第45話 二重の島と、木漏れ日の曲げわっぱ
現実の無人島に降り立ち、開拓を始めてから数週間。
杉本直樹の生活には、完全に新しいサイクルが定着しつつあった。
朝、目覚めるとまずは足元で尻尾を振るこむぎに餌をやり、短い散歩に出る。ボロアパートの周辺を歩くだけのささやかな時間だが、朝の少しだけ冷たい空気を吸い込みながら歩くのは思いのほか気分が良かった。
アパートに戻って簡単な朝食を済ませた後、昼間はベルの手配したヘリや、ノーラが融通した小型クルーザーで現実の無人島へと渡る。
島での作業は、まさに一からの泥臭い肉体労働だった。
鬱蒼と茂る腰の高さまである雑草を刈り払い、スコップで硬い土を掘り返して水はけの溝を作る。ホームセンターで買い集めた資材を使い、まずは雨風をしのぐための小さな作業小屋の基礎を組み始めた。
VR世界で手に入れた「精霊の愛し子」の補正も、クリック一つで木材が組み上がるシステムのアシストも、現実には存在しない。木材の重さは容赦なく肩や腰に食い込み、遮るもののない太陽は容赦なく直樹の体力を削っていく。手のひらにはいくつものマメができ、それが潰れては固くなり、かつてキーボードしか叩いていなかった指先は、今や無骨なタコへと変わっていた。
だが、直樹はその過酷な労働に、圧倒的な充実感を感じていた。
一歩ずつ、確実に自分の手で現実の空間を切り拓いていく感覚。水平器を当てて基礎の傾きを調整し、釘を真っ直ぐに打ち込めた時の小さな達成感。
作業の合間に海風で汗を冷まし、木陰に座り込んで飲む冷たいスポーツドリンクの喉越しは、冷暖房の効いたオフィスで流し込んでいた泥水のようなコーヒーとは全く違う、生きている実感そのものだった。
夕方にアパートへ戻り、再びこむぎとの散歩と夕飯を済ませた後、夜はVRの『Arcadia Second』へダイブする。
そこには、すでに完璧に整備された快適なリゾートがあり、帰りを待つヒロインたちと、白い聖獣のルナがいる。
波の音を聞きながら石のかまどで夜食を作り、ヒノキ風呂で現実の筋肉痛を癒やす。
現実の島での開拓の汗と、VRの島での極上の休息。
この二重のスローライフは、限界社畜として死にかけていた直樹の肉体と精神を、驚くべき速度で強靭なものへと再構築していた。
★★★★★★★★★★★
週末の午前。
都心にありながら、広大な敷地と豊かな緑を誇る由緒ある庭園。
その入り口に続く石畳の道で、直樹は足を止めた。
初夏の陽射しが木々の隙間から差し込み、足元にまだらな光の模様を作っている。
「待たせたな」
「ううん。私も今来たところよ」
木漏れ日の下で振り返った幸子は、いつもの完璧に仕立てられたビジネススーツ姿ではなかった。
上質なリネン素材のネイビーのサマードレスに、つばの広いストローハット。手には小ぶりな籠バッグを提げている。
直樹の顔を見た瞬間にふっと目尻を下げたその表情は、VRの島で過ごす『シルフィ』の柔らかな顔そのものだった。
「歩くのは平気か。ヒールじゃないようだが」
「ええ。今日はたくさん歩くって聞いていたから、フラットな靴にしてきたの。……自分の足で土の上を歩くなんて、いつ以来かしら」
幸子は足元のローヒールのパンプスを見下ろして、小さく笑った。
二人は並んで、庭園の中へと足を踏み入れた。
綺麗に手入れされた松の木々や、季節の草花が風に揺れている。都会の喧騒は分厚い緑の壁に遮られ、遠くの車の音が微かな環境音として聞こえる程度だ。
玉砂利を踏む規則正しい音が、静かな空間に心地よく響く。
直樹は幸子の歩幅に合わせてゆっくりと歩き、無意識のうちに太陽の光を遮るように、彼女の少し斜め前、日陰になる位置をキープし続けた。
幸子はその背中を見つめながら、心地よい安心感に包まれていた。
過剰な忖度や緊張感はない。かといって、ぞんざいな扱いでもない。ただ、隣を歩く人間が疲れないようにという、実務的で確かな気遣いがそこにあった。
「現実の島の開拓は、どう?」
「予定よりは少し遅れてる。地盤が思ったより硬くてな。基礎を打つ前に、水はけのルートをもう一度引き直しているところだ」
「そう……。でも、ナオの顔、すごくいい顔してる。会社にいた頃のあなたとは、まるで別人みたい」
