第34話 医療による保護と、小さな頑張り屋
初夏の強烈な陽射しが、アスファルトの熱をじわじわと押し上げ始めていた。空気にはべっとりとした湿気が混じり、息をするだけで肺が重くなるような不快な気候だ。
杉本直樹が暮らす築40年のボロアパートの前。剥がれかけた外壁のペンキと、無造作に置かれた室外機が並ぶその狭い路地に、足を引きずるようにして2人の男が姿を現した。
かつては高級な仕立てだったはずのオーダースーツは、泥と脂、それに乾いた汗でべっとりと汚れ、ネクタイは無残に引きちぎられている。オーダーメイドの革靴は傷だらけで、踵は無様に削れていた。血走った目と、一晩で落ちくぼんだ頬。ダークネス・システムズの権田社長と、佐々井部長だった。
「……ここだ。杉本の、住処は……」
佐々井の掠れた声は、極度の疲労と絶望でひどく震えていた。喉の渇きすら潤す余裕がないのか、唇はひび割れ、少しの言葉を発するだけで血が滲んでいる。
昨夜から今朝にかけて、彼らは文字通りの地獄を味わっていた。
羽田で手配していたはずの海外逃亡用のチャーター機は、空港に到着した瞬間に何らかの強力な圧力によってキャンセルされた。慌ててシンガポールのダミー会社名義の隠し口座から資金を引き出そうとしたが、スマートフォンのバンキングアプリには無慈悲にも残高ゼロの数字が表示され、直後にアカウントごと凍結された。頼みにしていた裏社会の荒事屋たちは完全に音信不通。それどころか、深夜の都内を逃げ回る道中、すれ違っただけのパトカーのサイレンにすら肝を冷やし、ゴミ箱の影に隠れて一晩中震える始末だった。
文字通り、日本中から逃げ場を完全に奪われた。
なぜ、たった数日で自分たちの帝国がここまで徹底的に破壊されたのか。その理由は1つしか思い当たらなかった。
会社の重要データを盗み出し、どこかの巨大な組織に売り渡した裏切り者。自分たちにすべての責任と負債をなすりつけ、のうのうと逃げおおせたあの男。
「……あの野郎だけは、絶対に許さん。俺たちを道連れにするなら、あいつにも、相応の報いを……」
佐々井の濁った目が、アパートの2階、一番奥にある直樹の部屋のドアを睨みつける。懐の奥には、逃走中にホームセンターで買ったばかりの文化包丁が隠されていた。金を引き出せなければ、せめて刺し違えてやる。その惨めで身勝手な狂気だけが、今の佐々井の重い両足を突き動かしていた。
権田もまた、荒い息を吐きながら佐々井の背後に立っていた。かつて社員を威圧していた威厳など欠片もなく、ただ怯えた目で周囲をキョロキョロと窺い、自分の肩を抱くようにして震えている。
2人は怨念を引きずるようにして、錆びついた外階段の1段目に足を掛けた。
その時だった。
空気を切り裂くような、重低音の轟音が周囲の建物を揺らした。
「……っ!? な、なんだ!?」
佐々井が顔を上げると、アパートのすぐ上空、わずか数十メートルの高さを、純白の巨大な機体が覆い尽くしていた。
流線型のボディに、医療と平和を象徴する世界的な財団のエンブレムが描かれた、VIP専用の大型双発ヘリコプターだ。
凄まじいダウンウォッシュが狭い路地に叩きつけられ、アパートの前に放置されていた空き缶やゴミ箱が弾かれたように吹き飛ぶ。突風に煽られた佐々井と権田は目を開けていられず、無様に腕で顔を覆ってその場に蹲った。
ヘリはアパートに隣接する月極駐車場のわずかな空きスペースを、精密機械のような操縦技術で捉え、周囲に砂埃を巻き上げながら着陸した。
それとほぼ同時に、路地の両端からサイレンを鳴らさずに滑り込んできた3台の黒塗りのSUVが、アパートへの退路を完全に塞ぐように急停車した。
「な、なんだお前ら……!」
車から降りてきたのは、ダークスーツに身を包んだ屈強な男たちだ。彼らは一切の感情を排した無機質な目で佐々井たちを見下ろすと、有無を言わさず2人の腕を捻り上げ、コンクリートの壁に力強く押し付けた。
