第41話 至高のシューマイと、静かなる正妻戦争
ほうじ茶の甘く香ばしい余韻が、初夏の少し湿った6畳間に完全に溶け切った頃。杉本直樹は静かに立ち上がり、使い込まれたネイビーのエプロンを腰に巻いた。
背中で紐を結ぶその何気ない動作一つで、ローテーブルを囲んでくつろいでいた女たちの視線が、一斉に彼の一挙手一投足に吸い寄せられた。
直樹は洗いざらしのシャツの袖を、肘の少し下まで無造作にまくり上げる。露わになった前腕には、かつてキーボードを叩き続けて痩せ細り、青白い蛍光灯の下で不健康な影を落としていた頃の面影は微塵もない。VR空間での木材の伐採や石組み、畑の開墾といった途方もない重労働が、現実の肉体にも確かなフィードバックをもたらしているのだ。適度に引き締まった筋肉の陰影と、その表面に浮き出る逞しい血管のライン。
そして何より、過労による死相が完全に抜け落ちたその横顔は、32歳という年齢が持つ本来の渋みと、飾り気のない大人の色気を静かに放っていた。
「……信じられないわね」
トップ女優として数多の美男子を至近距離で見てきた秀美――エミが、呆れたように小さく呟いた。
カメラを前にして緻密に作り込まれた「隙のない美しさ」ではない。ただ台所に立つという日常の動作の中に、男としての無防備な生活感と、揺るぎない芯の強さがある。その圧倒的なリアリティを前にして、秀美は自分の心臓が柄にもなく早鐘を打っているのを自覚していた。手元にある巨大なクッションの端を、無意識に強く握りしめる。
「ええ。骨格のバランス、筋肉の付き方、皮膚の血色の良さ。……完璧な仕上がりよ。心肺機能も最高の状態にあるはずだわ」
イザベラ――ベルは、外科医としての鋭い観察眼をフル稼働させながら、熱を帯びた吐息を漏らした。彼女の深い色の瞳は、直樹の広い背中をまるで極上の芸術品でも舐め回すように追っている。その視線は、現実世界でメスを握る時の張り詰めたものではなく、純粋な熱情に濡れていた。
「私の前では、ずっとあの死にそうな顔を隠して気を張っていたのに……。今の彼は、本当に無駄な力が抜けているわね」
幸子――シルフィは、自分の手の中の湯呑みを指先で静かになぞりながら、微かに目を細めた。彼女が一番初めにVRの島で出会った時の、あの「ただの親切な村人」の姿が、現実の精悍な大人の男の姿と完全に重なり合う。見返りを一切求めず、ただ温かいスープを出してくれたあの時の温度。その事実が、幸子の胸の奥にある独占欲を静かに、しかし確実に刺激し、薄い唇の端に微かな微笑みを作らせた。
「あのさ」
亜紀――アリスが、膝の上に置いたタブレットの画面から視線を上げずに、冷ややかな声で牽制を入れた。
「さっきからお兄ちゃんのこと、ジロジロ見すぎ。発情期の猫みたいでみっともないよ、おばさんたち」
「あら。あなたこそ、さっきからダミーのコードを打ち込んでるだけで、視線はナオの背中を追っているじゃない」
オリヴィア――リヴィが、完璧な笑みを浮かべて即座に切り返す。彼女の銀色の瞳には、国際法廷で見せるような冷徹な光が微かに宿っていた。
「彼の提供するこの環境は、もはや私たちにとって不可欠なインフラよ。誰が彼の隣の『特等席』に座る権利を有しているのか、一度明確な契約書を交わしておく必要があるかもしれないわね」
「契約書? 笑わせるわ。ナオは誰のものでもない。……でも、もし誰かが強引に独占しようとするなら、私の部隊が黙っていないけれど」
エレアノラ――ノーラが、豊満な胸の前で腕を組み、妖艶な笑みを浮かべた。その声には、裏社会を統べる者としての絶対的な自信と、明確な殺気が微かに混じっている。彼女の指先が、テーブルの上をコツ、コツと一定のリズムで叩いた。
そんな一触即発の、言葉なき「正妻戦争」が背後で勃発していることなど露知らず、直樹の意識は目の前のまな板とコンロに完全に集中していた。
直樹の料理の真髄は、長年のシステムエンジニア生活で培われた「並列処理」と「リソース管理」の能力にある。限られた2口のコンロと狭い作業スペースで、いかに効率よく、かつ最高のクオリティの皿を同時に仕上げるか。工程に一切の無駄はない。
今日のメインは、スーパーの特売で買い置きしておいた『新橋亭』のジャンボシューマイだ。
だが、直樹は決して電子レンジを使わない。深めのフライパンに少量の湯を沸かし、専用の網皿を敷いて即席の蒸し器を作り上げた。沸騰した湯の蒸気が充満したところに、凍ったままのジャンボシューマイを等間隔に並べ、蓋をする。ここから強火で一気に蒸し上げることで、皮は極限まで水分を含んでモチモチになり、中の肉汁は逃げ場を失って爆発的な旨味へと昇華する。
シューマイを蒸している15分の間に、直樹の手は一切止まらない。
もう一つのコンロの小鍋で湯を沸かし、塩を一つまみ。そこへ菜の花の茎の部分から先に投入し、数秒のタイムラグを置いて蕾の部分を沈める。鮮やかな緑色に変わった瞬間に冷水に引き上げ、色止めをする。
