第40話 事態のフリーズと、完璧なホスピタリティ
初夏の強い陽射しが、アスファルトの照り返しとなって肌をじりじりと焼く。
直樹は、マクドナルドでの遅めの昼食を終え、のんびりとした足取りでボロアパートへの帰路についていた。
胃袋には、何年ぶりかに味わったジャンクフードの重たい満足感がどっしりと収まっている。右手に提げたビニール袋には、帰り道に立ち寄ったペットショップで購入した、こむぎのための新しいロープのおもちゃと、少し奮発した無添加の犬用おやつが入っていた。
「……暑いな」
額に滲んだ汗を手の甲で拭いながら、直樹は小さく息を吐いた。
だが、その足取りは羽が生えたように軽かった。明日も、明後日も、エラーログの監視や理不尽な顧客からの怒号に怯える必要はない。鳴り止まない業務用スマートフォンの着信音も、胃を握りつぶされるようなプレッシャーも、もう自分の人生には存在しないのだ。
ただ、愛犬の待つ家に帰り、夕飯の献立を考え、夜はVRの島で静かな時間を過ごす。
そんな当たり前の平穏が、直樹にとってはこれ以上ないほどの贅沢だった。
アパートの外階段を上り、自室のドアの前に立つ。
ポケットから鍵を取り出し、年季の入った鍵穴に差し込もうとした直樹の手が、ふと止まった。
(……ん?)
ドアノブに手をかけた瞬間、微かな違和感があった。鍵が、すでに開いている。
泥棒か、と一瞬だけ思考が警報を鳴らしたが、直樹はすぐにその考えを打ち消した。このボロボロのアパートに盗むような金目のものなどない。
警戒しながらゆっくりとドアを押し開けると、玄関の狭い土間が、あり得ない光景に占拠されていた。
美しく磨き上げられたハイブランドのパンプス、洗練されたデザインのピンヒール、高級な革のブーツ。本来ならば、都心の超高級タワーマンションや一流ホテルのエントランスに並んでいるべき代物が、直樹の安物のスニーカーを端に追いやるようにして所狭しと並べられていた。
「……嘘だろ」
嫌な予感が全身の毛穴から噴き出した。
直樹はビニール袋を提げたまま、恐る恐る6畳間のリビングへと続く扉を開けた。
「おかえりなさい、ナオ」
完璧なスーツを着こなす黒髪の女性――島田幸子が、CEOとしての威厳を纏った声で、しかしどこか期待を込めた目で出迎えた。
狭い6畳間は、完全に人口密度を限界突破していた。
幸子だけではない。オリヴィア、イザベラ、エレアノラ。さらには制服姿の亜紀、ラフな私服姿の秀美、どこか所在なさげにクッションを抱える元子まで。
昨日、嵐のようにやって来て、そして嵐のように去っていったはずの女たちが、再びローテーブルを囲んでひしめき合っている。クーラーが稼働しているにもかかわらず、部屋の空気は彼女たちが放つ圧倒的な存在感と熱気でひどく重かった。
「……なんで、また全員いるんだ。それに、鍵は」
直樹が呆然と尋ねると、エレアノラが妖艶な笑みを浮かべて指先で髪を弄った。
「うちの部下に開けさせたのよ。こんな年代物の鍵、彼らにかかれば数秒だわ。心配しないで、後で最新のスマートロックの業者を手配しておくから」
「そういう問題じゃないんだが……」
直樹の抗議は、ローテーブルの中央に鎮座する『質量』によって完全に遮られた。
昨日彼女たちが持ち帰ったはずの、いや、それぞれの専門家がさらに徹底的にブラッシュアップし、分厚さを増したであろう契約書の束が、明確な主張を持って積み上げられていたのだ。
「昨日も言ったはずよ」
幸子が、テーブルの上の書類を軽く指先で叩いた。