「あの頃は、ただ溺れないように必死で水を掻いていただけだからな。今は、自分の足で底を踏んで歩いている感覚がある。……あんたが、あの会社から俺を引き剥がしてくれたおかげだ」
直樹が振り返らずにそう言うと、幸子はドレスの裾を軽く握りしめた。
「私は、私の会社のリスクを排除しただけよ」
「それでもだ。助かったよ」
直樹の真っ直ぐな言葉に、幸子は少しだけ視線を逸らし、「……そう」とだけ呟いた。
三十分ほど歩き、庭園の奥にある、池を見下ろす藤棚の下のベンチに辿り着いた。
周囲には他の入園者の姿もなく、水面を渡る風が心地よく吹き抜けている。池の中では、色鮮やかな錦鯉がゆったりと尾びれを揺らして泳いでいた。
「ここで休もう。腹も減っただろう」
直樹はベンチに腰を下ろすと、持参していた保冷バッグから、風呂敷に包まれたものを取り出した。
風呂敷を解くと、中から現れたのは、美しい木目を持つ杉の曲げわっぱの弁当箱だった。
「外で食べるって言ってたからな。適当に作ってきた」
直樹が蓋を開けた瞬間。
ふわりと、杉の木の香りに混じって、食欲を刺激する出汁と醤油の匂いが広がった。
「わぁ……」
幸子の口から、感嘆の声が漏れた。
曲げわっぱの中には、色鮮やかな料理がパズルのように美しく詰められていた。
主役は、ふっくらと焼き上げられた鮭の幽庵焼き。その隣には、鮮やかな黄色が目を引く分厚い出汁巻き卵。スナップエンドウの白和えと、みょうがの甘酢漬けが彩りを添え、もう一段の弁当箱には、俵型に美しく整えられたツヤツヤの塩むすびが並んでいる。
「これ、全部ナオが……?」
「朝から時間があったからな。外で食うなら、冷めても美味いものがいいだろうと思って、味付けは少し工夫してある。食ってくれ」
直樹が手渡した割り箸を受け取り、幸子は震える手で、まずは出汁巻き卵を一口かじった。
出汁の深い香りと卵の甘みに、幸子は思わず箸を止め、ほうっと感嘆の吐息をこぼした。
冷めているのに、いや、冷めているからこそ、卵の甘みと合わせ出汁の深い旨味が凝縮されている。噛んだ瞬間にじゅわっと溢れ出す出汁の香りが、口の中を幸福感で満たしていった。
次に、鮭の幽庵焼きに箸を伸ばす。
柚子の香りを効かせた醤油ダレにじっくりと漬け込まれた鮭は、箸で簡単にほぐれるほど柔らかく、脂の甘みと柑橘の爽やかさが絶妙なバランスで成り立っていた。
そこには、食べる者のことを計算し尽くした確かな温かさがあった。
「美味しい……」
幸子は、ぽつりと呟いた。
VRの島で、行き倒れていた自分に直樹が作ってくれた、あの熱いカニの味噌汁の記憶がフラッシュバックする。
あの時、冷え切っていた胃と心が救われたのと同じように、今、現実の彼女の慢性的な疲労が、この曲げわっぱの中の料理によって静かに溶かされていく。
幸子は箸を置き、俵型の塩むすびを両手でそっと持ち上げた。
別添えになっていたパリパリの海苔を巻き、小さく口に運ぶ。
土鍋で炊き上げられた米は、一粒一粒が完璧に立っていた。具は何も入っていない。ただ、米の持つ本来の甘みと、表面に振られた粗塩のミネラル感が、噛むほどに混ざり合っていく。
「私、最近……ご飯が美味しいって、思えるようになったの」
幸子は、おにぎりを見つめたまま、静かに口を開いた。
「ナオの料理に出会う前は、食事なんてただのカロリー摂取の作業だった。でも、今は違う。……週末にこうやって、美味しいものを食べるために。ナオの料理を食べるために、平日のしんどい仕事を乗り切ろうって、そう思えるの」
直樹は自分の分の弁当箱を広げながら、薄く笑った。
「俺も、同じようなもんだよ」
「え?」
「今は無職で、ただ島を耕してるだけだが……誰かが『美味い』と言って食ってくれるなら、明日の献立を考えるのが楽しくなる。それは、俺にとって何よりの救いなんだ」
直樹は出汁巻き卵を一つ放り込み、目を細めて池の水面を眺めた。
「……だから、またいつでも食いに来い。現実でも、VRでもな」
「……ええ」
幸子は、こみ上げてくる熱いものを飲み込むように、おにぎりを大きく頬張った。
木漏れ日の下、風が木々の葉を揺らす音と、静かな咀嚼音だけが心地よく響き合う。




