第36話 完全スルーのニュースと、雪村蕎麦の香り
休日の昼下がり。
網戸越しに吹き込む初夏の風は、ほんのりと土と草の匂いを孕んだ湿気を帯びていた。アパートの前の路地を通り過ぎる自転車のブレーキ音や、どこかの家で回っている室外機の低いモーター音が、のどかな環境音として6畳間の淀んだ空気を緩やかに循環させている。
深く息を吸い込むと、肺の奥まで淀みなく空気が入り込む。慢性的な睡眠不足で常に視界の端が霞み、頭痛が絶えなかった頃とは違い、今の直樹の目には、部屋のフローリングに落ちる四角い陽だまりの輪郭すらくっきりと見えていた。
杉本直樹は狭いキッチンスペースに立ち、使い込まれた大きなアルミ鍋にたっぷりと水を張ってコンロの火にかけていた。青い炎が鍋底を舐め、少しずつ水温が上がっていく微かな音が聞こえる。
背後のリビングからは、付けっぱなしにしているテレビの、昼のワイドショーの音声が流れていた。
『――続いてのニュースです。警視庁捜査二課は本日未明、都内のIT企業「ダークネス・システムズ」の社長、権田容疑者と、同社部長の佐々井容疑者ら数名を、業務上横領、法人税法違反、ならびに労働基準法違反などの疑いで逮捕しました』
直樹はまな板の上に長ネギを乗せ、包丁の刃を当てながら、その無機質なアナウンスをただの環境音の一部として聞き流していた。
トントントントン、と軽快な音が響く。力を入れず、包丁の重みだけでスライドさせるように切り進めると、薄く、均一な小口切りになったネギがまな板の上に並んでいく。ネギ特有の青々としたツンとした香りが、キッチンにふわりと広がった。
テレビの中では、キャスターが神妙な面持ちで、しかしどこかセンセーショナルな響きを帯びた声で言葉を続けている。
『同社を巡っては、先日から劣悪な労働環境や、下請け企業への不当な減額強要などがSNS上で告発され、炎上状態となっていました。警察の調べによると、権田容疑者らは数年前から架空の外注費を計上し、数億円の裏金を海外のダミー口座に不正送金していた疑いが持たれており……また、内部告発者から提供された完全なデータにより、常軌を逸した長時間労働の実態も明らかになっています』
画面には、ブルーシートを被せられた状態でパトカーに押し込まれる恰幅の良い男と、うつむいて顔を隠すスーツ姿の男の映像が映し出されているのだろう。
直樹は冷蔵庫からよく冷えためんつゆを取り出しながら、画面の方を一度も振り返らなかった。手元のネギの薄さと、包丁のリズムにだけ意識を向けている。
「……へえ。あの会社、潰れたんだ」
直樹の口からこぼれたのは、まるで遠い国の天気予報でも聞いたかのような、一切の感情が乗らない淡白な呟きだった。
数週間前まで命を削って働かされていた環境だが、今の直樹の心には、彼らに対する怒りも、恨みも、ましてや「ざまぁみろ」というような安っぽい優越感すら湧き上がってこなかった。
(まあ、俺にはもう関係ないか)
彼らがどんな罪に問われ、どんな結末を迎えようと、今の直樹の生活を脅かすものではない。あの狂った歯車の中から抜け出した時点で、彼の中でダークネス・システムズという存在は、すでに「過去のどうでもいいバグ」として処理されていた。
足元で、「きゅうっ」と自己主張の強い鳴き声がした。
見下ろすと、チワワのこむぎが、短い尻尾を嬉しそうに左右へ揺らしながら、きらきらとした期待の眼差しを向けている。直樹が落とすかもしれない食材の欠片を待っているらしい。フローリングにちょこんと座る小さな体温が、足首に心地よく触れた。
