第30話 終わる世界と、柔らかな休日の始まり
都内の超一等地にそびえ立つ、セキュリティとプライバシーが完全に保証された最高級タワーマンションの最上階。
分厚い遮光カーテンが引かれ、昼間でも薄暗いリビングで、古川秀美は特注の巨大な綿花クッションに深く身体を沈めていた。VRの世界で彼が作ってくれた、あの極上の感触に少しでも近づけようと、一流のインテリアデザイナーを泣かせて数百万を注ぎ込んで作らせた特注品だ。手触りの良い上質なカバーの下には、計算し尽くされた反発力を持つ素材が詰め込まれており、本来ならば疲労した肉体を優しく癒やしてくれるはずのものだった。しかし、その贅沢な布地に包まれていても、今の彼女の心は一向に安らがなかった。
彼女の手の中にあるタブレット端末の画面には、アリスから送られてきた暗号化ファイルの展開結果が映し出されている。
『ダークネス・システムズ 労務実態および不正資金流用の証拠データ一式』
そこには、常軌を逸した長時間労働の記録が冷酷なデジタルの数字として並んでいた。三十日連続の深夜残業、平均睡眠時間二時間のグラフ。そして、もはや恫喝としか呼べない佐々井という男の音声データ。さらには、直樹一人にすべての責任と作業を押し付けていたという事実が、会社の内部資料やチャットのログから生々しく浮かび上がっていた。
「……信じられない」
秀美の口から、震える声が漏れた。
美しい顔が、悲しみと、それを上回る激しい怒りで歪む。
画面をスクロールするたびに、彼がどれほどの理不尽に耐え、心身を削られていたのかが痛いほど伝わってくる。
いつも温かいご飯を作ってくれて、ただのプレイヤーである自分に一切の見返りも求めず、優しく微笑んでくれる人。昨日だって、あの究極のパフェを笑って食べさせてくれた。あの大きくて優しい手を持つ男を、この会社はゴミのように扱い、死の淵まで追い詰めていたのだ。
「ナオをこんな目に遭わせて……絶対に、許さない」
秀美はタブレットを乱暴にソファへ投げ出し、自身のスマートフォンを手に取った。
国民的トップ女優であり、数千万人のフォロワーを持つ彼女の公式アカウント。普段は出演情報の告知や、タイアップ案件、あるいは当たり障りのない美しい風景の写真しか載せないその場所に、彼女は静かな、しかし確かな怒りを込めてテキストを打ち込み始めた。
一度打っては消し、また打つ。感情的になりすぎず、けれど事実が最も重く伝わる言葉を、彼女は女優としての研ぎ澄まされた直感で選び取っていく。指先が微かに震えていたが、迷いはなかった。
『最近、とても親しくしている方が、とあるIT企業で信じられないような酷い扱いを受けていたことを知りました。
何十日も家に帰れず、休むことも許されず、たった一人にすべての責任を押し付けて使い潰すような環境。人の命を削って成り立つようなシステムなんて、絶対に間違っています。
彼がどれだけ傷ついたかを思うと……本当に、悲しいです』
企業名は一切出していない。だが、昨夜からアリスが裏掲示板やゴシップサイトのタレコミ用アドレスにばら撒いていた「某ブラックIT企業の内部告発データ」と、この呟きが結びつくのに、十分な時間は必要なかった。
『秀美ちゃんが悲しんでる!』
『親しい人って誰!? それよりこのIT企業って、今朝からリーク出回ってるダークネス・システムズのことじゃね?』
『特定した。労働環境の告発データと、秀美ちゃんの言ってる条件が完全に一致する』
『許せねえ。秀美ちゃんを泣かせるようなブラック企業は社会の敵だろ』
『リーク元の音声聞いたけど、この上司ヤバすぎ。犯罪レベルだわ』
数千万のフォロワーが導火線となり、瞬く間にリポストが十万を突破した。
