第31話 仔牛のカツレツと、泥舟の断末魔
都心の一等地に居を構える『ダークネス・システムズ』のオフィスビル。その最上階にある社長室は、真昼間だというのに分厚いブラインドが完全に下ろされ、重苦しい薄暗さに包まれていた。
広く豪奢なマホガニー製のデスクの上には、無造作に引き抜かれたビジネスフォンのモジュラーケーブルが蛇のように這っている。先週から鳴り止まないクレームと、取引先からの契約解除通達の嵐に耐えきれず、物理的に回線を切断したのだ。
だが、外部との接触を絶ったところで、沈没しかけた泥舟の浸水が止まるわけではなかった。
「……またです」
青ざめた顔で自身のスマートフォンを見つめていた佐々井が、乾いた唇を舐めて言った。画面には、分刻みで赤い通知アイコンが増殖し続けている。
「下請けのシステム会社三社から、未払い金の即時請求。それから……メインバンクの融資担当から、面会の強要です。このままなら、今日の午後には手形が不渡りになります」
デスクの奥で、革張りの重役椅子に深く沈み込んでいた権田社長が、ギリッと奥歯を鳴らした。
血色の良かった恰幅の良い顔は土気色に濁り、オールバックに撫でつけられていた頭髪は脂汗で乱れている。高級なオーダースーツのネクタイは無残に引き剥がされ、首元がだらしなく開いていた。
「……口座の残高は」
「ゼロ、です。メインバンクの法人口座も、私の個人口座も、社長の海外のダミー口座も……。すべて、送金履歴すら綺麗に消去されています。ハッキングだとしても、こんな真似ができる人間が存在するとは……」
佐々井の声は、恐怖で微かに震えていた。
これまで彼らが法と倫理の網の目を潜り抜け、社員の血肉を啜るようにして蓄財してきた数億円という金が、文字通り電子の海へと消え失せたのだ。警察に駆け込んだところで、元より表に出せない裏金や横領金が大半である。
「37名の集団訴訟……それに、グローバル・ネットワークスへの莫大な違約金。払えるわけがないだろうがっ……!」
権田がデスクを両手で強く叩きつけると、その衝撃で積み上げられていた書類の山が床に滑り落ち、バサバサと乾いた音を立てて散らばった。
「逃げるぞ、佐々井」
権田の目が、狂気を孕んだ濁った光を放った。
「金庫に残っている裏金の現金三千万円。あれを持てば、東南アジア経由で高飛びできる。向こうのツテを頼れば、戸籍くらいどうにでもなる」
「しかし社長、このまま逃げれば確実に国際手配に……」
「だから、スケープゴートを作るんだよ!」
権田が立ち上がり、充血した目で佐々井を睨みつけた。
「会社の金を横領し、データを改ざんして会社を破滅させた首謀者。そいつがすべての罪を被るという『念書』があれば、我々は被害者面をして時間を稼げる。捜査の目がそいつに向いている間に、俺たちは国を出る」
佐々井は、引きつったようにゴクリと生唾を飲み込んだ。
彼が誰のことを言っているのか、理解するのに時間はかからなかった。
「杉本、ですね」
「あいつしかいないだろう。最高権限を持っていて、システムのすべてを把握していた。あいつにすべてを被せるんだ。拇印を押させた遺書でもあれば、なお良い」
「しかし、杉本は昨日からアパートに帰っていません。電話も電源が切られたままです」
佐々井は言いながら、自身の手にじっとりと汗が滲むのを感じていた。
正規の手続きでは、もはや杉本を捕まえることなど不可能だ。ならば、手段を選ぶ余裕はない。
「社長」
佐々井は、スマートフォンの暗号化された連絡先を表示させながら、声を潜めた。
「昔、揉め事の処理に使った裏の連中に、すでに手配はかけてあります。杉本の顔写真とアパートの住所、実家の情報も渡しました。あいつらなら、警察の網を潜り抜けて確実に対象を拉致し、『望み通りの書類』を作らせてくれます」
権田の顔が、醜く歪んだ笑みの形に引きつった。
「いくらだ」
「金庫の現金、すべてです。今の我々の状況を見て、足元を見てきました」
数秒の沈黙の後、権田はデスクの引き出しから小さな鍵を取り出し、佐々井に向かって投げ捨てた。
「……やれ。杉本の指を何本詰めようが構わん。一刻も早く、あいつを連れてこい」
★★★★★★★★★★★
同じ頃、銀座。
初夏の抜けるような青空の下、杉本直樹は目抜き通りから一本入った路地を歩いていた。
柔らかなリネンのシャツに、仕立ての良いスラックス。革靴の踵がアスファルトを叩く音には、確かなリズムと余裕がある。数日前まで、シワだらけの安いスーツを着て泥のように這いずり回っていた男とは、到底思えない足取りだった。
高級ブランドのショーウィンドウや、歴史ある画廊が並ぶ通りを抜け、直樹はある建物の前で足を止めた。
レトロなレンガ造りの外壁と、手入れの行き届いた木枠の扉。明治時代からこの地で日本の洋食文化を牽引してきた老舗、『煉瓦亭』である。
