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限界社畜のVR開拓記〜クビになったらVIP客が元職場を滅ぼした〜  作者: 伊達ジン


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43/50

第43話 現実の島と、潮風のアヒージョ

 すっかり日が落ち、夜の静寂が降りてきたボロアパートの6畳間は、秋葉原の喧騒とは全く異なる、異様な熱気に包まれていた。


 亜紀を連れて秋葉原での買い出しから帰還した杉本直樹が、狭いキッチンのシンクで夕飯の支度を始めている背後では、女たちによる国家予算規模の作戦会議が白熱していた。

 午後、幸子の鶴の一声で決定した「現実での無人島共同購入とプライベートリゾート化計画」は、直樹が秋葉原を歩き回っている数時間のうちに、恐ろしい速度で具体的なフェーズへと移行していた。


「地権者との基本合意はすでに私の直轄チームが済ませたわ。残る法的な名義変更と登記手続きは、リヴィ、あなたの事務所で最優先で巻き取ってちょうだい」

「ええ、任せて。ダミー会社をいくつか挟んで、所有者の特定を物理的に不可能にするスキームを組んであるわ。それよりベル、医療設備の搬入ルートは確保できた?」

「ドクターヘリの離着陸用ヘリポートの設計図は引かせたわ。あとはナオの健康管理に必要な最新のモニタリング機器を、私の財団から直接空輸させるだけよ」


 ローテーブルの上には、複数のタブレット端末と、分厚い衛星写真の束が所狭しと広げられている。

 買ってきたばかりの高価なネットワーク機器をさっそく床に並べていた亜紀も、「島の通信インフラは私が完全に暗号化するわ。軍事衛星経由の独立回線を引くから」と、物騒なハッキングの準備を始めている。足元ではこむぎが、亜紀のあぐらの隙間で完全にへそ天になってスースーと寝息を立てていた。


「おい、お前ら。少し机の上を空けろ。夜食ができたぞ」


 直樹が声をかけると、バチバチと火花を散らしていたトップエリートたちの動きがピタリと止まり、一斉にこちらへ視線を向けた。

 直樹が運んできたのは、秋葉原の裏通りにある精肉店で買ってきた切り落としのチャーシューを、ごま油とたっぷりの白髪ネギ、黒胡椒で和えた特製のネギ塩チャーシュー丼だ。それに、鶏ガラスープの素と乾燥ワカメで作った簡単なスープを添えている。

 たったそれだけの手間だが、香ばしいごま油と豚の脂の匂いが部屋に充満すると、女たちの顔から「冷徹な権力者」の仮面がホロリと剥がれ落ちた。


「……信じられないわ。こんな簡単な料理なのに、どうして三ツ星のフレンチより美味しそうな匂いがするのよ」


 オリヴィアがたまらず箸を伸ばし、チャーシューとネギを白飯ごと口に運んで小さく身悶えする。

 直樹は自分の分の丼を持ちながら、呆れたようにため息をついた。


「いくら金と権力があるからって、無人島を即金で買うなんて無茶苦茶だぞ。インフラの整備だけでも何年かかるか……」

「ダメよ、ナオ! 私たちが現実でも心からリラックスできる場所が欲しいの!」


 モモが、口いっぱいにチャーシューを頬張りながら力強く反論する。


「そうよ。あの会社の残党がいつ逆恨みしてくるか分からないわ。あなたは大人しく、最高のキッチンと畑の設計だけ考えていなさい」


 幸子がほうじ茶を啜りながら、有無を言わせぬ視線で直樹を制した。


「……それで、肝心の候補地だけど」


 丼を綺麗に空にしたエレアノラ――ノーラが、油のついた唇をナプキンで拭いながら口を開いた。


「私が裏のネットワークを駆使して、条件に合う最高の場所をいくつかピックアップしておいたわ。明日、ナオを連れて現地視察に行ってくる」

「ちょっと、ノーラ! 抜け駆けは許さないわよ!」


 ベルが身を乗り出したが、ノーラは妖艶な笑みを浮かべて首を振った。


「抜け駆けじゃないわ。PMC(民間軍事会社)のトップとして、現地の地形と防衛ラインの構築をこの目で確認する必要があるの。それに、そこに住むことになるナオの意見も絶対に必要でしょ? 護衛付きの安全な視察よ。文句はないわね?」


 正論で押し切られたヒロインたちが悔しげに沈黙する中、直樹の平穏なアパート暮らしから「リアルリゾート開拓」への移行は、強制的に決定づけられた。


★★★★★★★★★★★


 翌日の午後。

 初夏の強い陽射しがアスファルトの熱をじりじりと押し上げる中、直樹は都心から車で一時間ほど離れた海岸沿いにいた。


「どうかしら。敷地面積は約三千坪。プライベートビーチ付きで、背後は小高い山になっているから外部からの視線も完全に遮断できるわ」


 潮風に金色の長い髪を揺らしながら、ノーラが分厚いファイルの図面を指で弾いた。

 タイトな黒のドレスに身を包み、足元は鋭いピンヒール。その完璧なプロポーションと、全身から発せられる危険で艶やかなオーラは、すれ違う誰もが振り返るほどだ。彼女の背後には、少し距離を置いて、スーツ姿の屈強な男たちが四人、周囲に鋭い視線を配りながら待機している。


