第38話 摩天楼の女神たちと、6畳間の牛丼
夕刻。
西日が差し込む6畳間のキッチンで、杉本直樹は使い込まれた包丁をリズミカルに動かしていた。トントントン、という規則正しい音が、古びたアパートの静寂な空間に心地よく響き渡る。
無職になって数日。
連日の徹夜や理不尽なクレーム対応で、常に胃の腑に鉛を飲み込んだような重苦しさを抱えていた日々は、もう過去のものだ。時間と心に圧倒的な余裕ができたことで、直樹の自炊のクオリティは、あの地獄のようなシステムエンジニア時代とは比較にならないほど上がっていた。
時間に追われてPCのモニターを睨みながら流し込むだけのゼリー飲料や、味のしないコンビニ弁当とは完全に決別した。今は、スーパーで食材を吟味し、自らの手で『食』を組み立てるプロセスそのものが、直樹にとって何よりの精神的なリハビリであり、癒やしとなっていた。
今日の夕飯は牛丼だ。スーパーの特売で買った100グラム98円の安価な牛バラ肉だが、下処理と火入れ次第で極上の一杯になる。直樹はまず、肉の余分な脂と筋を丁寧に取り除き、食べやすい大きさに切り分けた。
フライパンに酒、みりん、醤油、それに少しのザラメを合わせて火にかけ、割り下を作る。アルコールが飛び、醤油の香ばしい匂いが立ち上ったところに、繊維に沿って薄切りにした玉ねぎを投入し、中火でじっくりと甘みを引き出していく。玉ねぎはあえて少し厚みを残し、食感を保つように計算している。
玉ねぎが半透明になり、クタッとしたところで、牛バラ肉を重ならないように1枚ずつ丁寧に広げ入れた。牛肉の脂身が割り下の醤油と反応し、ジュワッと心地よい音を立てる。
安い肉は煮込みすぎると途端に固くなり、旨味が抜けてパサパサになってしまう。肉の赤みがわずかに消え、割り下の色がサッと移った瞬間に火を止めるのが絶対のコツだ。余熱で火を通しつつ、仕上げにすりおろした生姜の搾り汁を数滴垂らす。すると、甘辛い醤油の匂いの中に、食欲をダイレクトに突き刺すような鮮烈な香りが爆発するように立ち上った。
コンロの隣では、小鍋で味噌汁が出番を待っている。
具材はシメジ、シイタケ、マイタケの3種類。包丁を使わず、あえて手で細かく裂くことで断面の表面積を増やし、香りを最大限に立たせている。これらを昆布出汁の中へ水から入れ、極弱火でじわじわと温度を上げていく。キノコ類は60度から70度の温度帯をゆっくり通過させることで、強烈な旨味成分であるグアニル酸が引き出されるのだ。水面が小さく揺れ、沸騰直前になった絶妙なタイミングで火を止め、合わせ味噌を静かに溶き入れる。お玉で軽くかき混ぜると、部屋中に山の豊かな香りが広がった。
最後に、冷蔵庫で冷やしておいたボウルを取り出す。
氷水に放ってシャキッとさせた水菜をざく切りにし、パプリカは極薄切りにして透けるほどの薄さに。そこにスプラウトを散らし、自家製のマヨネーズで和える。市販のものは使わず、新鮮な卵黄、米油、リンゴ酢をボウルで丁寧に乳化させ、少量の和芥子と粗挽きの黒胡椒で味を引き締めた特製ソースだ。ボウルの底を氷水で冷やしながら泡立て器で素早く混ぜ合わせることで、油の分離を防ぎ、滑らかでコクのあるマヨネーズに仕上がっている。
「よし、できた」
炊飯器の保温スイッチを切り、自分の分のどんぶりを出そうとした、その時だった。
――ヴゥォォン……。
網戸越しの窓の外から、不釣り合いな重低音が響いた。
直樹が暮らす築40年のアパートの前の路地は、軽自動車がすれ違うのがやっとの細く入り組んだ道だ。そこに、明らかに排気量の大きい、それでいて徹底的に静音化された複数のエンジン音が近づいてくる。