「こむぎ、ネギは犬には毒だ。お前には俺が食い終わった後にササミのおやつをやるから、少し待ってろ」
直樹が足先で軽くこむぎの腹を撫でてやると、こむぎは不満そうに「ぶふっ」と鼻を鳴らし、リビングのローテーブルの下に敷かれた冷たいラグの上に戻って、丸くなった。
鍋の湯が、ボコボコと勢いよく沸騰し始めた。
直樹はまな板の上のネギを小鉢に移し、次に本わさびとサメ皮のおろし器を取り出した。
今日のために少し奮発して取り寄せた信州の『雪村蕎麦』。その繊細な香りを最大限に楽しむためには、チューブのわさびではどうしても不十分だった。
「の」の字を書くように、ゆっくりと円を描きながらわさびをすりおろしていく。力を入れず、空気を含ませるように優しくすりおろすことで、細胞が壊れ、辛味だけでなく爽やかな甘みと香りが引き出される。ツンとした、それでいて清涼な香りが、キッチンにふわりと広がった。
「よし、こんなもんか」
直樹はタイマーを2分にセットし、木箱から生蕎麦を取り出した。
手に取っただけでわかる、しっとりとした重みと、かすかに香る蕎麦粉の芳醇な匂い。
打ち粉を軽く払い、沸騰した大鍋の中にパラパラと散らすように入れる。熱湯の中で麺がくっつかないよう、菜箸で静かにかき混ぜて蕎麦を湯の中で泳がせると、すぐに白い泡が鍋の縁に向かって盛り上がってきた。
吹きこぼれる直前で火を少し弱め、湯の対流に任せて茹でていく。
茹で汁の微かなとろみと、蕎麦の素朴で香ばしい香りが、湯気と共に立ち上る。
タイマーが鳴ると同時に、直樹はザルにあけて手早く湯切りをした。
すぐさまボウルに張った流水にさらし、表面のぬめりを優しく揉み洗いするように落としていく。指先に伝わる麺の感触が、最初はぬるっとしていたものから、次第にキュッと引き締まったものに変わっていく。
最後に、あらかじめ用意しておいた氷水の中にザルごと沈め、数秒だけ一気に冷やし締めた。
「……完璧だな」
水気をしっかりと切り、竹ざるにふんわりと高さを出して盛り付ける。
瑞々しい光沢を放つ蕎麦の隣に、刻んだネギ、すりおろした本わさび、そして濃いめのつゆを張った猪口を添えて、一人用のダイニングテーブルに運んだ。
「いただきます」
直樹は椅子に腰を下ろし、割り箸を割った。
テレビのニュースは、すでに次の話題――どこかの動物園で生まれた希少動物の赤ちゃんの特集に移っている。平和なものだ。
まずは、つゆをつけず、蕎麦だけを数本箸でつまみ、口へ運ぶ。
唇を滑る、滑らかな舌触り。噛み締めた瞬間に、細い麺の中から力強い蕎麦の香りと、ほんのりとした穀物の甘みが口いっぱいに広がった。氷水で徹底的に締めたことで、コシの強さと歯切れの良さも申し分ない。
「……最高だな」
直樹は静かに息をついた。
次につゆだ。鰹の出汁がしっかりと効き、醤油の角が取れたまろやかな「かえし」の風味。蕎麦の下半分ほどをそのつゆに浸し、一気にすする。
ズズッ、という心地よい音。
出汁の旨味と蕎麦の香りが口の中で見事に調和し、鼻腔を抜けていく。乾麺では絶対に味わえない、生蕎麦特有の風味の強さだ。
直樹は箸を休めることなく、今度は蕎麦に少量のわさびを直接乗せ、再びつゆに浸してすすった。わさびを先につゆに溶かしてしまうと、香りが飛んでしまう。蕎麦に乗せることで、わさびのツンとした爽やかな辛味が先に来て、その直後につゆの甘みと出汁の香りが追いかけてくる。味がキリッと引き締まり、全く別の表情を見せた。
合間にネギのシャキシャキとした食感を挟むと、最後まで箸が止まることはなかった。
平日の昼間なら、モニターのコードから目を離さず、デスクの引き出しに備蓄した栄養補助食品を義務のようにかじっていたはずの時間だ。