「ぐあっ! 離せ! 何をする!」
「痛っ……や、やめろ……!」
男たちの拘束は、暴れる余地を一切与えない洗練されたプロの技術だった。佐々井が懐に隠し持っていた包丁が、あっけなくアスファルトに転がり落ち、乾いた高い音を立てた。
砂埃が収まりかけた頃、ヘリのドアが開き、タラップが下ろされた。
「……本当に、しつこい害虫ね」
ハイヒールがアスファルトを叩く硬質な音が響いた。
降り立ったのは、イザベラ・バルガスだった。
機能的でありながら最高級の仕立てであることが一目でわかるダークネイビーのパンツスーツに、純白のドクターコートを羽織っている。豊かな黒髪は吹き下ろしの風に揺れ、褐色肌に刻まれた深い意志を宿す瞳が、壁に押し付けられた2人の男を氷のように冷たく見下ろした。
「な、なんだお前は……! 杉本の差し金か!」
佐々井が首だけを捻って怒鳴るが、イザベラは彼と会話を交わす気など毛頭なかった。
「彼が先日、どれほどの心肺機能の低下と栄養失調で私の病院に運び込まれてきたか。少しのストレスが致命傷になりかねない状態だったのよ」
イザベラの声は低く、しかし路地の端まで響き渡るほどの圧倒的な重みがあった。
「ようやくバイタルが安定し、自宅での療養環境が整い始めたというのに。私の最重要患者に、二度と近づかないで」
イザベラが小さく顎をしゃくると、SPの1人が佐々井の鳩尾に無造作に拳を沈めた。
「がはっ……!」
佐々井は胃液を吐き出し、そのまま白目を剥いて意識を失った。権田は恐怖で完全に失禁し、抗議の声すら出せずにガタガタと震えている。
「彼らは警察に引き渡すわ。アリスが手配した警察車両がもうそこまで来ているはずよ」
イザベラが冷徹に指示を出した直後。
ガチャリ、とアパートの2階のドアが開いた。
「……なんだ。やけに騒がしいと思ったら」
階段の踊り場に姿を現したのは、杉本直樹だった。
洗いざらしの綿のシャツに、チノパンというラフな部屋着姿。彼の右腕には、突然の爆音にすっかり怯えきったチワワのこむぎが、シャツの生地を小さな爪で必死に掴みながら抱えられていた。
「ナオ!」
先ほどまでの冷酷な顔は瞬時に消え去り、イザベラはパァッと顔を輝かせて直樹を見上げた。
「ベルか。……どうしたんだ、そのヘリは。それに、下で倒れてるのは……」
直樹が目を細めて、SPたちに引きずられていく男たちの背中を見ようとしたが、イザベラはヒールを鳴らして階段を駆け上がり、直樹の視線を遮るように彼の前に立った。
「気にする必要はないわ。ただの、野良犬の駆除よ。それよりアミーゴ、顔色がすごく良くなったわね」
イザベラは直樹の顔を至近距離から覗き込み、軽く目尻を下げた。過労で死相が浮かんでいた数日前の顔とは別人のように、今の直樹の肌には健康的な血色が巡り、目には確かな活力が宿っている。目の下にべったりと張り付いていた赤黒い隈もすっかり薄くなっていた。
「ああ。おかげさまで、よく眠れてる。……で、往診にしては随分と大げさな乗り物で来たな。ここは戦場じゃないぞ」
直樹が苦笑交じりに言うと、イザベラは胸を張ってふふんと笑った。
「私のスケジュールは分刻みなの。移動に時間をかけていられないのよ。それに、今日は人間の診察だけじゃないの」
イザベラが視線を落とすと、直樹の腕の中でこむぎが「きゅう……」と不安げに鼻を鳴らした。
「この小さな家族の健康も、ナオの精神的な安定には不可欠でしょ。財団の系列から、腕利きの獣医を連れてきたわ。ワクチンの時期だって言ってたじゃない」
イザベラの言葉に合わせるように、ヘリの中から医療バッグを持った白衣の男性が小走りで近づいてきた。
「……わざわざすまないな。ちょうど、近所の動物病院を探そうとしていたところだったんだ」
直樹は少し驚きながらも、こむぎの頭を優しく撫でた。
「いいのよ。さあ、部屋に入れて」