キュッ、とタイヤがアスファルトを擦る音が止み、続いて、分厚い金属のドアが開閉する重厚な音が連続して響いた。革靴が硬い地面を踏みしめる足音が、複数、確実にこのアパートの階段へ向かってくる。
「きゅう?」
ローテーブルの下で丸くなっていたチワワのこむぎが、見慣れない気配を感じ取って首を傾げた。吠えはしないが、小さな耳をピンと立てて玄関の方をじっと見つめている。
直樹はコンロの火をすべて落とし、包丁をシンクに置いてから、手ぬぐいで素早く手を拭いた。
足音は迷うことなく、直樹の部屋の前で止まった。
直樹は眉をひそめ、ドアノブに手をかける前に、そっと覗き穴から外を確認した。
そして、目の前の異様な光景に言葉を失った。
剥がれかけたペンキと錆びた手すりが並ぶ薄暗いアパートの廊下。そこには、映画のワンシーンのように完全武装した黒服の男たちが等間隔で立ち並び、周囲を鋭く警戒していた。そして、彼らに守られるようにして、およそこのボロアパートには存在してはいけない異質なオーラを放つ女たちが揃い踏みしていたのだ。
前の会社であるダークネス・システムズの社長や佐々井部長が、自暴自棄になって裏社会の人間を差し向けてきたのか?
いや、それにしては目の前に立つ女たちはあまりにも洗練されすぎている。
直樹は警戒するように目を細め、ドアチェーンをかけたまま、隙間からわずかに顔を覗かせた。
「……何の用だ」
低く、感情を抑えた声で問う。
先頭に立つのは、上質なテーラードスーツを隙なく着こなす女性。その隣には、同じく隙のないタイトスーツ姿で銀色の瞳を細める外国人の女性。
彼女たちの後ろには、深く帽子を被っているが隠しきれないオーラを放つ古川秀美と、機能的だが美しいシルエットのジャケットを羽織った褐色肌のイザベラ・バルガス。イザベラは狭い廊下を見回し、「本当にここに住んでるのね」と呆れたように呟いた。
さらに、制服にカーディガンを羽織ってタブレットを抱えた少女と、純白のワンピースの上に最高級のシルクのショールを羽織った桜井元子。そして、背後に完全武装の黒服たちを控えさせた、タイトなレザージャケット姿のエレアノラ・ホジャ。
日本の、いや世界の裏表の頂点に君臨する7人が、6畳一間のボロアパートの玄関先に立っていた。
「あなたのアパート、セキュリティがザルすぎるわ。エントランスの鍵すら壊れているじゃない」
先頭に立つスーツの女性が、洗面所の水垢でも見るような目で廊下を一瞥してから、直樹へ視線を戻した。現実の彼女の目は、世界的企業のCEOとしての冷徹な光を帯びていたが、直樹の顔を見た瞬間、ほんのわずかに安堵のような柔らかな温度が混ざった。
「入り口の警備は、私の部下たちで固めておいたわ。虫1匹通さないから安心なさい」
レザージャケットの女性が、背後の黒服たちに顎で合図をしながら妖艶に微笑む。
直樹は軽く眉を寄せた。深く帽子を被っている女が先日サンドイッチを分けた女優の秀美であり、褐色肌の女が暴漢から救ってくれた医療財団のイザベラ(ベル)であることは、瞬時に認識できた。さらに、先頭で呆れたように息を吐くスーツの女性は先日公園で言葉を交わした島田であり、その隣の銀色の瞳の女性も、以前カフェで肩のストレッチを教えた相手だ。そして、タブレットを抱えた制服姿の少女は、金曜の夜にファミレスでオムライスを食べていたあの生意気な迷子だった。
だが、住む世界が違うはずの彼女たちがなぜ一緒にいるのか。それに、先ほどから言葉を発している島田やレザージャケットの女性の声のトーン、言葉の選び方に、直樹は強烈な既視感を覚えていた。