それが今は、休日の柔らかな日差しを浴びながら、自分のために手間をかけて作った美味しい蕎麦をゆっくりと味わっている。
胃の腑に落ちていく冷たい蕎麦の感触と鰹出汁の香りが、確かな心地よい満足感を与えてくれた。
あっという間にざるを空にした直樹は、残ったつゆに、とろみのある熱々の蕎麦湯を注いだ。
白濁した湯が加わることで、鰹出汁の香りが再びふわりと立ち上る。
湯呑み代わりに猪口を両手で包み込み、ゆっくりとすする。じんわりとした温かさが食道を通って胃へと落ちていくと、全身に熱が回っていくのがわかった。
「ごちそうさま」
直樹は猪口を置き、席を立った。
手早く食器を洗い、布巾で水気を拭き取って棚に片付ける。
その音を聞きつけたのか、ローテーブルの下で丸くなっていたこむぎがタタタッと駆け寄ってきた。「約束、忘れてないよね?」と言わんばかりに、直樹の足首に鼻先を押し付けてくる。
「分かってる。待たせたな」
直樹は冷蔵庫から犬用の国産鶏ササミを取り出し、小さな手鍋で茹で始めた。味付けは一切しないが、お湯の中で火が通るにつれて肉の良い匂いが立ち上り、足元でお座りをして待つこむぎの短い尻尾の動きがさらに激しくなる。
茹で上がったササミを冷水でさっと冷まし、食べやすいように細かく裂いて専用の皿に乗せてやった。
「よし、食っていいぞ」
こむぎは勢いよく皿に顔を突っ込み、あっという間にササミを平らげてしまった。満足そうに口の周りをペロペロと舐め、直樹の足に一度だけ体を擦り付けると、再びラグの上に戻ってまどろみ始めた。腹が満たされたことで、本格的な昼寝に入るらしい。
こむぎが静かに目を閉じたのを見届け、直樹は窓の外の青空を見上げた。
(そういえば……)
ふと、VR世界での生活が頭をよぎる。
昨晩ログアウトする前、畑の一角に植えたトマトの苗が、そろそろ収穫の時期を迎えているはずだ。
太陽の光をたっぷりと浴びて真っ赤に熟した、仮想空間のトマト。
それを氷水でキンキンに冷やして丸かじりするのもいいし、モッツァレラチーズとバジルを合わせてカプレーゼにするのもいい。あるいは、ニンニクと一緒にじっくりと煮込んで、濃厚なトマトソースのパスタを作るのも悪くない。
『ナオ〜、お腹すいた〜。今日のご飯は何?』
『私、あの赤いお肉が食べたいわ』
『また魚介のソテーをお願いできるかしら』
『アミーゴ! もっと強い酒とスパイスの効いたやつを頼む!』
ヒロインたちの、少し我が儘で、それでいて心から直樹の料理を楽しみにしている賑やかな声が、脳裏に蘇る。
「……エミのやつ、絶対トマト丸かじりしようとするだろうな。モモは甘いパスタがいいって言いそうだ。リヴィは冷製スープあたりを好むか」
自然と口角が上がっていた。
現実の会社がどうなろうと、彼には関係ない。
だが、あの仮想空間の島で待っている彼女たちの胃袋を満たすことは、今の直樹にとって、何よりも優先すべき重要な、そして最高にやりがいのあるタスクだった。
こむぎを起こさないよう、足音を立てずにベッドへと向かい、サイドテーブルに置かれた黒いVRヘッドギアを手に取った。
「さて、と。トマトの収穫に行くか」
ヘッドギアを被り、ベッドに横たわる。
目を閉じると、微かな電子音と共に、意識が現実の重力から解き放たれていく。
向かう先は、彼と彼女たちだけの、あの温かく賑やかな海辺のリゾートだ。
『――Arcadia Secondへようこそ』
システムの優しい音声が脳内に響き、直樹の視界は、眩しい太陽とコバルトブルーの海が広がる世界へと切り替わっていった。




