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限界社畜のVR開拓記〜クビになったらVIP客が元職場を滅ぼした〜  作者: 伊達ジン


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35/50

第35話 完全崩壊と、摩天楼の処方箋

 けたたましいサイレンの音が、夏のぬるい湿気を帯びた路地に反響していた。

 狭いアパートの前の道に、赤色灯を明滅させながら数台のパトカーと覆面車両が滑り込んでくる。


 降りてきた警視庁捜査二課の刑事たちは、冷たいアスファルトの上で無様に転がっている二人の男を見下ろした。

 突如飛来した医療財団のヘリのダウンウォッシュに煽られ、黒服たちによって完全に制圧された彼らは、もはや抵抗する気力すら残っていなかった。


「権田社長、佐々井部長ですね。業務上横領、悪質な脱税、および労働基準法違反の容疑で同行願います」


 ベテランの刑事が、事務的な、それでいて絶対的な冷たさを孕んだ声で告げる。

 黒服の一人に顎を蹴り上げられて気絶していた佐々井は、両脇を抱えられるようにして引きずり起こされ、焦点の定まらない目でうわ言のように何かを呟いている。失禁したまま地面に這いつくばっていた権田は、手錠の冷たい金属音を聞いた瞬間、ビクッと肩を震わせ、そのまま項垂れた。


 アリスが警察庁のサーバーへ直接叩き込んだ、彼らの余罪のすべてを証明する完全な生データ。そして、シンガポールのダミー会社名義の隠し口座の凍結と、裏社会への不正送金の記録。

 どんな優秀な弁護士を雇おうとも絶対に覆せない、致死量の証拠がすでに揃っていた。会社の資産は完全に凍結され、逃亡資金も消滅した。彼らを待っているのは、長きにわたる実刑判決と、出所後も一生かかっても返しきれない莫大な損害賠償だけだ。


 パトカーのドアが乱暴に閉められ、赤色灯がゆっくりと遠ざかっていく。


 古びたアパートの2階。窓からその一部始終を静かに見下ろしていた直樹は、サイレンの音が完全に聞こえなくなってから、小さく息を吐いた。


「きゅう?」


 足元で、こむぎが不思議そうに首を傾げている。


「いや。もう大丈夫だ。終わったよ」


 直樹はしゃがみ込み、こむぎの柔らかな頭を撫でた。窓の外の空は、いつの間にか厚い雲が晴れ、眩しい初夏の陽光が差し込み始めていた。


★★★★★★★★★★★


 それから、数日の時が流れた。


 ダークネス・システムズの社長と幹部が逮捕されたというニュースは、経済面の片隅と、ネットニュースの一部で報じられた。直樹のスマートフォンにも、かつての同僚や取引先からいくつかのメッセージが届いていたが、彼はそれらを一瞥しただけで、特に返信することなく画面を閉じた。

 もはや、彼にとってあの会社は完全に過去のものとなっていた。


 直樹の生活は、かつての狂気に満ちた社畜の日々が嘘のように、穏やかで静かなリズムを取り戻していた。

 朝はアラームに頼ることなく、こむぎが顔を舐めてくる感触で自然に目を覚ます。

 近所の公園まで散歩に出かけ、すれ違う同じ犬の飼い主たちと軽い挨拶を交わす。

 帰宅してからは、自分のため、そしてこむぎのための食事を時間をかけて用意する。


 今日の昼食は、牛すじの煮込みだった。

 社畜時代であれば、コンビニのゼリー飲料か、味のしないカロリーメイトで済ませていた時間帯。直樹はキッチンの前に立ち、弱火でコトコトと煮込まれる鍋の中身をじっと見つめていた。


 丁寧にアクを取り除き、生姜とネギの青い部分を加えて臭みを消す。下茹でした牛すじを一度洗い、大根やこんにゃくと共に、醤油、みりん、酒、砂糖でじっくりと味を含ませていく。