「私の新規事業開発室の統括マネージャーとして迎えたいと。環境作りのための経費はすべて会社で持つわ」
「待ちなさい。まずは法的な保護が先決よ。この特別パラリーガル契約のドラフトに、早くサインを」
オリヴィアが氷のように冷たい声で幸子を牽制し、自分の書類を前に押し出す。
「二人とも堅苦しいのよ。ナオ、うちの財団に来なさいって昨日も言ったでしょ? 健康管理こそすべての基本よ」
イザベラが褐色の肌を誇示するように身を乗り出す。
「さあ、ナオ。白紙の小切手、早く好きな数字を書きなさいな。私の専属シェフのほうがいいに決まってるわ」
エレアノラも負けじと声を上げる。
一歩も引かない女たちの熱量。
狭い部屋の中で交錯する、日本、いや世界のトップに君臨する権力者たちの思惑。
そして、目の前に提示された、ゼロの桁が多すぎる金額と、一方的すぎる『庇護』の条件の数々。
(……処理不能)
直樹の脳内で、キャパシティを遥かに超えた情報がオーバーフローを起こした。
昨日の出来事は、一晩寝れば消える夢や幻ではなかった。むしろ、彼女たちは一晩の冷却期間を置いたことで、より強固な意志を持ってこの狭いアパートに戻ってきたのだ。逃げ場のない現実が、そこにあった。
32歳の一般人である直樹の常識的な思考回路は、その非現実的な質量の前に完全に焼き切れてしまった。
沈黙が、6畳間に重くのしかかる。
女たちも、直樹がどういう決断を下すのか、緊張の面持ちで見守っていた。
数十秒のフリーズの後。
直樹の口から紡ぎ出されたのは、彼女たちの誰もが予想しなかった言葉だった。
「……えっと、とりあえずお茶、淹れるか……」
「え?」
「さっきまでコーヒー飲んでたみたいだし、次は温かいほうじ茶にするか。カフェインも少ないしな。……あと、クーラー寒くないか? 風向き変えるぞ。膝掛け、一つしか無いが使うか」
それは、長年のブラック企業生活で骨の髄まで染み付いた、直樹の生存本能だった。
処理できない巨大な問題に直面した際、直樹は無意識に「とりあえず目の前の小さなタスクを完璧にこなして場を持たせる」という防衛行動をとる癖があった。そしてその生来の面倒見の良さとホスピタリティが、この極限状態で見事に発動してしまったのだ。
直樹はペットショップの袋を床に置き、何事もなかったかのように流し台へ向かうと、やかんに火をかけた。戸棚から急須と茶葉を取り出し、手際よく準備を始める。
そのあまりにも的外れで、しかしあまりにも彼らしい行動に、権力者である女たちは見事に毒気を抜かれ、顔を見合わせた。
「……本当に、マイペースな男ね」
イザベラが呆れたように息を吐き、肩の力を抜いた。
直樹がキッチンでほうじ茶の準備をしている間、張り詰めていた部屋の空気を完全に破壊する、もう一つの小さな存在が動き出した。
「きゅう」
直樹が置いたペットショップの袋の中から、器用に新しいロープのおもちゃを引っ張り出してきたチワワのこむぎが、タタタッと短い爪音を立ててフローリングを駆け出した。
こむぎが最初に向かったのは、幸子だった。
こむぎは幸子の座るローテーブルの前にちょこんと座ると、彼女の完璧にプレスされたハイブランドのスーツの裾を、小さな歯で甘噛みして軽く引っ張った。
「えっ……あ、こら、ダメよ」
普段なら絶対に他人に触れさせない高級生地だが、幸子は怒ることもできず、戸惑いながら手を伸ばした。こむぎは待ってましたとばかりに、その手に自分の小さな頭をぐりぐりと押し付ける。柔らかな淡い茶色の毛並みと、手のひらから伝わる確かな温もりに、幸子の鉄の仮面がホロリと崩れた。
