第46話 刑務所の絶望と、レンジで温まる小さな幸せ
朝から降り続く雨が、ボロアパートの薄汚れた窓ガラスに不規則な水滴の模様を描き続けていた。
直樹は、少しだけ開けた窓の隙間から入り込む、微かに土の匂いを孕んだ湿った風と、アスファルトを単調に叩く雨音をBGMに、狭いキッチンに立っていた。
今日は予定していた現実の無人島の開拓作業を完全に中止し、絶対的な休養日に充てている。雨の日にぬかるんだ土を無理に掘り返しても体力を消耗するだけで効率が悪く、何より足場が滑って怪我のリスクが高まる。VRのゲーム内であればステータス異常で済むが、現実の身体は一度壊れればそれまでだということを、彼に関わる世界最高峰の医療従事者から耳にタコができるほど聞かされていた。
「さて、昼飯にするか」
直樹は冷蔵庫を開け、先日ローソンで買い置きしておいたチルドの惣菜類を取り出した。
無職となって時間的余裕が生まれ、自炊のクオリティが格段に上がっている直樹だが、こういう雨の日や、ただただ火を使いたくない時のために、近所のコンビニで手に入る『企業努力の結晶』をストックしておくことも忘れていない。
今日選んだのは、袋のまま電子レンジで温めるタイプのサンドイッチ2種と、同じくレンジ調理のオニオンスープだ。
パッケージの端に指定通り少しだけ切り込みを入れ、ワット数と時間を合わせてレンジのスタートボタンを押す。
待っている間、直樹は傍らのコーヒーメーカーで豆を挽き始めた。ガリガリという心地よい振動が手から伝わり、焙煎された深い香りが湿気の多い部屋の空気を塗り替えていく。
数分後、ピーッという電子音と共に、キッチンに食欲を暴力的に刺激する濃厚なチーズと肉の香りが漂い始めた。
直樹は熱くなったパッケージを火傷しないようにそっと取り出し、マグカップに注いだ淹れたてのコーヒーと共にローテーブルへ運んだ。
足元では、雨のせいで朝の散歩が短縮されて少し退屈そうにしていたこむぎが、「僕のおやつですか?」と期待を込めた潤んだ目で見上げ、短い尻尾をちぎれんばかりに振っている。
「お前のはこっちだ」
直樹は犬用の無添加ボーロを数粒、こむぎの専用皿に置いてやった。こむぎは鼻先を突っ込むようにして一瞬でそれを平らげ、口の周りをペロリと舐めると、満足そうに直樹のあぐらをかいた足の隙間に潜り込んで丸くなった。
直樹は、まず一つ目のサンドイッチの袋を開けた。
『とろける4種チーズとハムのホットサンド』。
熱々のパン生地から、溶け出したチーズのコクのある香りが立ち上る。社畜時代、パソコンのモニターを死んだような目で睨みながら、味も分からずに冷たいまま飲み込んでいたコンビニのサンドイッチとは、完全に別次元の食べ物だ。
大きく一口かじると、パンの表面はしっとりとしつつも程よい弾力があり、中から熱々のチーズがマグマのように溢れ出してきた。チェダー、モッツァレラ、ゴーダなどが複雑に絡み合った濃厚な塩気が、ハムの素朴な旨味を完璧に引き立てている。
火傷しそうなほどの熱さが、逆に空っぽの胃の腑を心地よく刺激し、細胞が目覚めていくような感覚があった。
(……美味いな)
直樹はブラックのコーヒーで口の中に残ったチーズの脂をすっきりと洗い流し、続いてオニオンスープの蓋を開けた。
『じっくり煮込んだ飴色玉ねぎのオニオンスープ』。
琥珀色に透き通るスープの中には、限界まで柔らかく煮込まれた玉ねぎがたっぷりと沈んでおり、表面にはスープを存分に吸ってとろとろになったチーズとバゲットの欠片が浮いている。
木のスプーンですくって口に運ぶと、玉ねぎが持つ深い甘みと、ビーフブイヨンの力強いコクが全身に染み渡った。自分でこれを作ろうと思えば、玉ねぎを焦がさないように火加減を調整しながら数十分も鍋の前に立ち続けなければならない。それが、レンジでわずか数分温めただけでこのクオリティで味わえるのだ。何万人という開発者たちの途方もない試行錯誤の歴史に、直樹はただ頭が下がる思いだった。
最後に、二つ目の『厚切り豚ロースのカツサンド』を手に取る。
分厚いカツはレンジの熱波を浴びて肉の脂が活性化し、衣に染み込んだ甘辛いソースとマスタードの酸味が、強烈なジャンクの旨味を主張して鼻腔をくすぐる。
大きく口を開けてかぶりつくと、豚肉のしっかりとした歯応えとともに、ジュワッと濃厚な肉汁が溢れ出し、ソースの酸味がそれを完璧に中和した。
外は雨。仕事のプレッシャーも、鳴り止まない不快な着信音も、理不尽な怒号もない。
ただ、温かいサンドイッチとスープをゆっくりと味わい、足元から伝わる愛犬の規則的な寝息の温もりを感じながら過ごす昼下がり。
直樹にとって、これ以上の贅沢は存在しなかった。
★★★★★★★★★★★
同じ頃。
分厚いコンクリートの壁と、冷たい鉄格子に囲まれた薄暗い空間に、無機質なチャイムの音が響いていた。
関東近郊にある、某刑務所。
厳格に管理されたスケジュールの中で、受刑者たちに許された短い自由時間。共同室の隅に設置されたテレビの前に、みすぼらしい灰色の作業着を着た男たちが数名、プラスチックの椅子に腰掛け、無言で座っていた。漂ってくるのは、カビ臭い古本と、安っぽい消毒液の匂いだけだ。
その中に、佐々井の姿があった。