SNSのトレンドは上位十件すべてが「ダークネス・システムズ」「違法労働」「佐々井部長」といった関連ワードで埋め尽くされた。それを見たネットニュースの編集部とテレビ局のワイドショーのディレクターたちが、絶好の獲物を見つけたとばかりに一斉に裏取りと突撃取材に向けて動き出し、ネット上は収拾のつかない狂騒状態へと突入していった。
★★★★★★★★★★★
同じ頃、杉本直樹は初夏の心地よい陽射しの中、並木道に沿ってこむぎの散歩をしていた。
「きゅうっ、きゅうっ」
こむぎは短い尻尾をパタパタと忙しなく振りながら、落ち葉の匂いを嗅いだり、すれ違う鳩を威嚇しようとして逆に逃げたりと、落ち着きなく歩き回っている。リードを引く力は相変わらず弱々しいが、それでも以前よりはずっと足取りがしっかりしていた。直樹はリードを緩く持ち、その小さな命の躍動をただ静かに眺めていた。
深呼吸をしても、かつての息苦しさは微塵も感じなかった。
かつては鳴り止まないスマートフォンの通知音に怯え、歩きながらも頭の中では常にバグの修正コードを組み立てていた。胃の奥には常に鉛のような重たさがあり、視界の隅はストレスでひび割れていた。だが今は、風が木々の梢を揺らす音と、こむぎの小さな足音だけが、直樹の世界を穏やかに満たしている。青葉の香りが混ざった風が、シャツの襟元を撫でていく心地よささえ、今の彼には新鮮だった。
公園の入り口にある、オープンテラスのドッグカフェ。
直樹が空いているテーブル席に腰を下ろし、こむぎ用の水飲みボウルを取り出していると、背後から静かな声がかかった。
「隣、よろしいかしら」
振り返ると、そこに立っていたのはオリヴィア・リードだった。
以前カフェで少し言葉を交わした時のような、完璧なオーダースーツとピンヒールという「戦闘服」ではなく、今日は少しだけ肩の力が抜けた、洗練されたノースリーブのブラウスと膝下丈のタイトスカートという装いだった。首元には華奢なネックレスが光り、日差しを浴びたプラチナブロンドの髪が風に揺れている。それでも、彼女が本来持っている知性と大人の色気は、周囲の客の視線を密かに集めていた。
「奇遇ですね。この前ぶりですか」
「ええ、本当に奇遇です。通りかかったら、見覚えのあるお顔があったので」
オリヴィアは直樹の向かいの席に優雅に腰を下ろした。もちろん、彼女にとっては決して偶然などではない。アリスからの情報提供に基づき、直樹の今の居場所を特定し、わざわざ休日のスケジュールを調整してまでここまで足を運んできたのだ。だが、そんなそぶりは微塵も見せずに、彼女は涼しげな笑みを浮かべていた。
ウェイトレスが注文を取りに来ると、彼女はアイスティーを、直樹はブラックコーヒーを頼んだ。
こむぎが、見慣れない美しい女性の足元にトコトコと近づき、その高いヒールの先の匂いをフンフンと嗅ぎ始めた。
「こら、こむぎ。失礼ですよ」
直樹がリードを引こうとすると、オリヴィアは「構いませんわ」と小さく微笑み、そっと手を差し伸べた。こむぎは彼女の指先をペロリと舐め、すぐに警戒を解いて尻尾を振った。
「犬に好かれるのは、悪い気はしませんね」
オリヴィアはこむぎの頭を不器用に、しかし優しい手つきで撫でながら、直樹の顔を見上げた。その手つきは、どこか動物に触れ慣れていないようなぎこちなさがあったが、こむぎは嫌がる様子もなく目を細めている。
「そういえば、ネットのニュースを見ましたか? 今朝から、とあるIT企業が大変な騒ぎになっているようですけれど」
オリヴィアは、グラスについた水滴を指先でなぞりながら、あくまで一般的な世間話のトーンで切り出した。表情には好奇心も、それ以上の感情も浮かんでいない。完璧にコントロールされた、休日の穏やかな会話の一部として。
