第33話 国家権力のトドメと、木漏れ日のサンドイッチ
深夜の都心。ダークネス・システムズが入居していたビルの地下駐車場。
上の階のオフィスは、数時間前に謎の武装集団によって物理的に破壊され尽くした。サーバーも、PCも、デスクも、すべてが原型を留めない更地へと変貌し、これまでの悪事の証拠ごと会社という機能が完全に消滅した。
運良く別の階の会議室に身を潜めていて難を逃れた佐々井と権田は、非常階段を這うようにしてこの薄暗い地下駐車場まで逃げ延びていた。
佐々井のスマートフォンのライトだけが、コンクリートの冷たい壁と、二人の脂汗に塗れた青ざめた顔を照らしている。佐々井の手は小刻みに震え、何度も車のスマートキーを取り落としかけていた。
「社長……ダメです。例の連中、電話に出ません。着信音すら鳴らない……完全に回線を切られています」
佐々井の声は絶望で裏返っていた。杉本直樹を物理的に排除すると豪語していた荒事屋たちは、会社の惨状を知ってか知らずか、完全に音信不通になっていた。
「ええい、構わん! 奴らも逃げたのだろう。我々だけでも飛ぶぞ!」
金庫の現金はすべて奪われたか、破壊された瓦礫の下だ。だが、権田は震える手で自身の胸ポケットを強く押さえていた。そこには、シンガポールのダミー会社名義で作った隠し口座のキャッシュカードと、偽造パスポートが入っている。
「羽田へ向かえ! チャーター機の手筈は整っている。ほとぼりが冷めるまで数年、海外で身を潜めれば、あの口座の金でまたやり直せる……!」
権田はネクタイを乱暴に引き剥がし、血走った目で佐々井を急かした。
佐々井はようやく車のロックを解除し、運転席に転がり込んだ。権田も後部座席に身を投げる。
だが。
佐々井がスタートボタンを押しても、エンジンはかからなかった。
キュルキュルというセルモーターの音すらしない。ダッシュボードの電子パネルは真っ暗なままだ。
「な、なんだ!? どうなってる!」
「わかりません! バッテリーが上がっているはずがないのに……車のシステムが、完全に沈黙しています!」
佐々井がパニックに陥りながら何度もボタンを連打する。その時、彼のスマートフォンの画面がフッと暗転し、再起動のループに入ったかと思うと、アンテナ表示が完全に「圏外」を示すバツ印に変わった。
「……圏外? 馬鹿な、ここは都心のど真ん中ですよ!?」
地下駐車場とはいえ、常に強力な中継アンテナが稼働しているはずの場所だ。
ふと、佐々井は車外の異変に気づいた。
遠くに見えていた駐車場の出口を照らす非常口の誘導灯が、音もなく消えている。換気用の巨大なファンが回る低い唸り声も、いつの間にか停止していた。
まるで、このビル一帯だけが世界から切り離されたように、インフラというインフラが完全に機能停止しているのだ。
「……社長」
佐々井の歯の根が合わない音が、暗闇の車内に響く。
物理的なインフラをピンポイントで停止させ、最新のハイブリッド車の電子制御まで遠隔でロックするなど、一企業や個人のハッカーにできる芸当ではない。
彼らは今、逃走の足と連絡手段を完全に奪われ、暗闇の中で身動きが取れなくなっていた。
★★★★★★★★★★★
同時刻。
都内の喧騒から遠く離れた、広大な敷地を持つ桜井財閥の日本家屋。
完璧に手入れされた枯山水の庭を臨む薄暗い和室で、桜井元子――モモは、感情の抜け落ちた冷たい瞳で庭石を見つめていた。
彼女は豪奢な西陣織の着物を身に纏い、背筋を伸ばして正座している。VRの世界で見せる、あの天真爛漫な有翼人の少女の面影は一切ない。そこにあるのは、日本の政財界の心臓部を握る若き最高権力者としての、冷徹で絶対的な威圧感だけだった。
襖の向こうから、秘書が静かに声をかける。
「御前。ご報告いたします」
「言いなさい」
元子の声は、温度を感じさせないほど平坦だった。
「対象者二名の逃走ルートの遮断を完了しました。彼らが手配していたチャーター機は、国交省の権限により直ちに飛行許可を取り消し、パイロットは身柄を拘束。また、対象者たちのパスポート情報に出国エラーのフラグメントを付与しました。どの空港のゲートを通ろうとも、即座にアラートが鳴る手筈となっております」
「……海外の口座は?」
「シンガポールのダミー会社名義の口座を含め、彼らがアクセス可能なすべての金融資産を特定し、国際的なネットワークを通じて凍結手続きを完了しました。現在、彼らの胸ポケットにあるカードはただのプラスチックの板です」
完璧な封鎖網だった。
「対象のオフィスビルに関しては、周辺の送電網からの物理的切り離し、および対象エリア内の特定通信キャリアの電波遮断を行いました。彼らは現在、地下駐車場で孤立しているものと思われます」
元子は手元に置かれた、人間国宝が焼き上げたという茶碗に視線を落とした。中には最高級の玉露が入っている。だが、その香りを嗅いでも、あの島で直樹が作ってくれた、少し不格好な木組みのコップに入った温かいお茶のような安らぎは得られない。
「……私たちが、法的な手順を踏んで丁寧に終わらせてあげようとしていたというのに。彼らは泥靴で、ナオの穏やかな領域に踏み込もうとした」
元子の呟きに、襖の向こうの秘書が微かに息を呑む気配がした。
