機嫌そうに片目を開けた。
「……おばさんたち、うるさい。せっかくお兄ちゃんが静かにしてくれてるのに。僻みなら他所でやってよ」
「僻み……っ!?」
幸子のこめかみに、ピキリと青筋が浮かんだ。
元子も左腕にしがみついたまま、幸子たちに向かって舌を出した。
「そうだよ! モモたちが先なんだから! シルフィもリヴィも、お仕事してくればいいじゃない!」
「あなたたちねぇ……!」
オリヴィアが持っていた紙袋を、ローテーブルの上にドンッ!と少し乱暴に置いた。湧き上がる感情に、無意識に力が入ってしまったのだ。
その鈍い音に。
「きゅんっ!」
直樹の胸の中で気持ちよさそうに眠っていたこむぎが、弾かれたように顔を上げ、怯えたように短く鳴いた。耳をぺたんと伏せ、直樹のシャツを小さな前足で必死に掻き始める。
「――――静かにしろ」
直樹の、低く、腹の底に響くような一声だった。
怒鳴ったわけではない。しかし、そこには長年の修羅場で培われた絶対的な圧があり、4人の女たちは水を打ったようにピタッと動きを止めた。
直樹は素早い手つきでこむぎの背中を撫で、小さな心臓の鼓動を落ち着かせる。
「こむぎのしゃっくりが止まって、やっと寝たところだ。大声を出したいなら外でやってくれ。……それに」
直樹は右肩と左腕に視線を落とした。
「亜紀、元子。離れろ。お前たちが張り付いているせいで、さっきから腕が痺れて感覚がない」
「えー……」
「ちぇっ」
直樹の有無を言わせぬトーンに、亜紀と元子は渋々といった様子で身を離した。直樹はこむぎをそっとラグの上の柔らかいクッションの上に降ろし、立ち上がって凝り固まった肩を軽く回した。
「悪いな、差し入れか」
直樹はオリヴィアが置いた紙袋を引き寄せながら、まだ少し殺気立っている幸子とオリヴィアを見た。
「今、茶を淹れる。お前たちも座れ。カタログと書類の確認はその後だ」
直樹がキッチンへ向かうと、幸子とオリヴィアは小さく息を吐き、亜紀と元子を軽く睨みつけながらローテーブルを囲むように座った。バチバチとした視線の交錯は続いているが、先ほどの爆発しそうな空気は直樹の一声によって強制的にリセットされていた。
直樹はやかんを火にかけ、戸棚からコーヒーミルを取り出した。
ガリガリと小気味よい音を立ててミルが回り、香ばしい薫りが部屋の刺々しい空気を和らげていく。ドリッパーにペーパーフィルターをセットし、挽きたての粉を入れる。沸騰したお湯を少し冷ましてから、丁寧に細い湯柱で注ぐと、黒い粉はふっくらとドーム状に膨らみ、ボロアパートのキッチンを穏やかで深い香りで満たしていった。
どんな高級レストランの空間演出よりも、この男がコーヒーを淹れる時の無駄のない所作と香りが、彼女たちのささくれ立った神経を最も確実に鎮めていく。
「紅茶がいい奴はいるか」
「私、紅茶がいいわ」
幸子が少しだけ声のトーンを落として手を挙げる。
「モモはオレンジジュース!」
直樹はそれぞれの要望に合わせて手際よく飲み物を用意し、オリヴィアが持ってきた老舗の高級フルーツタルトを人数分に切り分けた。
マグカップやグラス、そして宝石のように輝く色鮮やかなタルトが乗った皿がテーブルに並べられる。
「いただきます」
全員が揃ってフォークを手に取り、タルトを一口食べた瞬間。
先ほどまでの冷戦が嘘のように、4人の顔から険しい表情がスッと抜け落ちた。甘い果実の鮮烈な酸味とカスタードの濃厚なコク、サクサクとしたタルト生地の香ばしさ。そして直樹が完璧な温度で淹れたコーヒーや紅茶の香りが、彼女たちを無条件に幸福なため息へと導いていく。
「……やっぱり、ナオの淹れるコーヒーは美味しいわね」
「このタルト、すごく甘い! モモ、おかわり!」
「少しは遠慮しなさいよ、元子。ナオの分まで食べる気?」
「いいじゃん! シルフィだっていっぱい食べてるくせに!」
再び始まった他愛のない口論を、直樹はキッチンカウンターに寄りかかりながら、コーヒーの入ったマグカップを片手に静かに眺めていた。
(……平和だな)
傍から見れば一触即発の修羅場かもしれないが、直樹にとっては、美味しいものを食べて素直に感情をぶつけ合っている彼女たちの姿は、極めて健全な「日常」に思えた。
直樹はコーヒーを一口飲み、クッションの上で再びスースーと平和な寝息を立て始めたこむぎを見て、小さく口角を上げた。