 焦げ付かないように時折かき混ぜながら、火の通り具合と味の染み込みを確かめる。何時間も火の番をしながら、ただ一つの料理と向き合う。その圧倒的に無駄で、しかし豊かな時間が、直樹のすり減っていた精神を深い部分から癒やしてくれていた。


「きゅうーん」


 足元から甘えたような声がする。見下ろすと、煮込みの甘辛い匂いに誘われたのか、こむぎが前足を直樹の膝にかけ、期待に満ちた目で見上げていた。


「お前には味が濃すぎる。こっちのササミを茹でてやるから待ってろ」


 直樹が苦笑しながら言うと、こむぎは短い尻尾をパタパタと振りながら、大人しくお座りをして待機した。


 VR世界でのリゾート開拓も、順調に進んでいた。

 シルフィやエミ、モモ、ノーラ、リヴィ、そしてアリス。彼女たちと過ごす時間は、直樹にとって単なるゲームの息抜きを超え、現実の生活にも確かな活力を与えていた。

 誰かの尻拭いや、終わりのないタスクの消化ではない。自分の手が作り出したもので、誰かが心底リラックスし、美味しそうに笑ってくれる。その事実が、直樹に「自分自身の価値」を取り戻させてくれていた。


 鍋の火を止め、味が染み込むのを待とうとしたその時、リビングのテーブルに置いていたスマートフォンが短く震えた。

 画面に表示された差出人の名前に、直樹は少しだけ目を丸くした。


『ドバイのオペ、完璧に終わったわ。今夜、東京に寄るから約束通り付き合って。18時に車を向かわせるから』


 簡潔で、しかし有無を言わせぬ強い意志を感じるメッセージ。

 イザベラ・バルガス――ベルからだった。

 あの日、直樹のアパートの前に降り立ち、そのままドバイでの重要患者の手術へと向かった彼女。無事に大役を果たし、帰国したのだろう。


「……18時か」


 直樹は壁掛け時計を見上げた。まだ数時間の余裕がある。

 直樹はエプロンを外し、クローゼットの奥からアイロンのかかったネイビーのスーツを取り出した。


★★★★★★★★★★★


 指定された時刻ぴったりに、アパートの前の細い路地に不釣り合いな黒塗りの高級ハイヤーが滑り込んできた。

 後部座席に乗り込むと、無口な運転手は何も尋ねることなく車を走らせた。


 向かった先は、都内の一等地に建つ超高級ホテルだった。

 重厚なエントランスの車寄せでドアが開かれ、直樹が降り立つ。大理石が敷き詰められた広大なロビーは、行き交う人々の服装も洗練されており、静かで格式高い空気が漂っていた。


 そのロビーの中央で、周囲の視線を一身に集めている女性がいた。

 完璧に仕立てられた深い真紅のイブニングドレス。情熱的でゴージャスなラテン系の美貌。彼女がただそこに立っているだけで、まるでそこだけが映画のワンシーンのように切り取られているかのようだった。


