第44話 現実の無人島と、風の足跡
あの夜の、ノーラとの密やかなアヒージョの晩餐から数日後。
杉本直樹の足元を、強烈なダウンウォッシュが叩きつけた。
周囲の木々が大きくしなり、巻き上げられた砂埃が視界を白く染める。ベルの医療財団が所有する最新鋭の双発ヘリが、無人島の開けた平地に完璧なホバリングを見せ、静かに着陸用のスキッドを地面に下ろした。
ローターの回転音が徐々にフェードアウトしていく中、直樹はホームセンターで買い揃えた大容量のバックパックを肩に担ぎ直し、ハッチから土の上へと降り立った。
分厚いトレッキングブーツの裏から伝わってくる、アスファルトとは違う不規則な地面の反発。直樹はブーツの底で軽く地面を擦り、土の硬さと水はけの具合を確かめた。
潮の匂いが混じった海風を肺の奥まで深く吸い込み、ぐるりと周囲を見渡す。
視界に広がるのは、手付かずの自然だ。鬱蒼と茂る広葉樹林の奥からは、名前も知らない野鳥の鳴き声が聞こえ、木々のざわめきが風の通り道を教えてくれる。
「……なるほど。地形の起伏、風向き、日照角度。VRの初期リスポーン地点よりは、いくぶんマシな環境だな」
直樹の脳内では、すでに眼前の風景に等高線のグリッドが引かれ、最適な動線と設備の配置シミュレーションが始まっていた。社畜時代に叩き込まれた、限られたリソースで最短の成果を出すためのプロジェクト管理能力が、今度は完全に自分のためだけにフル回転している。
「ナオ、物資の搬入は後続の船に任せてあるわ。とりあえず、数時間休めるベースキャンプの設営をお願いできるかしら?」
ヘリから降りてきた幸子が、日差しを避けるようにサングラスをかけながら言った。彼女の背後では、ベルや亜紀、エミ、ノーラ、リヴィたちも思い思いのアウトドアウェアに身を包み、珍しそうに周囲の自然を観察している。
ベルは手元の医療用端末で直樹のバイタル異常がないか、ちらりと確認を済ませていた。
「ああ、分かってる。そこの切り株の周りにでも集まって座っててくれ。動線の邪魔になる」
直樹は淡々と返し、バックパックから巨大な防水タープとパラコード、それにペグとハンマーを取り出した。
VR空間でのシステムアシストがない分、現実では物理的な重力と摩擦を正確に計算しなければならない。だが、直樹の手のひらには、何百本と木を伐り、岩を砕き、家を建てた『感覚』が残っていた。
太陽の軌道と時間帯ごとの日差しの変化を計算し、海風を受け流しつつ適度な通気性を確保できる絶妙な角度を瞬時に割り出す。タープを広げ、四隅のロープを近くの立ち木へと這わせる。
パラコードを幹に回す手つきに迷いはない。トラッカーズヒッチと呼ばれる結び方で滑車のような仕組みを作り、自分の体重をかけて一気にロープのテンションを張り詰める。ギリッ、とロープが鳴り、ピンと糸を引くような美しい直線が空中に描かれた。
続いて、タープのメインとなる支柱のポールを立て、地面にペグを打ち込む。
ハンマーを振り下ろす動作もまた、無駄がなかった。力任せに叩きつけるのではなく、ハンマーの自重と手首のスナップ、そして重心の移動だけを利用し、地面に対して正確に六十度の角度を保ったまま、カンッ、カンッ、というリズミカルな音とともに硬い土の奥深くまでペグをねじ込んでいく。
無駄な力みが一切ないため、疲労が蓄積しない。
「……見事なものね」
ノーラが腕を組み、感心したように息を漏らした。傭兵を束ねる彼女から見ても、直樹の身体操作は極めて合理的で、疲労を最小限に抑える理にかなった動きだった。
ものの十分。
あっという間に、十数人が快適に日差しを避けられる巨大な屋根が完成した。
それだけでなく、直樹は周囲に落ちていた手頃な石を素早く選別し、タープから少し離れた風下に、美しい円形のかまどまで組み上げてしまった。石同士の噛み合わせを確かめ、隙間を泥で埋めて空気穴を確保する。
「……相変わらず、異常なタスク処理能力ね。現実でもそこまでやるとは思わなかったわ」
幸子が、タープの下に用意された折りたたみチェアに腰を下ろし、呆れたように呟いた。