元子はゆっくりと瞬きをした。その銀色の瞳には、一切の慈悲が存在しなかった。
「万が一、彼らが自暴自棄になってナオに接触しようとした時のために、いつでも動けるよう監視を続けなさい。一歩でも彼に危害を加える素振りを見せれば、その瞬間に社会的な存在を完全に消去します」
「……御意」
「彼らには、暗闇の中で渇きに苦しみながら、自分たちの犯した罪の重さを数えさせなさい」
★★★★★★★★★★★
週末の午後。
初夏の陽射しはすでに力強く、木々の葉を青々と輝かせていた。
直樹は自宅から少し足を伸ばし、川沿いにある広々とした公園のベンチに腰を下ろしていた。
「きゅうっ!」
足元では、長めのリードに繋がれたこむぎが、芝生の上を短い足でタタタッと走り回り、見つけたバッタに飛びかかっては逃げられるという一人遊びに夢中になっている。
かつての直樹なら、休日の昼間に公園で犬の散歩をするなど、絶対にあり得ない光景だった。その時間は泥のように眠っているか、呼び出しに怯えながらPCを開いているかのどちらかだったからだ。
「……平和だな」
直樹が水筒の麦茶を一口飲んだ、その時だった。
背後から微かな衣擦れの音がして、直樹の隣のスペースに誰かが静かに腰を下ろした。
横目で見ると、季節外れの深い女優帽に、顔の半分を覆う大きな黒いサングラス。さらにスカーフで首元までを隠した、不審者スレスレの完全変装をした女性だった。
だが、その変装の下から隠しきれずに漏れ出ている圧倒的な姿勢の良さと、高級なフローラル系の香水の匂い。
何より、バッタを追いかけていたこむぎが、ぴたりと動きを止めて彼女の方へトコトコと歩み寄り、短い尻尾をパタパタと忙しなく振りながら鼻先を押し付けたことで、彼女の正体は明白だった。
「……目立ってるぞ、エミ」
直樹が前を見たまま声をかけると、女性の肩がビクッと跳ねた。
「っ……やっぱり、分かるの?」
古川秀美は、周囲を警戒するように見回してから、サングラスを少しだけずらして直樹を睨んだ。その瞳には、女優としての張り詰めた緊張感と、少しの安堵が入り混じっている。
「匂いと歩き方だ。それより、こんな所でうろついてて平気なのか。マネージャーに怒られるぞ」
「仕事の合間に、少しだけ抜け出してきたの。……どうしても、ナオの顔が見たくて」
秀美は帽子を少し深く被り直し、こむぎの柔らかな毛並みを撫でた。こむぎは気持ちよさそうに目を細め、彼女の膝にあごを乗せている。
「そうか」
直樹は驚く様子もなく、足元に置いていた保冷バッグから小さなタッパーを取り出した。
「昼飯は食ったか」
「ううん。ロケ弁が出たけど、カロリー制限があるから手を付けてないわ」
「なら、これでもつまむといい」
直樹がタッパーの蓋を開けると、ふわりと出汁の香りが漂った。中に入っていたのは、分厚いだし巻き卵を挟んだサンドイッチだった。パンには薄く辛子マヨネーズが塗られている。
「……食べていいの?」
「そのために持ってきた」
秀美は周囲を素早く確認してからマスクを外し、サンドイッチを一つ手に取って小さく齧った。
「……んっ」
瞬間、秀美の目が丸くなった。
パンの柔らかさと、出汁をたっぷりと吸い込んだ卵の温かさ。辛子の微かな刺激が、卵の甘みを完璧に引き立てている。素朴な手作りのサンドイッチなのに、それがどうしようもなく彼女の胃の腑と心を温めた。
「美味しい……。すごく、美味しい」
秀美はもう一口、今度は少し大きく齧り付いた。VRの世界で直樹が作ってくれる料理と同じ、食べた瞬間に肩の力が抜け、全身が「ふにゃふにゃ」になるような感覚が、現実の肉体にも染み渡っていく。
「そういえば、ナオ」
サンドイッチを飲み込み、秀美は少しだけ声のトーンを落とした。
「ニュース、見た? あなたの元いた会社、大変なことになってるわよ。役員全員が行方不明で、本社ビルも閉鎖されてるって」
ワイドショーやネットニュースは、今朝からその話題で持ちきりだった。一部の噂では、巨額の負債を抱えて逃亡を図った経営陣が、裏社会のトラブルに巻き込まれたとも囁かれている。
だが、直樹の反応はひどく淡白なものだった。
「へえ」
直樹は自分の分のサンドイッチを頬張りながら、どこ吹く風だ。
「それより、明日は少し遠出して、こむぎをドッグランにでも連れて行こうかと思ってるんだが。この辺の公園だと、少し狭くてな」
秀美は、直樹のその横顔をじっと見つめた。
自分をあそこまで追い詰めた会社が崩壊しているというのに、この男の関心はすでに、目の前の犬と明日の予定にしか向いていない。そのブレない平穏さが、張り詰めた世界で生きる秀美にとって、どれほどの救いになるか彼は分かっているのだろうか。
「……私も、行っていい?」
秀美がぽつりとこぼすと、直樹は麦茶を飲み込んでから秀美を見た。
「マネージャーに怒られないならな。……ほら、口元にパン屑がついてるぞ」
直樹が指先で軽く秀美の口元を拭う。
無意識のその動作に、秀美の顔が一気に赤く染まった。
「っ、もう……ナオって、本当に……」
秀美は文句を言いながらも心地よさそうに目を細め、こむぎを撫でるふりをしながら、直樹の肩にそっと自分の肩を寄せた。
木漏れ日の下、どこまでも穏やかで、柔らかな時間が流れていた。