次にこむぎは、ロープのおもちゃを咥えて元子のところへ向かった。
「ヴー」と愛らしい唸り声を上げながら、短い首を振ってロープをブンブンと振り回し、遊んでくれとアピールする。
「わっ、こむぎちゃん、元気だね! 引っ張り合いっこする?」
元子は政財界のフィクサーとしての重圧を完全に忘れ、20歳の少女の無邪気な顔でこむぎと遊び始めた。
ひとしきり遊んで満足したのか、こむぎは最後に、一番小柄な亜紀のところへトコトコと歩いていった。
あぐらをかいてタブレットを操作していた亜紀の足の隙間に、まるで自分のベッドを見つけたかのように迷いなく潜り込む。そのままあごを亜紀の太ももに乗せ、ふうと小さなため息をつくと、あっという間にスースーと寝息を立て始めた。
「……ちょっと、重いんだけど」
亜紀は口ではそう文句を言いつつも、こむぎを起こさないよう、足を1ミリも動かさないように全身を硬直させていた。その碧い瞳は、丸くなった毛玉を愛おしそうに見つめている。
シュンシュンとやかんが鳴り、直樹が火を止めた。
沸騰したお湯を一度湯呑みに注いで温度を少し下げてから、茶葉を入れた急須に注ぐ。数十秒じっくりと蒸らし、ほうじ茶特有の香ばしく甘い香りが十分に引き出されたところで、人数分の湯呑みに最後の一滴まで均等に注ぎ分けた。
「ほらよ。熱いから気をつけろ」
直樹はお盆に乗せた湯呑みを、彼女たちの前に一つずつ丁寧に置いていった。
焙煎された茶葉の深い香りが、6畳間の空気を優しく包み込む。
全員が湯呑みを両手で包み込むように持ち、ゆっくりと口へ運んだ。
「……美味しい」
古川秀美が、熱いお茶を喉の奥へ流し込みながら、ぽつりと呟いた。
高級料亭で出されるような計算し尽くされた味ではない。ただ、相手を落ち着かせようという純粋な気遣いだけで淹れられた、最適解の温度。それが、彼女たちの張り詰めていた神経を、内側からゆっくりと解きほぐしていく。
「……はぁ」
オリヴィアが、湯呑みを持ったまま深い安堵の息を吐き出した。
「何百億円のM&Aの交渉テーブルより、よっぽど疲れるわね、これ」
彼女はそう言いながら、無意識に右の首筋から肩甲骨にかけてを軽く抑え、首を回した。
直樹はその仕草を見逃さなかった。
彼は自分用の湯呑みを手に持ちながら、静かな声で言った。
「……あんた、また右肩庇ってるな。マウスの使いすぎか、長時間のデスクワークのせいか知らないが。ここ、VRじゃないから一瞬で治ったりしないぞ」
オリヴィアの肩が、ビクッと跳ねた。
あのVRの島で、初めて彼に出会った時と全く同じ指摘だった。彼女の目に見えない疲労を、彼は現実世界でも寸分違わず見抜いてみせたのだ。
「……ええ、分かってるわよ。でも、休む暇なんて……」
「風呂、沸かすか」
直樹は事もなげに言った。
「温泉じゃないし、ヒノキの香りもしないただの狭いユニットバスだが。……芯の凝りは、まずはしっかり温めないことにはどうにもならない。入浴剤ならあるぞ。柚子の香りのやつが」
その言葉に、オリヴィアの目が僅かに見開かれ、やがて、どうしようもないほど柔らかく細められた。
隣では、幸子も、イザベラも、皆一様に呆れたような、それでいて深い慈愛に満ちた笑みを浮かべている。
「……そうね。契約の話は、お風呂をいただいてからにしようかしら」
オリヴィアが湯呑みを置き、ふわりと微笑んだ。
窓の外では、夕暮れが近づき、初夏の少しぬるい風が網戸を揺らしていた。