「確かに、地形はあのVRの島に少し似ているな。土の質も悪くない、畑も作れそうだ」


 直樹は海風を肺いっぱいに吸い込みながら、図面ではなく、ノーラの横顔を見て言った。

 完璧なメイクで隠してはいるが、彼女の目元には濃い疲労の色が沈殿している。ここへ来る黒塗りのSUVの車内でも、彼女のスマートフォンには絶え間なく暗号化されたメッセージが届き、その度に彼女は冷酷な総帥の顔で短い指示を飛ばしていた。


「裏切り者の処理」や「武器の横流しルートの制圧」。現実世界の彼女は、常に命を狙われ、一瞬の隙も許されない血なまぐさい戦場にいる。


「……平気よ。これが私の日常だもの。それより、視察はこれで終わり。海沿いのフレンチレストランを貸し切ってあるわ。行きましょう」


 ノーラが踵を返そうとした時、直樹は小さく息を吐いた。


「キャンセルしろ」

「え?」

「そんなピリピリした護衛に囲まれて、誰もいない貸し切りのレストランで飯を食っても、味がしないだろ。少し付き合え」


 直樹はそう言うと、ノーラの返事を待たずに、海岸沿いに続く防波堤の方へ歩き出した。


「ちょ、ちょっと、ナオ!」


 慌ててピンヒールで追いかけるノーラ。護衛たちが色めき立って動こうとしたが、ノーラは片手で彼らを制止し、自分だけが直樹の後を追った。


 防波堤を少し歩いた先にある、人目に付かない小さな入り江。波の音だけが静かに響くその場所で、直樹は持参していた黒い保冷バッグを開けた。


「ここで食べるの……?」


 怪訝な顔をするノーラをよそに、直樹は手際よく小型のカセットコンロを組み立て、小さなスキレットを火にかけた。


 保冷バッグから取り出したのは、先ほど道中の道の駅で買っておいた、獲れたての小エビとマッシュルーム。そして、たっぷりのオリーブオイルとニンニクだ。

 スキレットにオイルを注ぎ、刻んだニンニクを入れる。火にかけてしばらくすると、チリチリという音と共に、食欲を暴力的に刺激する香ばしい匂いが海風に乗って広がった。

 そこへ小エビとマッシュルームを投入し、最後に少しの岩塩と鷹の爪を振る。


「ヒールじゃ足が痛いだろう。そこに座れ」


 直樹は防波堤の平らな場所にレジャーシートを敷き、ノーラを促した。

 ノーラは少し躊躇ったが、オイルとニンニクの匂いに胃袋を完全に掴まれたように、大人しくシートに腰を下ろした。直樹は火から下ろした熱々のスキレットを中央に置き、スライスしたバゲットを差し出した。


「エビのアヒージョだ。火傷に注意しろ」


 ノーラは渡された木製のフォークで、ぐつぐつと煮え立つオイルの中から小エビを一つ掬い上げ、そっと口に運んだ。


「……っ!」


 瞬間、彼女の切れ長な目が丸く見開かれた。

 プリプリとしたエビの強烈な旨味。それを包み込む、ニンニクの香ばしさとオリーブオイルの分厚いコク。鷹の爪のピリッとした辛味が全体を引き締め、限界まで張り詰めていた理性の糸をあっさりと断ち切るような、野性的で鮮烈な旨味となって舌を直撃した。

 バゲットをオイルに浸して口に含むと、ジュワッと溢れ出す旨味と塩気に、ノーラの口から「あぁっ……」と、熱を帯びた吐息が漏れた。


「美味しい……すごく、美味しい」


 それは、三ツ星レストランの計算し尽くされたソースの味ではない。VRの島で、彼が最初に作ってくれた、あの粗野で力強い料理の味と同じだった。


「だろ。海風に吹かれながら食うなら、こういうのが一番美味いんだ」


 直樹は自分もバゲットを齧りながら、沖に沈み始めた夕日を眺めた。


 隣で食べているノーラの咀嚼音が、次第にゆっくりとしたものに変わっていく。

 ふと見ると、彼女は窮屈そうだったピンヒールを脱ぎ捨て、ストッキング越しの足を投げ出していた。背筋をピンと張っていた姿勢も崩れ、防波堤のコンクリートにだらしなく背中を預けている。

 波の音と、潮風の匂い。そして、隣にはただ温かいご飯を作ってくれる男がいるだけ。

 いつの間にか、彼女の顔から「血塗られた女王」の冷たい仮面は完全に剥がれ落ち、VRの海でパチャパチャと尾びれを跳ねさせていた、あの無防備な「人魚」の表情に戻っていた。


「……ねえ、ナオ」


 オイルの染みたバゲットを咀嚼しながら、ノーラがとろんとした目で直樹を見上げた。


「ん?」

「現実の私たちのリゾート、最高の防衛システムと、絶対に誰にも邪魔されないプライベートビーチを用意してあげる」


 ノーラは直樹の肩に自分の頭をコテンと乗せ、その温かな体温にすり寄るようにゆっくりと目を閉じた。


「だから……一番日当たりが良くて、あなたの匂いがする場所は、私の指定席よ」


 血の匂いも、硝煙の匂いもしない。ただ潮風とニンニクの香りが漂う中で、彼女の張り詰めていた神経が、ゆっくりと解けていくのが分かった。


「……善処する。とりあえず、冷める前に食っちまえ」


 直樹は肩の重みをそのままに、波の音を聞きながら、冷たいお茶を一口飲んだ。

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