彼女は現実世界で何万人もの社員を動かすトップだが、これほどまでに無駄を削ぎ落とし、最短距離で結果を出す「現場の人間」を見たことがない。
「火は後で熾す。俺は少し、島の地形の把握と水源を探してくる。それまでここで休んでてくれ。亜紀、ドローンでの空撮マッピングの進捗はどうなってる?」
「もうあらかた終わってるわよ。後でタブレットにデータを同期しておくから」
亜紀が機材を操作しながら親指を立てる。
直樹がバックパックから小ぶりの水筒と鉈だけを取り出し、腰のベルトに固定した、その時だった。
「ナオ! モモも行く!」
声の主は、モモだった。
彼女は、老舗のアウトドアブランドで揃えた、シンプルだが極めて仕立ての良いマウンテンパーカーとトレッキングシューズを身につけていた。普段の彼女を縛り付けている分厚く重い着物や、動きを制限するオートクチュールのドレスとは無縁の、ただの二十歳の少女の装いだ。
「道なんてないぞ。足元は悪いし、虫もいる」
「平気! ナオとのデートの約束、まだ果たしてもらってないもん」
モモはバックパックの肩紐を両手でギュッと握りしめ、一歩前に出た。その瞳には、VR空間で有翼人として大空を舞っていた時と同じ、純粋な好奇心が輝いている。
直樹は小さく息を吐き、首を鳴らした。
「……離れるなよ。怪我をしたらベルに怒られるのは俺だからな」
「うんっ!」
モモの顔がパァッと綻んだ。
★★★★★★★★★★★
タープのあるベースキャンプを離れ、二人は鬱蒼とした森の中へと足を踏み入れた。
海辺の開けた空間から一転し、木々の間から差し込む陽光が、腐葉土の積もった柔らかい地面にまだら模様を描いている。波の音は分厚い葉に遮られて遠のき、代わりに名も知らぬ鳥のさえずりと、自分たちが枯葉を踏むカサリ、カサリという足音だけが響いていた。
少し歩くだけで、シダ植物やツル性の植物が足に絡みついてくる。
直樹が先頭を歩き、邪魔になる長い枝や鋭い棘のある植物を鉈で手際よく払いながら、安全なルートを切り拓いていく。モモはその少し後ろを、周囲の景色を一つ一つ確かめるように、ゆっくりとした足取りでついていった。
「……土って、こんなに柔らかいんだね」
モモが、足元の腐葉土を踏みしめながらぽつりと呟いた。一歩踏み出すごとに、スニーカーの底が僅かに沈み込み、土と枯葉の入り混じった独特の匂いがふわりと立ち上る。
「アスファルトや大理石とは違うからな。何層にも重なった落ち葉がクッションになってるんだ。雨上がりならもっと滑るし、靴もドロドロになるぞ」
直樹は振り返らずに、前方の枝を払いながら答えた。
少しきつい斜面に差し掛かった。
木の根が複雑に絡み合い、苔が生えて滑りやすくなっている。
直樹は軽快な足取りで斜面を数段登り、安定した足場を確保すると、途中で振り返って無言で右手を差し出した。
モモは少しだけ息を切らし、頬を上気させながらも、嬉しそうにその手を取った。
直樹の手のひらは、VRでの労働と現実での自炊で鍛えられ、わずかに硬いタコができていた。その無骨で乾いた温もりが、モモの小さく滑らかな手をしっかりと包み込み、斜面の上へと引き上げる。
「ありがとう、ナオ」
「息が上がってるな。少し休むか。まだ急ぐ必要はない」
「ううん、大丈夫。もっと先まで行きたい。森の中って、こんなに色んな匂いがするんだね」
モモは首を横に振った。
VRの空間では、彼女は美しい白い羽で空を飛ぶことができた。地面の起伏など関係なく、どこへでも自由に飛んでいけた。
だが今は、自分の足で重力を感じ、筋肉を軋ませ、息を弾ませて一歩ずつ進んでいる。それが、彼女にとってはたまらなく心地よかった。
「靴、泥だらけになっちゃった」
モモが自分のトレッキングシューズのつま先を見て、少しだけ可笑しそうに笑う。
新品だったはずのブランド物の靴は、すでに泥と草の汁で薄汚れていた。現実の彼女の立場を考えれば、そんな汚れた靴を履き続けることなど許されないだろう。すぐに新しいものが用意され、古いものは捨てられる。だが、今の彼女は、その汚れを自分自身の力で歩いた勲章のように愛おしそうに見つめていた。
