第37話 終わる世界と、動き出す女神たち
グラスの中で、氷がカラリと涼しげな音を立てた。
杉本直樹は、琥珀色のもろみしぼり酢を冷水で割ったグラスを手に取り、ゆっくりと喉に流し込んだ。ツンとした刺激のない、まろやかで奥深い酸味が食道を通って胃に落ちる。じんわりとした温かさが腹の底から広がり、細胞の隅々にまでクエン酸が行き渡っていくのが分かった。
傍らの小鉢から、不揃いに割られた黒糖を一つ指でつまみ、口に放り込む。
純度の高い、サクッとした食感。その直後に広がる、素朴で濃厚なミネラルの甘さが、もろみ酢の酸味と舌の上で絶妙なバランスで溶け合い、えも言われぬ心地よい余韻を残した。
「……美味いな」
深く息を吐き出す。
開け放たれた窓からは、初夏の風が網戸越しに吹き込んでいる。つい数日前まで、この部屋の空気は常に淀み、自身の身体からはひたすら鉛のような疲労の臭いがしていた。それが今では、朝の光を眩しいと感じ、微かに土の匂いを孕んだ風を楽しむ余裕すらある。
足元では、直樹の膝に顎を乗せたチワワのこむぎが、気持ちよさそうに目を細めて寝息を立てていた。小さな心臓の鼓動が、薄手のズボン越しに確かな命の重みとして伝わってくる。
直樹は空いた手でスマートフォンを操作し、ネットバンキングのアプリを開いた。
画面に表示された口座の残高を確認する。連日の泊まり込みと、使う暇すらなかったことで溜まっていた給与の額面。当面の生活費と、こむぎの餌代くらいは十分にある。
だが、あの会社——ダークネス・システムズが跡形もなく消え去った以上、自分は法的に無職の身だ。
失業保険の手続きなどが必要になるだろうが、会社そのものが物理的にも社会的にも更地になっている現状、離職票すら誰が発行するのか分からない。すんなりと手続きが進むかは怪しかった。
「そろそろ、再就職しないとな……」
直樹の口から、ぽつりと独り言がこぼれた。
★★★★★★★★★★★
夜。
VRMMO『Arcadia Second』の辺境の島。
波の音が静かに響くプライベートビーチには、いつものようにヒロインたちが集い、直樹が振る舞った夕食の余韻を楽しんでいた。
石で組まれたかまどの中では焚き火の炎がパチパチと爆ぜ、オレンジ色の光が、思い思いにくつろぐ彼女たちの美しい顔を柔らかく照らしている。
「明日から、少し日中のログイン時間が減るかもしれない」
その言葉が落ちた瞬間、賑やかだったビーチの空気がピタリと止まった。
巨大な綿花クッションに埋もれていたエミが、白い狐耳をピンと立てて身を乗り出す。
「えっ、どうして? ナオ、またあの酷い仕事に戻るの……?」
「いや。ニュースで見たかもしれないが、俺の勤めていた会社が潰れてな」
直樹は火箸を置き、立ち上がりながら小さく息を吐いた。
「無職になったから、明日から求人サイトでも見て、再就職先を探そうと思ってるんだ」
ヒロインたちの顔から、一瞬だけすべての表情が抜け落ちた。
「……そう。大変ね」
最初に声を発したのはシルフィだった。彼女は手にした木製のコップを見つめたまま、微かな震えすら見せずに声音をコントロールする。
「どんな仕事を探すつもりなの?」
「贅沢は言わないさ」
「週休二日で、定時で帰れるところ。あとはテレワークが主体で、こむぎと一緒にいられる時間が長い環境なら文句はない。もう、あんな死にかけるような働き方はご免だからな」
「……それだけ?」
アリスが、日傘を肩に掛けたまま、探るような視線を向けて聞いた。
「十分すぎるだろ。こむぎの飯代さえ稼げれば、多くは望まない」
直樹は事もなげに笑った。
ヒロインたちは互いに視線を交わすことはなかったが、その場にいる全員の脳内で、凄まじい速度の演算と決断が下されていた。
