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限界社畜のVR開拓記〜クビになったらVIP客が元職場を滅ぼした〜  作者: 伊達ジン


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第32話 暴力の更地と、チープな酢豚

 都心の一等地に位置しながらも、ダークネス・システムズのオフィスは異様な静寂と荒廃に包まれていた。


 先週末から降り注ぐ取引先からの契約解除通知と、裁判所からの資産凍結命令。さらに、社内の不正データが外部に流出したという決定的な噂は、瞬く間に社内ネットワークを駆け巡り、従業員たちの間にパニックを引き起こした。

 結果として、今朝の段階で一般社員のほとんどが出社を拒否した。数少ない出社組も、己の身に火の粉が降りかかるのを恐れ、自分のデスクから私物だけを段ボールに詰め込み、逃げるように退職届を人事の机に叩きつけて去っていった。主のいなくなったデスクの上には、飲みかけのペットボトルや引き出しからこぼれ落ちた書類が散乱し、誰も電話に出ないため鳴り続けるコール音だけが虚しく響いている。まさに泥舟の沈没を如実に物語る光景だった。

 空調すら停止し、どんよりと空気が淀んだ薄暗い社長室には、権田社長と佐々井部長、そして彼らが裏のツテを頼って呼び寄せた三人の男たちの姿があった。


「……これが、杉本の住んでいるアパートの住所だ」


 佐々井が、脂汗でテカる顔を引きつらせながら、マホガニー製のテーブルの上に一枚のメモと、帯のついた札束が詰め込まれた分厚い封筒を滑らせた。彼の指先は小刻みに震えていた。


「奴を捕まえて、どこか目のつかない場所へ運んでくれ。我々の手元から流出したデータはすべて偽造されたものだという一筆を書かせ、マスターキーを吐かせる。……どうしても口を割らないなら、手荒な真似をしても構わん。その後の『始末』も含めて、この金額でどうだ」


 封筒の中身を覗き込んだ刺青まみれの男が、下品な笑みを浮かべて喉を鳴らした。


「なるほどね。ただのしがないシステムエンジニア一人攫うだけなら、まあ割のいい仕事だ。手出し無用で片付けてやるよ。引き受け——」


 男が封筒に手を伸ばした、その瞬間だった。


 プツン、という小さな音と共に、社長室だけでなく、フロア全体の非常灯すらも含めたすべての電源が完全に落ちた。


「な、なんだ!? ブレーカーが……」


 佐々井が立ち上がろうとした直後、足元に円筒形の小さな物体が転がってきた。

 鼓膜を突き破るような轟音と、視神経を焼き切るほどの強烈な閃光が、社長室の密閉された空間を爆発的に満たした。


「ぐぁっ!?」

「目があっ……!」


 男たちが顔を覆って悲鳴を上げた時には、すでに致命的な後手に回っていた。

 社長室の分厚いドアが蝶番ごと吹き飛び、そこから雪崩れ込んできたのは、漆黒のタクティカルギアに身を包み、暗視ゴーグルと消音器付きのアサルトライフルを構えた数名の特殊部隊員たちだった。


「動くな!」などという、映画のような警告は一切ない。


 彼らは無言のまま、視界と聴覚を奪われてうずくまる三人の裏社会の男たちに襲いかかった。反撃の隙すら与えず、一人は顎を重い銃床で打ち砕かれ、もう一人は腕の関節を逆方向に折られて床に縫い留められ、最後の一人は膝の裏を鋭いコンバットナイフで正確に切り裂かれた。

 鈍い骨の折れる音と、くぐもった悲鳴。

 わずか三秒。それが、佐々井たちが頼みの綱としていた「暴力」が、真のプロフェッショナルによって完全に無力化されるまでの時間だった。


 三人の男たちが床に顔を押し付けられ、手足を強固な結束バンドで縛り上げられる中、静寂を取り戻した社長室に、コツ、コツと、硬質なヒールの音が響いた。

 暗闇の中、タクティカルライトの白い光に照らされて現れたのは、見事なプロポーションを高級なブランドスーツに包んだ一人の女だった。

 豊かな髪を後ろで束ねた彼女――エレアノラ・ホジャは、床に這いつくばる男たちと、腰を抜かして失禁している権田、そして壁際でガチガチと歯の根を鳴らして震える佐々井を、まるで路傍の汚物でも見るかのような冷たい目で見下ろした。