このまま玄関先で押し問答を続ければ、間違いなく近所の騒ぎになる。物騒な黒服たちの姿に警察を呼ぶべきかとも迷ったが、知った顔が複数混ざっている以上、少なくとも直樹への明確な敵意や殺意による襲撃ではないだろうと判断した。
「……入れ。近所迷惑になる」
直樹は短く言い、身を引いてドアチェーンを外し、ドアを全開にした。
彼女たちは躊躇うことなく、狭い土間でルブタンやジミーチュウなどの高級なヒールを脱ぎ、ボロアパートのフローリングへと足を踏み入れた。
瞬く間に、6畳間が未知の人口密度と圧倒的なプレッシャーで満たされる。ハイブランドの上質な香水と、新品の衣服の匂いが、直樹の部屋の生活臭を完全に塗り潰していく。
しかし、彼女たちが部屋の中央のローテーブルを見た瞬間、その張り詰めた空気は一気に瓦解した。
「きゅうっ」
こむぎが短い尻尾を振りながら、1番手前にいた元子の足元へトテトテと駆け寄ったのだ。
「あっ、こむぎちゃん! 可愛い〜!」
現実世界では絶対に感情を表に出さない桜井財閥の最高権力者が、ワンピースの裾が乱れるのも構わずフローリングにしゃがみ込み、こむぎを抱き上げて頬擦りをした。
「ちょっとモモ、私にも触らせてよ。……ああっ、この手触り、本物のモフモフ……!」
秀美が帽子とサングラスを放り投げ、女優としての威厳をかなぐり捨ててこむぎの短い尻尾に顔を近づける。
突然の闖入者たちに警戒の糸を張り詰めていた直樹だったが、愛犬がまったく怯えることなく彼女たちに無防備に懐いている姿を見て、少しだけ肩の力を抜いた。
「……ねえ」
ふと、イザベラが鼻をひくつかせ、キッチンのコンロの方へ視線を向けた。
「この匂い……醤油と、出汁と、お肉……?」
彼女の言葉に、他の全員の動きがピタリと止まった。
甘辛く煮詰められた牛肉と玉ねぎの匂い。そして、3種のキノコが織りなす圧倒的な出汁の香りが、彼女たちの鼻腔を容赦なく直撃していた。
「夕飯を作っていたところだ。……多めに作ってあるが、食うか?」
直樹が振り返ってそう尋ねた瞬間。
「「「食べる」」」
一切の迷いのない、完璧に重なった声が6畳間に響いた。
直樹は短く息を吐き、食器棚から追加のどんぶりと椀を取り出した。当然ながら7人分などあるはずもなく、足りない分はマグカップや深めのタッパーで代用するしかない。
手早く炊飯器から熱々のご飯を盛り、鍋から牛肉と玉ねぎをバランス良く乗せ、最後に旨味が溶け出した割り下をひと回しかける。キノコの味噌汁を椀に注ぎ、マヨネーズサラダを小鉢に取り分ける。長年の自炊と、プロジェクトの空き時間に雑務を片付ける癖が染み付いた、迷いのない手つきで次々と配膳していく。
数分後、狭いローテーブルの周りに窮屈そうに座った超大物たちの前に、湯気を立てる牛丼定食が並べられた。
「いただきます」
オリヴィアが、普段の法廷での冷徹な表情からは想像もつかないほど真剣な顔で割り箸を割り、まずは味噌汁に口をつけた。
「……っ」
瞬間、彼女は驚きに目を見張った。水からじっくりと引き出されたキノコの暴力的な旨味が、疲労した脳の報酬系を直接殴りつけてくる。
幸子は牛丼の肉と玉ねぎをご飯と共に口に運んでいた。絶妙な火入れによって柔らかさを保った牛肉と、シャキシャキ感を残した甘い玉ねぎ。それが染み込んだ熱々のご飯が口の中で一体となった時、彼女の肩からスッと余計な力が抜けた。
「……美味しい」
幸子の口から、感嘆の吐息が漏れる。
「このマヨネーズ、手作りね……。酸味がまろやかで、野菜の味がすごく引き立ってる……」
