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限界社畜のVR開拓記〜クビになったらVIP客が元職場を滅ぼした〜  作者: 伊達ジン


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第39話 契約書と、昼下がりのビッグマック

 挽きたてのコーヒーの豊かな香りが、微かに醤油と肉の匂いが残る6畳間に満ちていく。


 杉本直樹は、キッチンに立ったままマグカップを片手に持ち、ローテーブルを囲んでくつろぐ女たちを静かに観察していた。


 金髪碧眼の少女は、ブラックコーヒーに躊躇いなくスティックシュガーを3本分投入し、スプーンでカチャカチャと騒がしい音を立てて混ぜている。その手つきは、どこかキーボードを乱打するような独特のリズムを刻んでいた。


 褐色肌の美しい女性は、熱いはずのコーヒーをジョッキのビールのように半分ほど一気に呷り、「ふぅっ」と長く満足げな息を吐き出して首を鳴らした。その堂々とした姿勢は、現実世界でも常に修羅場をくぐり抜けてきた者特有のものだ。


 エキゾチックな顔立ちの女性は、無意識に右の肩甲骨を回す仕草を見せた。それは、極度の緊張と長時間のデスクワークがもたらす、消えない疲労のサインだった。VRの世界でダークエルフの双剣士として駆け回っていた時の身軽さとは裏腹に、現実の彼女がどれほどの重圧を背負っているかが、そのわずかな動作から痛いほど伝わってくる。


 完璧なスーツを着こなす黒髪の女性は、カップの縁に口をつける直前、ふと安堵したように目尻を下げた。VRの世界で銀髪のエルフとして行き倒れていた時のやつれきった顔とは裏腹に、現実の彼女がどれほど圧倒的なオーラを背負う立場の人間であるかが、その隙のない立ち振る舞いから痛いほど伝わってくる。


「……なるほどな」


 直樹はマグカップに口をつけ、少しだけ温度の下がったコーヒーを飲み込みながら低く呟いた。


「アバターのガワを変えても、中身の癖や仕草までは隠しきれないってことか」


 その言葉が落ちた瞬間、6畳間の空気がピタリと止まった。


 マグカップを両手で包み込むように持っていた黒髪の女性が、ゆっくりと顔を上げる。


「……いつ、気付いたの?」

「玄関先で声を聞いた時だ。あの島で何度も聞いてる口調と、前に現実で会った時の記憶が繋がった」


 直樹が事もなげに言うと、黒髪の女性――いや、シルフィは、一瞬だけ虚を突かれたような顔をし、やがて小さく吹き出した。それに釣られるように、他の女たちも次々と肩の力を抜き、いつものVRリゾートで見せるような柔らかな笑みをこぼし始めた。


「なら、話は早いわ」


 シルフィこと島田幸子が、傍らに置いていたエルメスの鞄を開け、分厚いクリアファイルを取り出してローテーブルの上に滑らせた。中には、何枚にも及ぶ緻密な法的文書が収められている。


「グローバル・ネットワークス、新規事業開発室統括マネージャーの雇用契約書よ。完全フルリモートの裁量労働制。給与はあなたの前職の……とりあえず5倍からスタートでどうかしら。もちろん、愛犬の飼育環境への補助も会社の経費で手厚く保証するわ。専用のドッグランが付いた、セキュリティの完璧なタワーマンションの手配もすでに済んでいるの」


 その言葉を合図にしたかのように、女たちが一斉に動き出した。


「ちょっと、抜け駆けはずるいわよ。私だって徹夜でドラフトを引いたんだから」


 リヴィことオリヴィア・リードが、幸子の契約書の上に、さらに分厚い英文と和文が併記された書類を叩きつけた。


「私の事務所の特別パラリーガル枠。残業・休日出勤は一切なし、週休4日。あなたに不当なストレスを与えた場合、会社側に莫大な違約金が発生するペナルティ条項付きよ。法的な保護は完璧。私直属のアシスタントとして、美味しいコーヒーとご飯を作ってくれればそれでいいわ。ロンドンの裁判所への同行なら、ファーストクラスを用意するわよ」

