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限界社畜のVR開拓記〜クビになったらVIP客が元職場を滅ぼした〜  作者: 伊達ジン


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第42話 現実の不可侵領域と、溶けかけのクリームソーダ

 狭いキッチンのシンクに、水道の水が跳ねる単調な音が響いていた。


 直樹は使い込まれたスポンジに洗剤を足し、先ほどのシューマイ定食で汚れた皿を手際よく洗っていく。油汚れを的確に落とし、流水で流して水切りカゴへ。この無駄のないルーティンは、直樹にとって食後のちょっとしたクールダウンの時間だった。換気扇が低い唸り声を上げ、かすかに残っていた肉と油の匂いを外へと吸い出していく。

 休日の夕暮れ時。かつての直樹なら、明日の仕事の重圧に胃を握り潰されていた時間帯だ。だが、今の彼の心にはどこまでも平穏な凪が広がっていた。


 一方、彼が背を向けている6畳間のリビングでは、静かだが極めて密度の高い冷戦が繰り広げられていた。


 ほうじ茶の入った湯呑みを手に、幸子が口を開く。


「……結局のところ、現状維持は不可能よ。あの会社は潰したとはいえ、彼がこれ以上、セキュリティの脆弱なこのアパートに留まるべきではないわ」

「同感ね。だからこそ、私が用意したセーフハウスへ移すべきだと言っているの。パラリーガルとしての雇用契約もすでに済ませてあるわ」


 オリヴィアが、テーブルの上に置いたタブレットを指先で軽く叩いた。画面には、直樹を法的に完璧に保護する書類のドラフトが映し出されている。


「あら、メンタルケアの観点から言えば、私の財団のVIP専用病棟に隣接するゲストハウスが最適よ。24時間体制の医療チームもつけられるわ」


 ベルが褐色の腕を組み、豊満な胸を反らして主張する。


「そんなの退屈だもん! モモのお家の離れなら、庭もすごく広いし、こむぎちゃんも走り回れるよ!」


 モモが身を乗り出し、エミがそれに深いため息をついて応じる。


「あのね、あんたの家の離れって、下手な公園より広いでしょ。それに、誰かのテリトリーに彼を囲い込むなんて、他の人間が許すわけないじゃない」

「ええ、その通りね。私が彼のハッキング防壁をすべて管理しているんだから、私抜きで隠そうとしても無駄よ」


 亜紀が、膝の上のタブレットから視線を外さずに冷たく言い放った。


 見事に膠着状態だった。


「……抜け駆けは、全員の損失にしかならない。なら、答えは一つね」


 幸子が、すっと目を細めた。IT帝国のトップとしての、冷徹な計算と決断の顔だった。


「既存の誰の領土でもない、完全に新しい『不可侵領域』を構築するのよ」

「不可侵領域?」

「ええ。日本の領海内に、手頃な無人島がいくつか売りに出ているわ。そこを買い取り、私たちが共同で出資して、完全に独立したプライベートアイランドを作る。外部からの干渉を一切遮断し、インフラからセキュリティまで、私たちが最高水準のものを揃えるの。そこなら……全員が平等に彼に会えるわ」


