第47話 現実の島と、氷の刃の融点
長雨が上がり、抜けるような青空が広がった週末。
杉本直樹は、無人島の小高い丘の中腹で、心地よい汗を拭っていた。
眼下にはコバルトブルーの海が広がり、波の音が一定のリズムで風に乗って届く。その絶景を独り占めできる特等席に、ついに最初の建造物が完成しようとしていた。
「よし……これで最後だ」
直樹はインパクトドライバーを操り、サウナ小屋のベンチを固定する最後のビスを打ち込んだ。
木材がピタリと噛み合う音が響き、真新しいヒノキの濃厚な香りが鼻腔をくすぐる。
現実の島での開拓は、VRのようにはいかなかった。クリック一つで建材が組み上がるシステムのアシストはない。
幸子のIT企業が持つ最新の地質探査技術と、ベルの財団が手配したボーリング部隊の圧倒的な資本力により、島の地下深くから良質な温泉を掘り当てることには成功していた。だが、そこから先の細かな設備を作り上げるのは、直樹の役割だった。
源泉の温度を適温まで下げるための配管の引き回し。職人たちと図面を突き合わせながら基礎を組み、本土から空輸したヒノキ材を使って浴槽を組み立てた。本格的なフィンランド式サウナ小屋を建てるにあたっては、島内で熱に強い火成岩を探し出し、適度な大きさに砕いてサウナストーンとして積み上げた。断熱材の配置から、熱の対流を計算したベンチの高さ調整まで、一切の妥協を排除して作業に没頭した。
かつてキーボードのタイピングでしか使われなかった彼の手のひらには、分厚いマメとタコがいくつもできている。指先には木屑やオイルの匂いが染み付いていた。だが、無骨な手が作り上げた空間は、最高級のリゾート施設にも引けを取らない完成度を誇っていた。
「……ナオ、終わった?」
背後から声がかかる。振り返ると、岩を組んで作られた露天風呂の縁に、水着姿の女たちが集まっていた。
今日は、この島に完成した『最初の温泉とサウナ』の火入れ式も兼ねた、ヒロインたちのお披露目会だ。
「ああ。サウナストーンも十分に熱した。いつでも入れるぞ」
直樹が小屋から出ると、待ちきれない様子だったモモが、白いフリルのついた水着姿で真っ先にサウナ小屋へと飛び込んでいく。
「やったー! 一番乗り! ナオが作った本物のサウナ!」
「ちょっとモモ、足元滑るから走らないの!」
呆れたように声をかけながら、スポーティなビキニ姿のエミがその後を追う。
「ふふ、二人とも子供みたい。でも、ヒノキの良い香りがここまで漂ってくるわね」
落ち着いたパレオを巻いた幸子が、微笑ましく二人を見守りながら上品に続く。
直樹は少し離れた岩場に腰を下ろし、クーラーボックスから冷たいミネラルウォーターを取り出して喉を潤した。
冷たい水が、汗をかいた身体の隅々にまで行き渡っていく。全身の筋肉が心地よい疲労を訴えている。理不尽な上司の命令で消耗する精神的な疲労とは対極にある、本物の労働の後の水だ。どんな高級酒よりも美味く感じられた。
「隣、いいかしら」
不意に、静かな声が耳に届いた。
見上げると、黒を基調としたシックでカッティングの美しいビキニを纏ったオリヴィアが立っていた。
透き通るような白い肌と、引き締まった無駄のないプロポーション。だが、彼女の銀色の瞳の奥には、張り詰めた疲労の糸が見え隠れしていた。
「ああ。座れ」
直樹が岩の上のスペースを空けると、オリヴィアは小さく息を吐いて腰を下ろした。
「……信じられないわ。VRのデータ上にしかなかったあの空間が、本当に現実にあるなんて」
「あんたたちが動いてくれたおかげだ。俺一人じゃ、一生かかっても温泉なんか掘り当てられなかった。ボーリングの機材一つ、個人じゃ手配できないからな」
「謙遜しないで。このヒノキの浴槽の継ぎ手も、サウナの動線設計も、あなたが図面を引いて手を動かしたんでしょう? 現地入りした職人たちが、あなたの指示の的確さと作業の丁寧さに舌を巻いていたと報告を受けているわ」
オリヴィアはそう言って、岩肌からこんこんと注がれる湯口を見つめた。
「入ってこい。肩、また張ってるだろ」
直樹の言葉に、オリヴィアはわずかに肩を跳ねさせた。
連日のプレッシャーによる首から右肩にかけての慢性的な凝りは、彼女の強靭な精神力をもってしても隠しきれるものではなかった。
「……あなたには、本当に隠し事ができないわね」
オリヴィアは苦笑し、立ち上がってサウナ小屋への重厚な木戸を開けた。
室内は、80度近くに保たれた重厚な熱気に満ちていた。
中央に積まれたサウナストーンが、静かに、しかし確かな威圧感を放っている。先に入っていたメンバーがベンチの下段で汗を流す中、オリヴィアは最上段に腰を下ろした。
「リヴィ、お水使う?」
幸子が、木桶と柄杓を差し出す。
オリヴィアは頷いてそれを受け取ると、桶の中の水をすくい、熱された石の上へゆっくりと掛けた。
ジュワァァァッ。