ここからが重要だ。直樹は菜の花を手に取り、両手で水分を絞る。限界まで水気を切るが、決して繊維を潰さない絶妙な力加減。そこへ、あらかじめ合わせておいた一番出汁、薄口醤油、ほんの少しの砂糖、そして溶き芥子を回し入れ、手早く和える。ツンとした芥子の香りが、狭いキッチンにふわりと広がった。
タッパーから取り出したのは、春に仕込んでおいた山ウドの佃煮だ。独特のえぐみを丁寧に抜き、酒と醤油、みりんで照りが出るまで煮詰めたもの。そして、新鮮なイカの肝の旨味が濃厚な塩辛。これには、風味付けにほんの少しだけ柚子の皮を削って散らす。モズクの酢の物は、市販の甘すぎる三杯酢を捨て、自作の合わせ酢で洗い直し、すりおろした生姜を天盛りにした。
さらに、冷蔵庫にあった使いかけの絹ごし豆腐。これを崩して器に敷き、白だしと卵を合わせた液を注ぎ入れる。シューマイの蒸し時間が残り5分となったところで、フライパンの隙間にこの器を滑り込ませた。「豆腐の茶碗蒸し風のあまり」の同時調理だ。
最後に、玉ねぎの味噌汁。玉ねぎは繊維に逆らって切り、水からじっくりと煮て甘みを極限まで引き出しておく。
「……よし」
直樹が火を止め、フライパンの蓋を開けた瞬間。
ブワッと立ち上った白い湯気と共に、豚肉の強烈な脂の甘さと、中華特有のスパイスの香りが6畳間を暴力的に支配した。
「できたぞ。テーブルを片付けてくれ」
直樹の声に、ヒロインたちは弾かれたように我に返った。先ほどまでのバチバチとした牽制の空気は、目の前に並べられていく料理の圧倒的な存在感と香りの前に、一瞬で吹き飛んでしまった。
大皿に乗った、艶々と輝く新橋亭のジャンボシューマイ。その周囲を囲むように、料亭の八寸を思わせる繊細な小鉢たちが並ぶ。
「いただきます」
元子――モモが、待ちきれないように箸を伸ばし、大きなシューマイを一つ丸ごと口に放り込んだ。
「……っっっ!! はふっ、あっつ! でも、なにこれ……すっごくジューシー!」
モモの目が驚きに見開かれる。
電子レンジで加熱しただけのベチャッとした食感は微塵もない。完璧な温度で蒸し上げられた薄い皮が破れた瞬間、中から熱々の肉汁がスープのように溢れ出した。豚肉の粗挽き感と、玉ねぎの甘みが口の中で渾然一体となり、脳の報酬系をダイレクトに刺激する。
「本当に……冷凍食品だなんて信じられないわ。肉の旨味が完全に活性化している」
ベルもシューマイを口に運び、プロの料理人顔負けの火入れの技術に舌を巻いた。
だが、この食卓の真髄は、その暴力的なジャンクの旨味を中和する小鉢たちにあった。
シューマイの濃い脂を、菜の花の芥子和えのツンとした辛味とほろ苦さが綺麗に洗い流す。山ウドの佃煮を噛み締めれば、土の香りと甘辛い醤油の風味が広がり、白飯を猛烈に欲求させた。
イカの塩辛に散らされた柚子の香りは、生臭さを完全に消し去り、純粋な海の旨味だけを残している。モズクの酢の物は、むせ返るような酸味の角が取れ、生姜の清涼感が食欲を無限にリセットしてくれた。
そして、豆腐の茶碗蒸し風のあまり。
スプーンですくって口に入れると、卵と白だしの極上の旨味が、滑らかな豆腐と共に喉の奥へチュルリと滑り落ちていく。
「……ずるいわね。こんなの」
幸子が、玉ねぎの甘みが溶け出した味噌汁を一口飲み、ふうと深い安堵の息を吐き出した。
世界的IT企業のCEOとして、何万円もするフレンチや懐石料理を日常的に口にしている彼女の細胞が、このボロアパートで出された数百円の食材の組み合わせに、完全に屈服していた。
カチャカチャという箸の音と、幸せそうな咀嚼音だけが響く。誰もが言葉を忘れ、直樹の構築した『食の完全なローテーション』に身を委ねていた。
直樹は自分の分の食事を淡々と進めながら、足元でおとなしくササミを食べるこむぎの背中を時折優しく撫でている。こむぎが満足そうに直樹の指先を舐めると、女たちの視線がその無骨な手に一斉に集まり、そして誰にも気づかれないように静かに伏せられた。
食事が終わり、直樹が手早く食器を下げる。
数分後、彼が再びテーブルに戻ってきた時には、木のお盆の上に人数分の湯呑みが乗せられていた。
「食後の茶だ。熱いから気をつけて飲め」
注がれていたのは、透き通った琥珀色の液体。石川県特産の、茎の部分だけを焙煎した『棒茶』だった。
湯呑みを顔に近づけただけで、ほうじ茶よりもさらに上品で、どこか甘さすら感じさせる豊かな焙煎香が鼻腔をくすぐる。
「……あぁ」
一口飲んだリヴィの口から、蕩けるような吐息が漏れた。
シューマイの脂も、塩辛の強い旨味も、この一杯の棒茶がすべてを優しく包み込み、完璧な形で食事の幕を下ろしてくれた。
開け放たれた窓から、夜の涼しい風が吹き込んでくる。
直樹は自分の湯呑みを手に取り、静かに目を閉じてその香りを味わっていた。その無防備で静かな横顔を見つめながら、6人の女たちは誰一人言葉に出すことなく、ただ手の中の湯呑みの温もりを確かめるように強く握りしめていた。