 そのスケールの大きすぎる提案に、一瞬だけ部屋が静まり返った。

 しかし、すぐにオリヴィアがタブレットを素早く操作し始めた。彼女の指先が、空中の見えないキーボードを叩くように動く。


「……なるほど。ペーパーカンパニーを設立して所有権を均等に分割し、治外法権に近い特区申請を通せばいけるわね。法的なドラフトは私が今夜中に引くわ」

「資金ならモモが出すよ! お小遣いの口座にまだ数十億あるもん!」

「インフラと医療設備の搬入ルートは私が確保する。自家発電とヘリポートは必須ね」


 ベルが言い終わるか終わらないかのうちに、部屋の隅で黙って琥珀色の酒を飲んでいたノーラが妖艶に微笑んだ。


「物理的な防衛線と警備は、私のところのPMCに任せなさい。アリ一匹通さない完全な要塞にしてあげるわ」


 わずか数分の間に、世界を動かす女神たちによって、一個の無人島を丸ごと買い取り、要塞化するという常軌を逸したプロジェクトが立ち上がっていた。


「おい」


 水気を拭き取った手をタオルで拭きながら、直樹がリビングを振り返った。


「さっきから、何を物騒な話をしてるんだ。ヘリポートがどうとか」


 幸子が微笑み、テーブルの上に置かれていた分厚いタブレットを直樹の方へ滑らせた。


「ナオ。あなたに、新しいプロジェクトのPMプロジェクトマネージャーを依頼したいの。当然、報酬はあなたの言い値で構わないわ」


 直樹は怪訝な顔でタブレットを手に取り、画面に表示された資料に目を通した。


『プロジェクト・アルカディア 現実化計画 要件定義書(案)』


 そこには、太陽光および地熱発電の敷設、海底ケーブルによる独立通信網の構築、自給自足可能なスマート農業プラットフォームの導入など、国家の公共事業レベルのインフラ整備計画が、異常なまでの解像度で記載されていた。


「……冗談だろ。これ、ゼロベースから現実の島を一つ開発するってことか? 工期と予算の概念が狂ってるぞ」

「予算に上限はないわ。それに、あなたはVRの中で、たった一人でそれに近いことをやってのけたじゃない。現実の物理的な作業は私たちが手配したプロがやるわ。あなたは、その全体の指揮と、システム要件の定義をしてくれればいいの」

「馬鹿言え。こんな規模のプロジェクト、調整だけで胃に穴が空く」


 直樹はタブレットをテーブルに突き返そうとした。だが、その画面に描かれた、島の完成予想図のトポロジーとインフラの配線図を見た瞬間、彼の視線がピタリと止まった。


(……待てよ。この地形なら、西側の入り江に防波堤を築けば、潮の流れを利用した小規模な水力発電が併用できる。通信ケーブルの取り回しも、ここを通せばノイズが減る……いや、それならいっそサーバー群の冷却に海水を……)


 極限まで酷使され、それでもシステム構築の最適解を求めることをやめられなかった社畜の血が、その完璧すぎる白紙のキャンバスを前にして、無意識に最適化の計算を始めてしまっていた。かつての職場のような理不尽な制約も、無能な上司からの場当たり的な横槍もない。純粋に最高のシステムを、予算の上限を気にすることなくゼロから構築できる。それは一人のエンジニアとして、抗いがたい極上の麻薬だった。


 沈黙する直樹の顔を見て、オリヴィアが小さく笑った。


「……優秀なエンジニアは、美しい難題を前にすると抗えないものよ。彼、もう頭の中で設計図を引き始めているわ」


 直樹は短く息を吐き、タブレットを手に持ったまま幸子を見た。


「……納期は?」


 その一言に、6畳間に集った女たちの顔が、一斉に華やいだ。


★★★★★★★★★★★


 数日後。

 休日の秋葉原は、アスファルトから立ち昇る熱気と、行き交う人々の放つエネルギーでむせ返るような暑さだった。駅前の巨大なビジョンからはアイドルの甲高い歌声が響き、歩道はメイド服姿の少女たちや多国籍な観光客でごった返している。


 直樹は、少し前を歩く亜紀の背中を静かに追っていた。


 亜紀は黒を基調としたフリル付きのブラウスにプリーツスカートという高校生の私服姿で、日傘を深く差し、周囲の喧騒を鬱陶しそうに睨みつけながら歩いている。


『島のサーバー構築に必要な物理パーツを直接見て買いたいから、荷物持ちをしなさい』


 昨夜、そんな身も蓋もないメッセージで呼び出されたのだ。

 直樹は亜紀の歩く速度に合わせて歩幅を調整し、人波が押し寄せてきても彼女の肩がぶつからないよう、さりげなく自身の身体を壁にして進路を確保していた。


「……人が多い。暑い。ノイズばっかり」


 亜紀が日傘の柄を握りしめ、不機嫌そうに呟く。


「言い出したのはお前だろ。それに、今はネットでいくらでもパーツは買えるじゃないか。こんな暑い中、わざわざ出歩く必要もない」

「重要なコアパーツは、自分の目で基盤のロット番号まで確認しないと気が済まないの。あの人たちがどれだけお金をかけようと、物理的なサーバーのセキュリティがガバガバじゃ意味ないでしょ」