「ナオ! わたしは財団の専属メンタルケア・栄養管理責任者のポストを用意したわ! 私の長時間のオペの前に、あのタコスを作ってくれるだけでいいの!」


 ベルことイザベラ・バルガスが、身を乗り出して捲し立てる。彼女の手には、世界的医療財団の理事長印がすでに押された分厚い契約書が握られていた。


「ねえナオ、私の家に来て。部屋はいくつでも余ってるし、キッチンはナオの好きなように最新の設備に入れ替えるわ。専属シェフになって。ずっと一緒にいられるよ?」


 モモこと桜井元子が、直樹のシャツの袖を引っ張って上目遣いで訴えかける。彼女の背後にある財閥の力を考えれば、それは単なる同棲の誘いではなく、日本の最高権力の中枢への招待に等しかった。


「私の専属シェフになって! 毎日、あの究極のパフェを作ってほしいの!」


 エミこと古川秀美が、大きなサングラスを完全に外して目を輝かせた。彼女の契約書には、トップインフルエンサーの専属という、文字通り桁違いの金額が提示されている。


「ナオ、私のところなら、あなたを煩わせる敵は物理的に全部消してあげるわよ。もちろん、破格の報酬と権力でね。ヨーロッパの裏社会でも、誰もあなたに指一本触れさせないわ」


 ノーラことエレアノラ・ホジャが、妖艶な笑みを浮かべて囁く。PMC総帥としての彼女の提案は、もはや国家元首クラスのVIP警護と生活保障を意味していた。


「……お兄ちゃん、私のハッキング技術のサポート役にならない? 政府の裏金、いくらでも引っ張ってこれるわよ。捕まらない自信はあるし、私が一生養ってあげる。最強のゲーミングPCも組み放題だよ」


 アリスこと水野亜紀が、しれっと犯罪まがいの提案を混ぜ込んでくる。


 あっという間に、6畳間の小さなローテーブルは、国家予算や世界的企業の決裁書類、それに準ずる莫大な価値を持った紙の束で完全に埋め尽くされた。


 視界の端では、こむぎが不思議そうに、うず高く積まれた契約書の山をクンクンと嗅いでいる。


★★★★★★★★★★★


 翌日の昼下がり。


 嵐のような女たちが去り、いつもの静寂を取り戻したアパートで、直樹はこむぎの散歩を終えて一息ついていた。


 昨夜の狂騒が嘘のように、部屋の中にはただ初夏の心地よい風が吹き込んでいるだけだ。ローテーブルの上に山となっていた莫大な価値の紙束は、一旦彼女たちが持ち帰る形となり、今はただ使い込まれた木目が広がっている。


 冷蔵庫を開けると、昨夜の牛丼の残りは当然のように消え失せ、卵が1個と調味料しか残っていない。


「……買い出しついでに、外で食うか」


 直樹はこむぎに留守番のボーロを与え、財布とスマートフォンだけをポケットに突っ込んでアパートを出た。


 初夏の風が心地よい。アスファルトの熱気はまだそれほど強くなく、吹き抜ける風には微かな緑の匂いが混じっていた。


 どこまでも高く澄み渡る青空を見上げながら、駅前の通りをのんびりと歩く。急ぐ理由はどこにもない。腕時計を気にする必要もなければ、ポケットのスマートフォンが振動するのを恐れる必要もない。かつての自分を縛り付けていた透明な鎖は、もう跡形もなく消え去っていた。


 ふと、見慣れた赤い看板を見上げて足を止めた。


 マクドナルド。


 社畜時代は、深夜に開いている数少ないエネルギー補給所として、味も分からずに流し込んでいた場所だ。あの頃は、モニターから目を離さずに片手で食べられるという理由だけでハンバーガーを選んでいた。睡眠不足で乾ききった口に押し込み、ただカロリーという数値を血中に叩き込むための、無機質な作業でしかなかった。


 直樹は自動ドアを抜け、涼しい店内に入ると、カウンターで注文を告げた。


「ビッグマックのバリューセット。ポテトのMと、飲み物はアイスティーで。氷は少なめでお願いします」


 窓際のカウンター席に座り、プラスチックのトレイに乗せられたビッグマックの紙箱を静かに開ける。


 蓋を開けた瞬間、ほんのりと甘いゴマ付きバンズの香りと、ピクルスの酸味、そしてビーフパティの香ばしい匂いが熱気と共に混ざり合って鼻を突いた。完璧な黄金色に焼き上げられたバンズには、白いゴマが均等に散らされている。


