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限界社畜のVR開拓記〜クビになったらVIP客が元職場を滅ぼした〜  作者: 伊達ジン


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第29話 究極のパフェと、甘い特権

 東京・銀座の裏通り。喧騒から完全に切り離されたかのような、看板の出ていない会員制の高級中華料理店。その最奥に位置する重厚な個室は、微かな沈香の香りと、完璧に調整された空調の静かな息遣いだけが満ちていた。壁には見事な水墨画が掛けられ、外界の雨音すら分厚い防音壁に遮られている。


 黒檀の円卓を囲むのは、島田幸子、オリヴィア・リード、そして制服姿の水野亜紀の三人だ。

 世界的IT企業のCEO、外資系トップ法律事務所のパートナー弁護士、そして国家機関の裏で動く天才ホワイトハッカー。本来であれば、年齢も立場も全く異なる彼女たちが、互いに警戒を解いて同じテーブルに着くことなど、この国のいかなる公式行事でもあり得ない。


 亜紀は手元のタブレットの画面を数回フリックし、高速で流れる暗号化された文字列を眺めてから、最後に短く息を吐いて画面の電源を落とした。


「終わったわ」


 亜紀の碧い瞳が、冷たい光を帯びて二人を見据えた。


「連中の隠しサーバーのデータは完全にロックした。ついでに、社長とあの佐々井って男の個人口座にプールされてた裏金は、私が組んだダミーのルーティングを経由して、海外のいくつかの児童養護施設に匿名で全額寄付されるように設定しておいたわ。今頃、自分たちの口座残高がゼロになってるのを見て泡を吹いてるんじゃないかしら」

「ご苦労様」


 オリヴィアが、テーブルに置かれた烏龍茶のグラスを静かに持ち上げた。氷が微かに高い音を立てる。


「私の事務所が手配した資産凍結の仮処分も、先ほど裁判所から正式に執行されました。彼らの会社のメインバンクの口座は完全に止まっています。明日の朝には、不渡りの通知が回るでしょう」

「グローバル・ネットワークスからの契約解除の通知も、すでに内容証明で届いているはずよ」


 幸子が、完璧な姿勢のまま静かに頷いた。


「労働基準監督署への匿名通報と、決定的な証拠データの提供も完了しているわ。彼らがこれ以上、誰かを搾取して生き延びる道は、物理的にも社会的にも完全に塞がれたということね」


 三人の間に、わずかな沈黙が降りた。

 それは強敵を打ち倒した高揚感や達成感というよりも、路上の小石を一つ蹴りのけた後ような、あまりにも淡々とした空気だった。彼女たちにとって、一つの悪徳企業を社会的に抹殺することなど、その気になればいつでもできる事務作業に過ぎない。


 そこに、控えめなノックの音が響き、初老の給仕長がワゴンを押して静かに入室してきた。


「お待たせいたしました。本日の〆の一品、『特製・烏骨鶏の金華スープ麺』でございます」


 三人の前に、小ぶりだが美しい白磁の丼が置かれた。

 立ち上る湯気とともに、暴力的なまでに芳醇な鶏の香りが個室を満たす。澄み切った黄金色のスープは、天井のシャンデリアの光を反射してキラキラと輝いている。その中に、極細のストレート麺が淀みなく美しく折り畳まれて沈んでいた。具材は極細に刻まれた白髪ネギと、薄くスライスされた特製の鶏チャーシューのみ。極限まで引き算された、洗練の極致とも言える一品だった。


「……いただきます」


 亜紀がレンゲを手に取り、澄んだ黄金色のスープをすくって一口飲んだ。

 滋味深い烏骨鶏の強烈な旨味と、金華ハムから取られた上質な塩気が、脳髄を直接揺さぶるように染み渡る。細麺を箸でたぐり上げると、スープをしっかりと纏った麺が、心地よい歯ごたえとともに喉の奥へと滑り落ちていった。鶏チャーシューは口に入れた瞬間にホロリと崩れ、濃厚な肉の甘みがスープの塩気と完璧な調和を見せる。