 イザベラ・バルガス。


 彼女はエントランスから入ってきた直樹の姿を認めると、周囲を威圧していた氷のようなオーラをふっと緩め、花が咲くような年相応の笑みを浮かべた。

 コツ、コツ、とヒールの音を響かせて直樹の前に歩み寄る。


「来てくれて嬉しいわ、ナオ」


 彼女から、南国の花のような甘い香水の香りが微かに漂った。


「……大役、お疲れ様。随分と派手な出迎えだな」


 直樹が苦笑交じりに言うと、イザベラは悪びれる様子もなく肩をすくめた。


「当然よ。私の一番大切なアミーゴをエスコートするんだもの。これでも控えめにしたつもりよ」


 彼女は自然な動作で直樹の右腕に自分の腕を絡めると、そのまま専用のエレベーターへと歩き出した。


 最上階のプライベートダイニング。

 一般の宿泊客には存在すら知らされていないその空間には、完璧に調整された空調の静かな息遣いだけが満ちていた。

 足元には、完全に夜の帳が下りた東京の摩天楼が、数え切れないほどの光の海となって広がっている。

 案内された窓際の特等席。テーブルの上には、クリスタルのグラスと銀色のカトラリーが美しく整頓されている。


「お口に合うといいのだけれど。ここのシェフは、私の財団のVIPたちが来日した時によく使わせているの」


 イザベラはワイングラスを軽く揺らしながら、微笑んだ。


 運ばれてきたのは、最高級の食材を惜しげもなく使ったフレンチのフルコースだった。

 アミューズから前菜、魚料理へと続き、やがて直樹の皿にメインディッシュが供された。トリュフの芳醇な香りを纏った、黒毛和牛のロティだ。

 直樹はナイフを入れ、一口分を口に運ぶ。

 完璧な温度管理による火入れ。外側は香ばしく、内側は美しいロゼ色を保っており、閉じ込められた肉汁が口の中で解けるように広がっていく。ソースの濃厚な旨味が、肉の脂の甘さを完璧に引き立てていた。


「美味いな。肉の旨味を引き出すソースのバランスが絶妙だ。火入れも1度の狂いもない」

「ナオにそう言ってもらえると、シェフも喜ぶわ。……でも」


 イザベラはグラスをテーブルに置き、窓の外の光の海へと視線を移した。


「私が本当に美味しいと思ったのは、あの島であなたが作ってくれた、塩とハーブだけの魚のソテーや、熱々のタコスよ」

「あれはゲームのシステム補正と、あんたが腹を空かせてたからだろ」

「違うわ」


 イザベラは首を横に振った。彼女の瞳の奥に、トップに立つ者だけが知る深い孤独の影が微かに揺れた。


「手術室にいる時、私はすべての命の責任を背負っているの。少しのミスが、患者の死に直結する。誰も私を助けてくれないし、代わりもいない。24時間、常に神経を張り詰めて、誰もが私に『完璧な結果』を求めてくる」


 彼女は自身の両手を見つめた。数多の命を救い、同時に数多の重圧に晒され続けてきた、外科医としての手。


「でも、あの島では違った。私がどれだけ我儘を言っても、ナオはただ黙って、私のために温かいご飯を作ってくれた。私を『世界的権威のイザベラ・バルガス』としてじゃなく、ただの迷子のプレイヤーとして扱ってくれた。……それが、どれだけ私の心を救ってくれたか、あなたには分からないでしょうね」


 イザベラの言葉には、飾り気のない本音が込められていた。

 直樹はナイフとフォークを静かに置き、目の前の女性を真っ直ぐに見返した。


「……俺も、同じだ」

「え?」

「俺も、つい先日までは、誰かの尻拭いと終わりのないタスクに忙殺されるだけの、ただの歯車だった。代わりはいくらでもいると言われながら、それでもシステムを止めないために命を削っていた」


 直樹は、手元の水の入ったグラスに触れた。


「だが、あの島で、あんたたちが美味そうに俺の飯を食ってくれた。俺が作ったもので、誰かが心底リラックスして笑ってくれた。……それが嬉しかったんだ。誰かの代わりじゃなく、俺自身がそこにいる意味をもらえた気がしたから」


 直樹の低い、けれど確かな温度を持った声が、ダイニングの静寂に溶けていく。

 イザベラは少しの間だけ目を見開き、やがて、花が咲くような柔らかで美しい笑みをこぼした。


「お互い様、というわけね」


 彼女はテーブル越しに手を伸ばし、直樹の手の上に自身の温かい手をそっと重ねた。

 外科医としての繊細な指先が、直樹の大きな手を包み込む。


「これからは、現実でもその場所を作っていきましょう。あの島だけじゃなく、ここでも。……私たちが、あなたを守るから」


 窓の外には、東京の摩天楼が光の海となって静かに広がっている。

 微かなグラスの触れ合う音だけが響くその空間で、二人の手が静かに重なり合っていた。

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