かつてダークネス・システムズで部長として君臨し、仕立ての良いオーダースーツを着こなし、部下たちを怒鳴り散らしていた面影は、もはや微塵も残っていない。
頭髪は一気に白髪が混じってまばらになり、脂ぎって赤黒かった肌はひどく乾燥して土気色に濁っている。落ちくぼんだ目には生気がなく、ただ虚ろにテレビの画面を眺めていた。
「……続いてのニュースです」
テレビのスピーカーから、女性アナウンサーの落ち着いた声が流れてきた。
『現在、国内外のトップ企業が合同で出資し、日本の某所に完全非公開の超高級プライベートリゾートを建設しているという情報が入ってきました』
画面が切り替わり、ドローンで空撮されたと思われる、美しい無人島の映像が映し出された。
透き通るようなコバルトブルーの海と、真っ白な砂浜。鬱蒼と茂る森の一部が切り開かれ、そこにはまだ基礎段階とはいえ、自然環境に完全に調和した見事なログハウスや、岩組みの露天風呂のような巨大な設備が建設されつつあった。
『出資者として名前が挙がっているのは、世界的IT企業グローバル・ネットワークス、桜井財閥、そして海外の巨大医療財団など、名だたるトップ組織ばかりです。まさに、世界を動かすVIPたちだけが足を踏み入れることを許される、現代の不可侵領域と言えるでしょう』
佐々井は、ピクリとひび割れた唇を動かした。
かつての取引先であり、自社の首を絞め上げたグローバル・ネットワークスの名前に、薄暗い記憶の底がざわめいたのだ。
『そして、この前代未聞のプロジェクトの総責任者であり、島の設計・開拓のすべてを取り仕切っているのは、日本の一般企業でシステムエンジニアをしていたという、一人の日本人男性だということです。本日は特別に、その男性の姿を遠距離から捉えた映像を入手しました』
画面が、島に急造されたと思われるヘリポートにズームアップされた。
最新鋭の双発医療用ヘリコプターから、一人の男が降り立つ。
画質は粗く、顔までははっきりと見えない。だが、肩に大容量のバックパックを担ぎ、分厚いトレッキングブーツで土を踏みしめるその体躯。そして何より、足元で短い尻尾を振りながら付き従う、茶色と白の小さなチワワの姿。
「――――あ」
佐々井の喉から、空気が漏れるような乾いた音が鳴った。
見間違えるはずがない。
あの猫背で、常に死人のような顔色をし、自分が押し付ける理不尽な要求に対して、ただ「やります」とだけ答えていた、あの便利な道具。
杉本直樹だ。
画面の中の男は、かつての死にそうな社畜の姿ではなかった。堂々と背筋を伸ばし、その場にいる誰よりも強い存在感を放ちながら、出迎えに来たスーツ姿の女性たちと、対等に言葉を交わしている。
『彼らはいったい、この島にどのような理想郷を創り上げようとしているのでしょうか……』
アナウンサーの声が急速に遠のいていく。
佐々井の耳には、自身の心臓が早鐘のように打つ不快な音と、浅く速い呼吸音だけが響いていた。
(……なんで、だ)
佐々井は震える両手で、自分の丸刈りにされた頭を抱え込んだ。
(あいつは、俺の部下だ。俺がいないと何もできない、ただの歯車だったはずだ。お前の代わりなんていくらでもいると、俺が教えてやったのに……!)
脳裏に、自分が直樹に浴びせた数々の暴言がフラッシュバックする。
『お前が金曜日に勝手に帰るからだ!』
『自分がどういう立場か分かってんのか! 会社が潰れるかもしれないんだぞ!』
あの時、直樹は冷ややかな目で自分を見下ろしていた。
もはや、自分という存在が彼の視界にすら入っていないかのような、絶対的な無関心。怒りや恨みすら通り越した、底知れぬフラットな温度。
その視線の意味を、佐々井は今になってようやく理解した。
直樹にとって、自分はとうの昔に「どうでもいい存在」だったのだ。彼の手はすでに、自分など一生かかっても触れることすらできない、遠い世界へと届いていたのだ。
「あ、ああ……っ」
佐々井の喉から、声にならない嗚咽が漏れた。
自分の手から、すべてがこぼれ落ちていた。
もし、あの男の価値に気づいていれば。あんな無茶な労働を強要せず、人間として扱っていれば。自分は今頃、あのリゾートの片隅で、彼らが動かす莫大な金のおこぼれに預かることができたかもしれない。いや、少なくとも、こんな鉄格子の冷たい床を這いずり回るような人生の終焉を迎えることはなかったはずだ。
「あぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
佐々井はテレビの前で、両膝を硬い床に突き、頭を抱えたまま獣のような絶叫を上げた。
みすぼらしい灰色の作業着が、彼自身の取り返しのつかない後悔と絶望の震えを伝えて、小刻みに揺れ続ける。
「おい、どうした! 番号三八五、静かにしろ!」
「うるせえぞ、頭でもおかしくなったのか!」
駆け寄ってきた看守の鋭い怒声と、周囲の受刑者たちのゴミを見るような冷ややかな視線が突き刺さる。
佐々井は冷たい床に顔を押し当てたまま、ただ床に涙と涎を擦り付けながら嗚咽を漏らし続けることしかできなかった。
刑務所の冷え切ったコンクリートの匂いと、自分が着ている安っぽい布の匂い。
それだけが、彼に残された現実のすべてだった。