 一杯数万円は下らない、正真正銘の極上の味だった。

 オリヴィアも、幸子も、無言で箸を進めている。完璧な環境、完璧な食材、完璧な技術。ここには、現実社会の頂点に立つ者だけが味わえる特権が存在していた。


 しかし、丼が半分ほど空になったところで、亜紀がふう、と息を吐いて箸を止めた。


「美味しい。……本当に、美味しいんだけどね」


 亜紀の言葉に、幸子とオリヴィアも静かに箸を置いた。


「ええ。細胞の隅々まで行き渡るような、あの『温かさ』がないわ」


 幸子が、少しだけ寂しそうに目を伏せ、白磁の丼を見つめた。


「あの人の作るご飯を食べ慣れてしまうと、現実のどんな高級料理も、ただ栄養と味覚を刺激するだけのデータのように感じてしまいますね」


 オリヴィアの銀色の瞳が、早くも別の場所を渇望するように虚空をさまよった。


 どれだけ高価な食材を使おうと、計算し尽くされた味付けであろうと、そこには「自分を気遣って作ってくれた」という絶対的な温度が存在しない。


 亜紀がタブレットを鞄に放り込み、勢いよく立ち上がった。


「帰る。お兄ちゃんのところに。こんなところで油を売ってる間に、またエミやモモに美味しいところを持っていかれちゃう」

「同感ね」

「急ぎましょう」


 この国のトップに君臨する彼女たちの意識は、すでに崩壊していく泥舟の会社には一ミリも向いていなかった。彼女たちが今最も優先すべきタスクは、ただ一つ。あの波音が響く島へ帰り、自分たちだけの特別な居場所で、あの男の隣の席を確保することだけだった。


★★★★★★★★★★★


 現実の裏側で起きている会社崩壊の騒動など露知らず。

 杉本直樹は、波の音が静かに響くリゾートのキッチンで、無心にフルーツナイフを動かしていた。


「……よし、これで下準備は完了だ」


 木のまな板の上には、島で採集した色鮮やかな果実が、宝石のように美しく均等なサイズにカットされて並んでいる。

 直樹が現在取り組んでいるのは、完全オリジナルレシピによる『究極の癒やしパフェ』の構築だった。


 直樹はインベントリから、特殊なガラス細工のスキルを持つNPCから手に入れた、背の高い透明なグラスを取り出した。彼は限られたグラスという空間の中に、味覚、食感、温度の変化を絶妙なバランスで層状に積み上げていく。


「まずはベースだな」


 グラスの底に、強い酸味を持つベリーを煮詰めた濃厚なコンフィチュールを敷き詰める。これは最後の一口で口の中をさっぱりとリセットし、甘ったるさを残さないための工夫だ。


「次は食感のアクセント」


 その上に、島で採れた木の実を砕いて香ばしく焼き上げたクランブルを落とす。上の層のクリームの水分を吸ってもサクサクとした食感が損なわれないよう、表面を薄くハチミツでコーティングし、フライパンで軽くローストしてある。


「そして中核の層だ」


 均等にカットした果実を、外側から美しく見えるようにグラスの側面に沿って配置し、その隙間を埋めるように、卵黄とミルクで作った濃厚なカスタードクリームをたっぷりと絞り込む。グラスの側面から見える果実とクリームの境界線が、パフェの視覚的な完成度を決定づける。


 そして最上層。

 直樹が事前に氷の魔法石を利用して作り上げていた、冷たいミルクジェラートを大きなディッシャーですくい、中央に鎮座させる。その周囲を甘さを控えたふんわりとしたホイップクリームで包み込み、最後にミントの葉と、一番形の良い深紅のベリーを頂上に飾った。


「……完璧だ」


 直樹は完成したパフェを目の高さまで持ち上げ、その美しい層の重なりを確認して小さく頷いた。赤、黄、白のコントラストが透明なグラスの中で見事な地層を成している。


「ナオー! 何かいい匂いがするー!」


 背後から、バタバタという足音とともに狐耳を揺らしたエミがキッチンに飛び込んできた。そのすぐ後ろには、大きな羽を畳んだモモと、ワイルドな装備を揺らすベルの姿もある。