水が石に触れた瞬間、激しい音と共に白煙が立ち上る。ただの水ではない。直樹が島に自生していたフレッシュなハーブやミントを調合して作った、特製のアロマ水だ。
蒸気と共に弾けた生きたハーブの香りが、容赦のない熱波となって上段から一気に降り注いでくる。VRのデータとは違う、本物の熱と質量を持った空気が、彼女の強張った右肩の筋肉を強引なまでに解きほぐしていった。
肌の表面から、じわりと本物の汗が滲み出してくる。VRシステムが錯覚させていた疑似的な発汗ではなく、体内の細胞が熱に反応して押し出した、確かな質量を持つ水滴だ。
新しいヒノキの木材が熱されて呼吸する香り。隣で息を吐く幸子たちの気配。鼻腔から肺の奥深くまで入り込む、焼け付くような、それでいて心地よい空気の重み。
すべてが「現実」だった。
数分も経たないうちに、オリヴィアの全身からは玉の汗が流れ落ち、それが皮膚を伝って木製のベンチへと落ちていく。
限界まで身体を温めたオリヴィアは、小屋を出て、直樹が引いた真水の掛け水で汗を流した。
冷たさに一瞬身をすくませた後、そのまま海を望む露天の岩風呂へと身を沈める。
「はぁぁ……」
思わず、だらしない声が漏れる。
肌にまとわりつく、少しとろみのある本物の温泉の感触。少し冷たくなってきた夕方の海風が火照った頬を撫で、それがこの上なく心地いい。
オリヴィアは岩の縁に頭を預け、完全に目を閉じた。鋭い「氷の刃」は、ただの心地よい温水の中で、跡形もなく溶け去っていた。
★★★★★★★★★★★
日が完全に落ち、島は静寂な夜の帳に包まれた。
他のメンバーは、幸子が手配した大型クルーザーのキャビンで、直樹が作り置いた料理を食べながらワインを開けているらしい。時折、風に乗って微かな笑い声やグラスの触れ合う音が聞こえてくる。
直樹は一人、湯上がりの火照りを冷ますように、露天風呂の傍に設けたウッドデッキで波の音を聞いていた。
傍らには、ランタンの柔らかな光が灯っている。見上げれば、都会のネオンに邪魔されることのない、圧倒的な数の星が瞬いていた。
「ナオ」
足音がして振り返ると、ゆったりとしたリネン地のワンピースに着替えたオリヴィアが立っていた。
濡れた髪を無造作にまとめ、メイクも落としたその顔は、年相応の女性としての柔らかさと無防備さに満ちている。
「抜け出してきたのか」
「ええ。あっちの騒ぎには、少し疲れてしまって」
オリヴィアは直樹の隣に腰を下ろし、海風に目を細めた。
「飲むか」
直樹が差し出したのは、木製のカップだ。
「お酒?」
「いや。島で採れた柑橘を絞って、少しの塩とハチミツを混ぜた果実水だ。サウナの後にはこれが一番体にいい」
オリヴィアはカップを受け取り、一口飲んだ。
冷たさと、絶妙な甘酸っぱさが、火照った身体に染み渡る。細胞が歓喜するような、完璧なバランスだった。
「……美味しい。VRの時と同じ味ね」
「レシピが同じだからな。肩の張りはどうだ」
「嘘みたいに軽い。……魔法みたいよ」
オリヴィアはカップを両手で包み込みながら、ぽつりとこぼした。
「ねえ、ナオ。あなたの会社の手続き、すべて完了したわ。もうあの連中が、あなたに法的な接触を図ることは物理的に不可能よ。私の事務所のパラリーガルとしての雇用契約も、正式に発効した」
「……ああ。何度も言ったが、本当に助かった。ありがとう」
「いいの。私が、そうしたかっただけだから」
オリヴィアは視線を水平線に向けたまま、静かな声で続けた。
「私ね、ずっと戦ってきたの。舐められないように、誰にも付け入る隙を与えないように。弁護士のバッジを付けた日から、私の周りには敵か、私を利用しようとする人間しかいなかった。だから、絶対に弱みは見せられないし、鎧を脱ぐことなんてできなかった」
波の音が、彼女の静かな独白を際立たせる。
カップを持つ彼女の白い指先が、微かに震えていた。
「でも、あなたが作ってくれたこの場所は……私から、全部の鎧を剥ぎ取ってしまう。こんなに無防備で、ふにゃふにゃになった自分を誰かに見せるなんて、あり得ないことだったのに」
オリヴィアはゆっくりと顔を向け、直樹の目を見つめた。
銀色の瞳には、もう法廷での冷酷な光はない。ただ、一人の女性としての切実な熱と、深い安堵が揺らいでいた。
「ナオ。あなたがいれば、私は明日も戦える。だから……これからも、私にこの場所を作って」
「……作るさ。そのために、この島を買ったんだからな」
直樹は気負うこともなく、ただの日常の延長のように淡々と答えた。
「それに、俺もあんたたちに救われたんだ。お互い様だろ」
「……ふふっ。本当に、あなたって人は」
オリヴィアは堪えきれないように小さく笑い、そのまま直樹の肩に、そっと自分の頭を預けた。
直樹は何も言わず、ただ波の音を聞きながら、彼女の髪から漂う微かな柑橘の香りと、確かな体温を受け入れていた。