直樹はポケットからスマートフォンを取り出し、ニュースサイトを開いた。
トップページのヘッドラインは、すでにダークネス・システムズの不正と違法労働の実態で埋め尽くされている。佐々井部長の怒号の音声データの一部までが切り抜かれて拡散され、テレビのワイドショーでも速報として取り上げられ始めているらしい。
「……ああ。本当ですね。ずいぶんと派手に燃えているな」
直樹の反応は、まるで遠い国の出来事でも見ているかのように淡白なものだった。
画面をスクロールする指先にも、声のトーンにも、一切の熱がない。
「実は、私のいた会社なんですよ。少し前に退職しましたが」
「あら、そうだったの。それは……大変な職場にいたのですね」
オリヴィアがわずかに目を瞠り、同情するように銀色の瞳を向ける。彼女は裏で法的な包囲網を完全に敷き終わり、あの会社にトドメを刺す準備を整えている。この炎上によって彼らは完全に退路を断たれ、週明けには本格的な法的処置の弾幕が降り注ぐことになる。
「ええ、まあ。色々とありましたから」
直樹はスマートフォンをテーブルに裏返して置き、運ばれてきたコーヒーのカップに手を伸ばした。
「怒りや恨みがないと言えば嘘になります。ですが、それ以上に……今の生活を手放したくない気持ちの方が強いんです。あの会社にこれ以上、私の今の時間や感情を使いたくない。もう、私には関係のない世界ですから」
コーヒーを一口飲み、直樹は心地よさそうに目を細めた。苦味の中に広がる仄かな酸味が、思考をクリアにしてくれる。
「それより、明日の夕飯の献立を考える方が、私にとっては重要なタスクでして」
オリヴィアは、直樹のその横顔をじっと見つめた。
国際的な企業法務の世界で、何十億という金と権力に執着する人間たちばかりを見てきた彼女にとって、直樹のその底知れない平穏と、過去への執着の無さは、どんな鋭い刃よりも強く彼女の心を揺さぶった。彼は本当に、あの地獄のような環境から完全に心を切り離し、今、この瞬間の穏やかな生活だけを大切にしているのだ。
「……そう。あなたらしいですね」
オリヴィアはアイスティーのグラスに添えていた指を離し、ふと、表情を和らげた。
「今日はこの後、ご予定はおありですか?」
「いえ。こむぎの散歩の続きと、夕飯の買い出しくらいですが」
「では、少しだけ私にお付き合いいただけませんか。この前、あなたに教えていただいた首のストレッチ……あれ、もう少し詳しく知りたいのです」
直樹は、オリヴィアの右肩から首のラインへと視線を移した。
「前に拝見した時よりはマシに見えますが、まだ完全じゃありませんね。右の肩甲骨の裏側に、まだ緊張が残っているように見えます」
「……少し見ただけで見抜くなんて、相変わらず鋭いのですね」
「元プロジェクトマネージャーの職業病ですよ。現場の小さな不調を見落とすと、後で取り返しがつかなくなるからな。人間も同じです。小さな強張りを放置していると、やがて大きな故障に繋がる」
直樹の自然な答えに、オリヴィアは小さく吹き出した。
「なら……私のメンテナンスも、あなたの予定に入れていただけるかしら?」
オリヴィアのその言葉は、冗談めかしてはいたが、銀色の瞳の奥には切実な響きが微かに混ざっていた。誰にも弱みを見せず、一人で戦い続けてきた彼女が、ただの「通りすがりの知人」を装いながらも、彼にだけは安らぎを求めている。
直樹は小さく息を吐き、口角を少しだけ上げた。
「……高くつきますよ」
「構いませんわ。私は、払いがいいので」
初夏の柔らかな風が、テラス席を吹き抜けていく。
炎上し、崩壊していくかつての帝国の喧騒とは無縁の場所で、二人の穏やかな休日の時間が静かに流れ始めていた。