 直樹は両手でしっかりとハンバーガーの包みを掴み、三層のバンズがズレて中身がこぼれないように少しだけ顎を上げて、大きく口を開けてかぶりついた。


「……っ」


 ゆっくりと咀嚼しながら、直樹は目を閉じた。


 ふかふかの三層のバンズが、肉と野菜の食感をしっかりと受け止める。二枚のビーフパティの肉肉しい歯ごたえと、適度な塩気。シャキシャキとした刻みレタスのみずみずしさと冷たさが、パティの熱でとろりと溶け出したチェダーチーズのコクと口の中で交じり合う。そして、それらすべての異なる風味と食感を一つにまとめ上げるのが、酸味と甘味のバランスが絶妙な特製のオーロラソースだ。ピクルスの鋭い酸味が、濃厚な味の輪郭をくっきりと引き締めている。


 一口の中に、計算し尽くされたジャンクな旨味の暴力が詰まっている。


 自炊で丁寧に下ごしらえをし、繊細な火入れをした料理とは対極にある、大量生産の極致。だが、これはこれで一つの完成された「食」の形だ。数十年にわたって世界中の人間の胃袋を掴んできた、揺るぎないレシピの結晶。


 味覚が死んでいた社畜時代には決して感じ取れなかった、ジャンクフードの確かな美味さがそこにあった。肉の脂とソースの酸味が舌の上で混ざり合い、脳の報酬系をダイレクトに刺激してくる。


 直樹は無心でビッグマックを半分ほど食べ進め、アイスティーのストローに口をつけた。


 氷少なめで頼んだため、紅茶の香りが薄まらずにしっかりと残っている。シロップもミルクも入れないストレートのすっきりとした渋みが、口の中に残ったビーフの脂とチーズの濃厚さを綺麗に洗い流してくれた。


 リセットされた口に、揚げたてのポテトを数本まとめて放り込む。外はカリッと、中はホクホクとしたジャガイモの甘み。強めに振られた塩気が、再び食欲を刺激する。指先に残った塩を軽く舐め取り、再びハンバーガーにかぶりつく。その完璧なローテーションに、直樹は深い満足感を覚えた。


「……美味いな」


 ぽつりと呟いた言葉は、誰に聞かせるわけでもない。ただ、己の満たされた感覚を反芻するためのものだった。


 客席には、テスト勉強をする高校生や、談笑する主婦、ノートPCを広げて眉間に皺を寄せるビジネスマンがいる。


 数日前までなら、あのビジネスマンの張り詰めた焦燥感が痛いほど伝わってきて、自分の胃まで共鳴するように痛んでいただろう。「締め切りに間に合わない」「システムが落ちるかもしれない」「また部長の怒鳴り声が飛んでくる」。常に着信音の幻聴に怯え、見えない恐怖に追い立てられながらキーボードを叩き続ける彼の姿は、過去の直樹そのものだった。


 だが今の直樹には、それが透明なガラスの向こう側の、別世界の出来事のように感じられた。焦りも、不安も、胸を締め付けるようなプレッシャーも、もはや自分の内側には存在しない。あるのは、ただ目の前のビッグマックを心から美味いと感じられる、正常な味覚と確かな精神の平穏だけだ。


 ポテトをつまみながら、昨夜、ローテーブルを埋め尽くした契約書の束を思い出す。


 彼女たちの提示した条件のどれか一つを選べば、一生安泰な生活が約束されているのは間違いない。だが、あの強烈な個性を持つ女たちが、「誰か一人が直樹を独占する」という状況を大人しく受け入れるとは到底思えなかった。


 おそらく、誰か一人と契約を結べば、残りの連中が職権や財力を乱用して、VRリゾートだろうが現実だろうが、容赦なく押しかけてくる未来しか見えない。直樹の平穏なスローライフは、別の意味で波乱に満ちたものになるだろう。


「……まあ、焦る必要はないか」


 直樹は残りのビッグマックを口に放り込み、最後のアイスティーで喉の奥へと流し込んだ。


 今はただ、このチープで最高に美味い昼飯と、誰にも急かされることのないこの時間を味わえばいい。自分の人生の手綱は、今、確実に自分の手の中にあるのだから。


 空になった箱とカップをトレイに乗せ、直樹は席を立った。ゴミ箱に丁寧に分別して捨て、自動ドアを抜けて外に出る。


 眩しい初夏の陽射しが、アスファルトを白く輝かせていた。


「さて、こむぎの新しいおもちゃでも買って帰るか」


 ゆっくりと歩き出した直樹は、どこまでも高く広がる青空を見上げて、心地よさそうに目を細めた。初夏の陽射しは、これからの彼の新しい日常を祝福するように、街のすべてを鮮やかに照らし出していた。

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