「そう……。ナオにぴったりの、いい会社が見つかるといいわね」
リヴィが銀色の瞳を細め、静かに微笑んだ。
★★★★★★★★★★★
翌朝。現実世界。
日本の、いや、世界の各所で、それぞれの頂点に立つ女たちが一斉に権力を発動させていた。
都心の超高層ビル。世界的IT企業、グローバル・ネットワークスの社長室。
島田幸子は、分厚いマホガニーのデスク越しに、呼び出した人事担当役員を冷徹な目で見据えていた。
「新規事業開発室の統括マネージャーポストを、本日付で新設しなさい。雇用形態はフルリモートの裁量労働制。給与テーブルは役員待遇からスタート。当然、ペットの同伴や飼育環境への補助も手厚くすること」
「しゃ、社長……突然そのようなポストを新設するなど、取締役会が……」
「私の決裁よ。文句がある役員は今すぐ私の部屋へ来させなさい。……ええ、候補者はすでに決まっているわ。彼以外にこの席はあり得ない」
外資系トップ法律事務所。
オリヴィア・リードは、夜明け前の薄暗いオフィスで、タブレット端末に向かって猛烈な勢いでタイピングを続けていた。
画面に構築されていくのは、労働基準法を極限まで労働者側に有利に解釈した、完璧な雇用契約書のドラフトだ。
「違約金なし、残業・休日出勤の全面禁止、不当なストレスを与えた場合の会社側の莫大なペナルティ……ええ、完璧ね。パラリーガルの特別枠として、彼を法的に完全に保護しつつ、私の直属に置くわ」
世界的医療財団の緊急理事会。
イザベラ・バルガスは、並み居る老獪な重鎮たちを前に、一切の反論を許さない声で言い放った。
「私のオペの成功率と精神的パフォーマンスを維持するために、専属のメンタルケア・マネージャーを雇用します。これは財団の存亡に関わる必要不可欠な医療経費よ。否決するなら、次のVIPの心臓手術、あなたたちで執刀医を探してちょうだい」
ヨーロッパ。PMC『ブラック・オニキス』の作戦指令室。
エレアノラ・ホジャは、暗号化された通信回線越しに極東支部の幹部に命じていた。
「極東支部の後方支援統括の席を空けなさい。危険な任務は一切なし。完全に安全で快適なオフィスを用意して。彼の身辺警護には、最高ランクの部隊を影として貼り付けること。もし彼に指一本でも触れる馬鹿がいれば、組織ごと海に沈めなさい」
都内の高級撮影スタジオ。
古川秀美は、撮影前のメイク室でマネージャーと所属事務所の社長を前に、サングラスを外して静かに告げた。
「私、専属のパーソナルケアスタッフを雇うわ。食事の管理からスケジュールの調整まで、すべて彼に任せる。私のマンションの隣の部屋、今日中に買い取って空けておいてね。条件は私が直接決めるから」
桜井財閥の本邸。
美しい庭園を望む縁側で、桜井元子は、格式高い重厚な着物に身を包んだまま、庭石から一切の視線を外さずに、感情の抜け落ちた声で傍らの側近に命じた。
「……私の資産で、一つ会社を立ち上げなさい。彼が望む、最も安全で平穏な環境を整え、代表の席を空けておくように。遅れは許しません」
そして、暗い自室のモニター群に囲まれた水野亜紀は。
無数のコードが滝のように流れる画面を前に、彼女は冷たい碧い瞳を細め、エンターキーを静かに叩いた。
「検索エンジンのアルゴリズム、書き換え完了。求人サイトのデータベースへのルーティングもすべて私のサーバーを経由させたわ」
亜紀は、傍らに置かれたクマのぬいぐるみを抱き寄せ、くすりと笑う。
「これで、お兄ちゃんがどんな条件で検索ボタンを押しても、表示されるのは私たちが用意した『ラブレター』だけ。……さあ、お兄ちゃん。誰の箱庭を選ぶ?」
限界社畜の新たな就職活動。
彼が検索エンジンの入力欄に触れるよりも前に、世界最高峰の包囲網が、すでに敷かれていた。