数分後。直樹の6畳間のリビングで、簡易的な診察台代わりにされたローテーブルの上に、こむぎが乗せられていた。
獣医が医療バッグを開け、手際よく器具を準備し始める。カチャカチャという金属音と、微かなアルコールの匂いに反応したのか、こむぎは完全に尻尾を股の間に巻き込んだ。耳をぺたんと後ろに伏せて、助けを求めるように直樹の方をチラチラと見ている。
獣医が優しく声をかけながら聴診器を当て、目や耳の中を素早くチェックしていく。
「健康状態は非常に良好ですね。心音も問題ありません。では、混合ワクチンを打ちましょう」
獣医が注射器を取り出し、カチリと針をセットした瞬間だった。
「きゅんっ!?」
こむぎは注射器の嫌な気配を察知したのか、弾かれたようにローテーブルから逃げ出そうとした。
「おっと、こむぎ。ダメだぞ。すぐ終わるからな」
直樹が慌てて両手でこむぎの身体を優しく、しかししっかりとホールドする。こむぎは直樹の腕の中に顔を完全に埋め込み、見ないふりを決め込んだ。その小さな身体が、ブルブルと小刻みに震え、心臓が早鐘のように打っているのが手のひらを通して伝わってくる。
「力抜いて。大丈夫だからな」
直樹が背中を撫でて落ち着かせている間に、獣医が素早く首の後ろの皮膚をつまみ上げた。
チクリ。
「ひゃんっ!」
針が入った瞬間、こむぎが情けない悲鳴を上げた。直樹のシャツを小さな前足で必死に押し、まるで「ナオ、助けて!」と言わんばかりに抗議の声を上げる。
「はい、終わりましたよ。よく頑張りましたね」
獣医が注射器を引き抜き、アルコール綿で軽く揉むと、こむぎは嘘のように大人しくなった。だが、やはりショックだったのか、直樹の腕にしがみついたまま、恨めしそうな目で獣医の方をじっと見つめている。
「よしよし、偉かったな。頑張った」
直樹が頭から背中にかけてゆっくりと撫でてやると、こむぎは「きゅうぅ……」と甘えた声を出し、直樹の胸元にグリグリと顔を押し付けた。
その様子を横で見ていたイザベラが、ふっと柔らかく微笑んだ。
「本当に、いい子ね」
彼女はそっと手を伸ばし、こむぎの耳の後ろを優しく掻いてやった。こむぎは一瞬ビクッとしたが、イザベラの指の絶妙な力加減に、すぐに気持ちよさそうに目を細めた。
「……ありがとう、ベル。おかげで助かった」
直樹が礼を言うと、イザベラは少しだけ照れたように肩をすくめた。
「私の患者は、絶対に守る。それが私の流儀よ。……さ、私はもう戻らないと。3時間後には、ドバイで手術が控えてるの」
「相変わらず忙しいな。あまり無理はするなよ」
「ナオの作ったご飯を食べに帰る場所があるから、平気よ。じゃあね、アミーゴ」
イザベラは短くウィンクを残し、颯爽と部屋を出て行った。
窓の外で、再び重低音が響き、巨大な機体が空へと舞い上がっていく。ローターの音が遠ざかり、部屋の中には再び穏やかな静寂が戻ってきた。
「……さて。頑張ったご褒美に、今日は特別なおやつにするか」
直樹がこむぎを抱き上げたまま立ち上がると、こむぎは先ほどの注射のことなどすっかり忘れたように、短い尻尾をパタパタと振り始めた。
直樹は戸棚から、先日買っておいた国産鹿肉の無添加ジャーキーを取り出した。封を切った瞬間、野生味のある濃密な肉の香りが部屋に広がる。
その匂いに、こむぎの潤んだ黒い瞳が完全に釘付けになった。先ほどまでの怯えた様子はどこへやら、前足を直樹の膝にかけ、早く早く、と急かすように小さく足踏みをしている。
「よし、お座り。……お手」
直樹の差し出した手のひらに、小さな前足がちょこんと乗せられる。温かい体温が伝わってくるその感触を確かめながら、直樹はジャーキーをこむぎの口元に運んだ。
こむぎは嬉しそうに目を細め、サクサクといい音を立ててジャーキーを頬張っていく。
開け放たれた窓から、初夏の心地よい風が吹き込んできた。
直樹はコーヒーメーカーのスイッチを入れながら、今夜の夕飯の献立に思いを馳せていた。