「……ボス。制圧完了しました。こいつらはどうしますか」


 部下の一人が、エレアノラに英語で短く報告する。


「適当な海にでも沈めておきなさい。……いえ、その前に少し痛めつけて、二度と東京の土を踏めないようにしてちょうだい」


 エレアノラは抑揚のない声でそう告げると、ゆっくりと佐々井の前に歩み寄った。


「ひっ……あ、あんた、誰だ……っ! 警察か!? な、なんで……」

「黙りなさい」


 エレアノラの声音は決して大きくなかったが、そこに含まれた絶対的な殺気が、佐々井の喉を物理的に縛り上げたように声帯を麻痺させた。

 彼女は、佐々井の足元に落ちていた札束の入った封筒を、鋭いヒールの先で踏みつけた。


「……たったこれだけの紙切れで、私の……私たちが何よりも大切にしている平穏な時間を脅かそうとしたの?」


 エレアノラの銀色の瞳が、冷酷な光を帯びて細められた。


 あの波の音が聞こえる穏やかなビーチ。彼が淹れてくれる冷たい果実水。ただただ心を預け、ふにゃふにゃになって甘えることが許される、世界で唯一の場所。

 その安息の空間を、そしてそれを与えてくれる優しい男を、これ以上この薄汚い連中にすり減らさせるわけにはいかない。


「……この空間の空気を吸うだけで、吐き気がするわ」


 エレアノラは佐々井から視線を外し、部下たちに向かって静かに、しかし冷徹な命令を下した。


「原型を留める必要はないわ。サーバー、パソコン、書類、デスク……このオフィスにあるすべてのものを、物理的に叩き潰しなさい。一つ残らずよ」

「イエス、マム」


 部下たちが無言で頷き、ハンマーやアサルトライフルの銃床を振り上げる。


「や、やめろ……っ! それには重要なデータが……!」


 権田の悲鳴を掻き消すように、高価なモニターが粉砕され、サーバーラックが引き倒され、内部の基盤が跡形もなく叩き割られていく破壊音がオフィス中に響き渡った。


 エレアノラは、破壊の轟音に包まれるオフィスを背に、ゆっくりと歩き出した。


★★★★★★★★★★★


 その頃。

 杉本直樹は、自宅アパートから徒歩数分の場所にある、古びた町中華の暖簾をくぐっていた。

 色褪せた赤いカウンターに、長年の油で少しだけベタつく床。壁には手書きの短冊メニューが所狭しと貼られ、厨房からは中華鍋をガコンガコンと振る小気味良い音と、食欲をそそるラードとニンニクの匂いが漂ってくる。天井付近に設置された小さなブラウン管テレビからは、昼のワイドショーの音声が垂れ流されていた。

 パイプ椅子を引きずって座ると、頭にタオルを巻いた年配の店主が、水滴のついたグラスをドンと置きながら聞いてくる。


「いらっしゃい。何にする?」

「酢豚定食。あと、ライスは少なめでお願いします」


 直樹はカウンター越しにそう注文した。


 平日の昼間、こうしてのんびりと近所の定食屋で昼飯を食う。かつての直樹なら、絶対にあり得ない時間の使い方だった。この時間帯は常にPCのモニターに齧り付き、電話を片手に怒鳴られながら、味のしないゼリー飲料を胃に流し込んでいるのが常だったからだ。


「お待ちどおさん。酢豚定食、ライス少なめね」


 数分後、カウンター越しに渡されたお盆には、湯気を立てるメインの皿と、ご飯、ワカメスープ、それに小さなザーサイの小鉢が乗っていた。


 直樹は割り箸を割り、酢豚をじっと見つめた。

 昨日、銀座の会員制レストランで食べた仔牛のカツレツとは、当然ながら対極にある一皿だ。

 豚肉の姿は探さなければ見つからないほど少なく、衣のついた小さな塊が三、四個ほど申し訳程度に入っているだけ。その代わり、大ぶりにカットされたタマネギが皿の八割を占め、ピーマンとニンジンが彩りを添えている。そしてそれらすべてが、ケチャップと酢をベースにした、チープで真っ赤な甘酢餡にたっぷりと絡められていた。


「いただきます」


 直樹はまず、その大量のタマネギを箸でつまみ、口に運んだ。


「……最高だな」


 直樹は安堵の息とともに呟いた。


 タマネギは完全に火が通り切っておらず、シャキシャキとした心地よい歯応えを残している。噛むたびにタマネギの自然な甘みが弾け、そこに甘酢餡の強烈な酸味とケチャップのジャンクなコクが合わさって、暴力的に食欲を刺激してきた。

 高級な黒酢など使っていない、ただの穀物酢のツンとした酸味。それが今の直樹の胃袋にはたまらなく丁度良かった。


 直樹は少なめに頼んだどんぶりのご飯の上に、餡がたっぷり絡んだタマネギをワンバウンドさせ、ご飯ごと掻き込んだ。

 熱い。だが、それがいい。タマネギの甘み、餡の酸味、そして白米の甘み。それらが口の中で三位一体となって溶け合っていく。

 時折、宝探しのように小さな豚肉の塊を見つけ、それを口に放り込む。

 肉は少し硬く、安い豚コマを丸めたような食感だったが、衣が餡をたっぷりと吸い込んでおり、ラードの香ばしさと肉の旨味がじゅわっと滲み出してくる。


(肉が少ないからこそ、見つけた時の喜びがあるな……)


 直樹はそんな下らないことを考えながら、黙々と箸を進めた。


 豚肉をかじり、タマネギを大量に頬張り、スープで喉を潤し、またご飯を掻き込む。

 自分で作る凝った料理も美味いが、こうして他人が作ってくれたジャンクで大味な定食を、何も考えずに無心で胃に詰め込む時間も悪くない。胃袋が確かな質量と熱量を受け入れ、細胞がエネルギーに変わっていくのを実感する。


 ワイドショーの音声では、どこかの企業が不正経理で摘発されたというニュースを報じていたが、直樹の意識はそこに全く向いていなかった。


(帰ったら、こむぎの散歩に行って……夕飯は、VRであいつらに何を作ってやるかな。この前手に入れたスパイスがあるから、タンドリーチキンでも仕込んでおくか。ヨーグルトに漬け込めば柔らかくなるはずだ。それと、サッパリしたヨーグルトベースのソースも添えて……)


 次々と浮かんでくる献立のアイデアに、自然と口角が上がる。

 最後の一口のご飯をザーサイと共に食べ終え、直樹は温かいお茶をゆっくりと啜った。


「ごちそうさまでした。美味しかったです」

「おっと、ありがとうね。またよろしく!」


 店主に代金を支払い、店を出る。

 直樹は大きく伸びをすると、こむぎが待つアパートへと向かって、軽い足取りで歩き出した。

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