カラン、と控えめなドアベルの音を響かせて店内に入ると、木を基調とした落ち着いた空間が広がっていた。白いテーブルクロスが敷かれたテーブル、ステンドグラスのランプシェード。長年磨き込まれてきた床からは、香ばしいラードと小麦粉、そして深いデミグラスソースの香りが微かに漂ってくる。
「いらっしゃいませ。一名様ですか?」
「ええ」
蝶ネクタイを締めた初老のウェイターに案内され、直樹は二階の窓際の席に腰を下ろした。
使い込まれたメニューを開くまでもなく、注文するものは決まっていた。
「仔牛のカツレツを。それと、ライスをお願いします」
ウェイターが恭しく一礼して下がる。
直樹は運ばれてきた冷たい水を一口飲み、窓の外を行き交う人々をぼんやりと眺めた。
平日のお昼時。かつての自分なら、この時間は自席のモニターから一秒も目を離さず、味のしないコンビニのおにぎりを水で胃に流し込んでいるか、あるいは終わりの見えない顧客からのクレーム電話に頭を下げ続けていたはずだ。
「……遠い昔のことみたいだな」
直樹の口から、自然と小さな呟きが漏れた。
今朝、ネットの片隅でかつての会社が『実質的な倒産状態』にあるという憶測記事を見た時も、怒りや焦燥感は湧かなかった。ただ、自分にはもう関係のない、別の世界の出来事のようにしか感じられなかった。
それよりも今は、この静かで満ち足りた時間の方が、直樹の人生において遥かに重要だった。
待っている間、直樹はスマートフォンを取り出すこともなく、ただ窓から差し込む陽光の暖かさと、店内に響くカトラリーの控えめな音を楽しんだ。
「お待たせいたしました。仔牛のカツレツでございます」
ウェイターが静かに皿を置く。
目の前に現れたのは、黄金色に見事に揚がった美しいカツレツだった。
細かいパン粉が均一にまぶされ、ラードとバターの混ざり合った芳醇な香りが、鼻腔をダイレクトに刺激する。付け合わせのパセリと千切りキャベツの緑が、衣の黄金色をより一層引き立てていた。
直樹はナイフとフォークを手に取り、カツレツの中央に刃を入れた。
サクッ、という軽快な音とともに、衣が割れる。その下から顔を出したのは、ほんのりと桜色を残した、極上の仔牛肉だった。
断面からは透明な肉汁が微かに滲み出ている。
直樹は一切れをフォークで刺し、まずはソースもレモンもかけずに、そのまま口へ運んだ。
「……っ」
歯を立てた瞬間、衣の香ばしさと共に、驚くほどの柔らかさが口いっぱいに広がった。
豚肉とも親牛とも違う、仔牛特有の繊細でミルキーな甘み。それが、絶妙な温度で火を入れられたことで、豊かな旨味となって舌の上で溶けていく。
衣のサクサクとした食感と、仔牛肉の繊細な旨味が口の中で溶け合い、えも言われぬ幸福感が広がっていく。
(……美味い)
直樹は、ゆっくりと息を吐き出した。
次に、添えられたくし切りのレモンを軽く絞る。柑橘の爽やかな酸味が加わることで、ラードのコクがより一層引き立ち、味が輪郭を持ってくっきりと立ち上がってくる。
ライスを口に運ぶ。洋食屋ならではの、平皿に盛られた艶やかな白米。炊き加減も完璧だ。
カツレツの旨味と白米の甘みが口の中で混ざり合い、これ以上ない調和を生み出す。
一口、また一口。
直樹はただ無心に、目の前の料理と向き合った。
VRの世界で自分で作る料理も美味いが、百年の歴史を持つ老舗のプロの技は、やはり格別だった。細胞の隅々にまで、本物の栄養と『豊かさ』が染み渡っていくのを感じる。
味覚が正常に機能している。
胃が温かい食べ物をしっかりと受け入れている。
そして何より、食事を『美味しい』と心から感じることができる。
そんな当たり前のことが、今の直樹にとっては奇跡のように愛おしかった。
最後の一切れを惜しむように味わい、付け合わせのキャベツで口の中をさっぱりとさせる。食後のブラックコーヒーを飲み干し、静かにカップを置いた直樹の顔には、かつての限界社畜の面影は微塵も残っていなかった。そこにあるのは、自らの足でしっかりと立ち、人生の主導権を取り戻した大人の男の、静かで揺るぎない自信だった。
伝票を手に取り、席を立つ。
階段を降りて会計を済ませ、外へ出ると、初夏の強い陽射しが直樹を歓迎するように照りつけた。
深く息を吸い込み、銀座の青空を見上げる。
「さて……」
直樹は軽く肩を回し、歩き出した。
「明日の夕飯は、魚にするか。あいつら、また騒ぎそうだな」
脳裏に浮かぶのは、VRの世界で自分を待つ、賑やかで愛おしい存在たちの顔だ。
美味いものを食べたという報告をすれば、エミは尻尾を振って羨ましがり、ベルは豪快に笑い、シルフィは上品に微笑みながらも食い意地を張るだろう。アリスは素直になれずに文句を言い、モモは目を輝かせて自分にも作ってとねだり、ノーラは妖艶に微笑むはずだ。
そして足元には、現実でもVRでも常に寄り添ってくれる小さな家族の温もりがある。
泥舟のように沈みゆくかつての職場の断末魔など、今の直樹の耳には一切届いていなかった。