 亜紀はそう言い捨てると、大通りから一本外れた、薄暗い裏通りにあるマニアックなパーツショップへと吸い込まれていった。


 狭い通路の両側に積まれたジャンク品の山と、ガラスケースに陳列された最新鋭の基板。店内に漂うハンダと埃の匂いの中、亜紀は水を得た魚のようにショーケースを物色し始めた。先ほどの不機嫌さはどこへやら、無愛想な店員相手に専門用語で容赦のない質問を浴びせ、いくつかの高価なパーツを迷いなく指定していく。その的確な知識と要求レベルの高さに、最初面倒くさそうにしていた店員の顔つきが徐々に真剣なものへと変わっていく。直樹は一切口を挟まず、ただ彼女が指定したパーツの入った重い紙袋を黙って受け取っていった。


 数店舗を回り、両手にずっしりとした重みを感じるようになった頃、直樹たちは喧騒から少し離れた路地裏の古い純喫茶に入った。


 ドアに付いた真鍮のベルがカランと鳴る。冷房の効いた薄暗い店内は、先ほどまでの熱気とノイズが嘘のように静かだった。直樹は紙袋を隣の席に置き、亜紀の向かいに腰を下ろした。


 亜紀は日傘を畳み、小さくため息をついて使い込まれたベルベットの背もたれに寄りかかった。長時間の外出と人混みに当てられ、目の下には普段よりも濃い疲労の影が落ちている。


「お待たせいたしました」


 蝶ネクタイを締めた初老のウェイターが運んできたのは、直樹が頼んだアイスコーヒーと、背の高いグラスに入ったメロンクリームソーダだった。


 直樹は無言で、その鮮やかな緑色のソーダを亜紀の前に滑らせた。


「……何これ。子供扱いしないでよ」


 亜紀は口を尖らせたが、その碧い瞳はグラスの上に乗った大きなバニラアイスと真っ赤なチェリーに釘付けになっていた。


「ノイズに当てられて脳が疲労してる時は、冷たい糖分を直接入れるのが一番手っ取り早い。少し溶けかけてるくらいがちょうどいい」


 直樹が自分のアイスコーヒーに口をつけると、亜紀は少し躊躇いながらも、長いストローを咥えた。


 カラン、と氷が涼しげな音を立てる。

 冷たいソーダと甘いアイスクリームが喉を通った瞬間、亜紀の張り詰めていた肩の力が、ふっと抜けた。


「……美味しい」


 ぽつりと漏れたその声は、天才ハッカーとしての冷たさを完全に失った、年相応の少女のものだった。


 直樹はグラスの結露を指で拭いながら、静かに亜紀を見た。


「無理をするな。島のネットワーク構築は俺の管轄でもある。お前一人で抱え込む必要はない」

「……バカにしないで。お兄ちゃんの書くコードの癖くらい、私が一番分かってるんだから。私が組むインフラに乗っかった方が、絶対に効率がいいでしょ」


 亜紀はストローから口を離し、グラスを見つめたまま言った。


「それに……あの島が完成したら、お兄ちゃん、ずっとあそこにいるんでしょ?」

「PMとしての仕事が終わるまではな」

「じゃあ、私も行く。私がサーバーの保守点検を口実にすれば、いつでもあの島に行けるもん。……だから」


 亜紀は顔を上げ、直樹の目を真っ直ぐに見据えた。


「これからも、私の荷物持ちくらいはさせてあげる」


 それは、他人を信用せず、常にデジタルの壁の裏側に隠れていた少女なりの、精一杯の好意の提示だった。


 直樹は短く息を吐き、テーブル越しに手を伸ばして、亜紀の頭を軽くポンと叩いた。


「わかった。システムの要件定義が終わったら、真っ先にお前にレビューを頼む。頼りにしてるぞ、アリス」

「っ……現実でその名前で呼ぶな!」


 亜紀は顔を真っ赤にして直樹の手を払いのけようとしたが、結局その手は空を切り、彼女はストローを再び咥えて顔を背けた。しかし、その耳の先までがほんのりと赤く染まっているのを、直樹は見逃さなかった。

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