「洗えば落ちる。汚すためにここに来たんだろう」
「……うん。そうだね」
さらに十数分ほど歩き、木々が途切れた急な坂を登り切ると、突然視界が開けた。
「わぁ……!」
モモの口から、感嘆の声が漏れた。
そこは島の南側に位置する切り立った崖の上だった。眼下には、見渡す限りの群青色の海が広がっている。遮るものは何もなく、強い海風が真っ直ぐに吹き付けてきて、モモの髪を大きく揺らした。
「……いい風だ」
直樹は崖の縁から少し離れた、平らで手頃な岩を見つけて腰を下ろした。
モモもその隣に座り、両手で膝を抱えながら、目の前に広がる水平線をじっと見つめた。
直樹は腰のベルトから水筒を外し、蓋のカップに冷たいほうじ茶を注いだ。それから、ジップロックに入れた手作りの一口大のスコーンを取り出し、モモの方へ差し出した。朝、アパートを出る前に焼き上げておいたものだ。
「糖分を補給しておけ。帰りの体力も残しておかないといけないからな」
「……ありがとう」
モモはカップを受け取り、冷たいお茶を一口飲んだ。丁寧に淹れられたほうじ茶の香ばしい風味が、渇いた喉を心地よく潤していく。スコーンを齧ると、表面はサクッと、中はしっとりとした食感とともに、バターの香りとほんのりとした甘さが口の中に広がった。素朴だが、細胞の隅々にまで染み渡るような優しい味だった。
「……モモね、現実の世界でこんなに遠くまで歩いたの、初めてかもしれない」
モモは、スコーンを小さな口で咀嚼しながら、海を見つめたまま言った。
「いつも、周りにはSPの人たちがいて。スケジュールは分刻みで決められてて。モモが少しでも予定と違うことをしようとすると、大人が何十人も慌てふためいて……。空なんて、ビルの窓越しにしか見たことなかった」
彼女の声には、かつてのような深い絶望はなかった。ただ、過去の自分を少し遠くから眺めているような、静かな響きがあった。
「VRの島で初めて羽をもらった時、本当に嬉しかった。どこへでも飛んでいけるんだって。空を飛ぶのは最高に気持ちよかったし、すごく自由だった。でも……」
モモはカップを置き、自分の泥のついた靴先を見つめた。
「自分の足で歩くのも、悪くないね。息が切れて、汗をかいて、靴が汚れて。木の根っこに躓きそうになったり、ナオに手を引いてもらったり……。モモ、今、ちゃんと生きてるんだなって思える」
直樹は無言でスコーンを一つ口に放り込み、海風を顔に受けた。
彼女が背負っているものの重さを、直樹が肩代わりすることはできない。桜井財閥という巨大なシステムの中心にいる限り、彼女はこれからも多くの決断を下し、重圧と戦い続けなければならないだろう。
だが、逃げ場所なら、いくらでも用意してやれる。
「……歩きたくなったら、いつでも言え」
直樹は、水平線から視線を外さずに、淡々と告げた。
「ここはもう、俺たちの島だ。誰の許可もいらないし、スケジュールもない。疲れたらタープの下で寝ていればいいし、腹が減ったら飯を作ってやる。泥のついた靴を洗う時間くらい、いくらでもある。誰かに急かされることも、監視されることもない」
モモは、少しだけ目を瞠って直樹の横顔を見つめた。
気取った慰めの言葉でもなく、大げさな誓いでもない。ただの、彼にとっての当たり前の日常の延長線上の提案。
それが、モモの胸の一番奥にある、冷えて固まっていた部分をじんわりと溶かしていった。
「……うん」
モモは小さく頷き、直樹の肩にコトリと自分の頭を預けた。
直樹はそれを避けることもなく、ただ静かに海風の音に耳を傾けていた。
「ねえ、ナオ」
「なんだ」
「今度来る時は、お弁当を作ってきていい?」
「……お前が? 厨房が爆発しないか」
「もう! ベルに手伝ってもらうから平気だもん!」
モモの弾むような笑い声が、青い空に吸い込まれていく。
崖の上を吹き抜ける心地よい海風が、二人の穏やかな時間を優しく撫でていった。