秀美がサラダを口に運びながら、うっとりとした目で呟く。
イザベラは、牛丼の肉を1枚口に運ぶなり目を閉じて深く息をつき、元子は小さな口を一生懸命に動かして幸せそうに咀嚼している。
その後は、誰も言葉を発しなかった。
スプーンを手にした亜紀も、ノーラも、一心不乱にどんぶりと向き合っていた。
カチャカチャという食器の触れ合う音と、微かな咀嚼音だけが、静かな6畳間に響き続ける。誰もが、目の前のどんぶりに盛られた温かな料理に全神経を集中させていた。
5分後。
全員のどんぶりと椀が、綺麗に空になった。
「……ふぅ」
直樹は立ち上がり、手早く食器を流しへ下げた。
それから、ヤカンで湯を沸かし、戸棚からコーヒーミルを取り出して豆を挽き始める。ガリガリという心地よい音が、満腹になって弛緩した空気の中に静かに響く。
ドリッパーにペーパーフィルターをセットし、挽きたての粉を入れる。沸騰したお湯を少し冷まし、細い湯柱で中心から円を描くようにゆっくりと注いでいく。粉がふわりとハンバーグのように膨らみ、豊かな焙煎の香りが部屋いっぱいに立ち上った。
丁寧にハンドドリップで淹れたコーヒーを、マグカップや紙コップに注いで彼女たちの前に置いた。
直樹はコーヒーミルを片付けながら、背後で愛犬と戯れる女たちの様子を静かに観察していた。
服装も年齢もバラバラ。しかし、全員が並々ならぬ権力や財力を持っていることだけは、その立ち振る舞いや身につけているものから容易に推測できる。そんな彼女たちが、なぜこんなしがない無職のボロアパートに押し掛け、自分が作った牛丼を夢中で掻き込んでいるのか。
香ばしい匂いが漂う中、直樹は自分もマグカップを持ち、ローテーブルの空いたスペースに腰を下ろした。
コーヒーを一口飲み、その苦味と仄かな酸味で頭の中をクリアにする。
それから、直樹はカップをテーブルに置き、目の前に座る7人の顔をゆっくりと見回した。
誰もが、食後のコーヒーを味わいながら、まるで自分の家のように寛いだ表情を浮かべている。
「……で」
直樹の低く落ち着いた声が、部屋の空気をわずかに引き締めた。
「ただ飯を食いに来たわけじゃないんだろ」
直樹の言葉に、彼女たちは静かにコーヒーのカップを下ろした。
直樹はまず、帽子を脱いだ秀美と、隣に座るイザベラを見た。
「……エミとベル、それに島田さんと、カフェで会ったあんた。さらに、そこのオムライスの迷子がいることは分かった。だが……」
直樹は、先ほど玄関先で自分に声をかけた島田と、妖艶に微笑んだレザージャケットの女性の顔をじっと見つめた。
その声のトーン、言葉の選び方。部屋に入ってきた時から微かに漂っていた、香木にも似た上質な香水の匂いや、南国の花のような甘い香り。さらに、制服姿の少女が生意気な瞳でこちらを見つめる仕草や、純白のワンピースを着た女性の無邪気な笑顔。
ファミレスでオムライスを食べる姿を見た時、直樹はすでにこの少女が誰かに似ていると直感していた。
現実世界で出会った顔触れと、VRの島で共に過ごした仲間たちの気配。
そのすべてが、結びつくはずのない一本の線として直樹の脳内でピタリと繋がっていく。
「……その声。もしかして、島田さんがシルフィか? こっちがリヴィで……お前が、アリス。なら、そっちの2人がモモとノーラか……?」
直樹が驚愕とともにその名前を口にすると、彼女たちは隠すこともなく、嬉しそうに微笑んだ。
ボロアパートの6畳間。コーヒーの香りが漂う中、限界を迎えかけていた元・社畜と、世界の頂点に立つ女神たちの、現実世界での本当の『対話』が、今まさに始まろうとしていた。