「お前ら、鼻がいいな。ちょうど新作の試作ができたところだ」


 直樹が振り返ると、さらにログインゲートの光が連続して瞬き、シルフィ、リヴィ、そしてアリスの三人が同時に姿を現した。


「ナオ、ただいま戻ったわ」

「お兄ちゃん、お腹すいた!」


 現実世界での冷酷な表情を完全に脱ぎ捨てたヒロインたちが、直樹の周りに集まってくる。全員の視線が、直樹の手にある背の高いグラスに釘付けになっていた。


「これは……パフェ、かしら?」


 シルフィが目を丸くする。彼女のような立場の人間が、街角のカフェでパフェを食べる機会など皆無に等しい。


「ああ。それぞれ別の味の層になっている。とりあえずテラスに運ぶから、座ってろ」


 直樹が人数分のパフェをテーブルに並べると、ヒロインたちは宝石を見るような目でグラスを取り囲んだ。


「いただきまーす!」


 一番にスプーンを手にしたエミが、無造作に一番上のジェラートとクリームだけをすくって口に入れようとした。


「待て、エミ」


 直樹が横から手を伸ばし、エミの手首を軽く制した。


「え?」

「パフェってのは、上の層だけ食べるんじゃもったいない。グラスの底までスプーンを真っ直ぐに差し込んで、すべての層を一緒にすくい上げるのが一番美味い食べ方なんだ」


「えー、でもグラスが深くて、うまくすくえないよ」


 エミが自分のスプーンとグラスを見比べて不満げに口を尖らせる。


「貸してみろ」


 直樹はエミの手から長いスプーンを受け取ると、グラスの縁に沿わせて真っ直ぐに底まで差し込み、そのままゆっくりと引き上げた。

 スプーンの上には、ベリーのコンフィチュール、クランブル、カスタード、果肉、そしてジェラートが見事な地層のように乗っている。


「こうやるんだ。……ほら、口開けろ」


 直樹は何も考えず、そのスプーンをエミの口元へ差し出した。

 社畜時代、後輩の作業を手伝う際にキーボードを代わりに叩いてやるのと同じような、ただの「面倒見の良さ」からくる無意識の行動だった。


「あっ……うんっ」


 エミは一瞬ビクッと肩を跳ねさせたが、すぐに顔を真っ赤にして口を開け、直樹の差し出したスプーンの上のパフェをパクッと咥え込んだ。


 瞬間。

 エミの白い狐耳がピンッ!と限界まで立ち上がり、背後の巨大な尻尾がボンッ!と音を立てるほどの勢いで膨れ上がった。


 冷たいジェラートのミルク感、カスタードのコク、クランブルの香ばしいサクサク感。それらをベリーの鮮烈な酸味が一つにまとめ上げ、口の中で爆発的な幸福感となって溶けていく。


「んんん〜〜〜っ!! なにこれっ、美味しい! すごく美味しいっ!」


 エミは両手で頬を押さえ、尻尾をちぎれんばかりに振り回して身悶えした。


 その破壊的な反応と、直樹の「あーん」という甘すぎる行為を見た他のヒロインたちが、黙っているはずがなかった。


「ちょっとナオ! モモもうまくすくえない! モモにもやって!」


 モモが羽をバタバタとさせて直樹の腕に抱きつく。


「わ、私も……その、こういう形状の食器には不慣れなの……」


 オリヴィアが、耳まで真っ赤にしながら自分のスプーンを直樹の方へ押し付けてくる。


「お兄ちゃん! 私、一番下の赤いところ多めで! エミだけずるい、早くあーんして!」


 アリスも負けじと直樹のシャツの裾を引っ張りながら要求した。


「おいおい、お前ら……自分で食べられるだろ」


 直樹が苦笑いしながら一歩後ずさるが、ヒロインたちの包囲網は完璧だった。


「ナオ、早くしてくれないと、私、暴れちゃうわよ」


 ベルまでもが目を輝かせてスプーンを差し出してくる。


「……わかった、わかった。順番にな」


 結局、直樹はため息をつきながらも、一人ひとりのグラスから完璧なバランスでパフェをすくい上げ、彼女たちの口へと運んでやる羽目になった。


 モモの口に運んでやると、彼女は背中の純白の羽をふわっと広げてとろけるような笑顔を浮かべた。リヴィは緊張したように目を閉じながらスプーンを咥え込み、直後に褐色の頬を緩ませてふにゃふにゃと表情を崩す。アリスは小悪魔のように微笑みながら赤い果肉を堪能し、ベルは「最高だぜアミーゴ!」と快活な声を上げた。


 最後に、シルフィが直樹からパフェを受け取る。


「んっ……ふふ、美味しい……」


 シルフィの優雅な微笑みには、現実の重圧など微塵も感じられなかった。


 直樹は、そんな彼女たちの無邪気な顔を見渡しながら、ふと呟いた。


「……まあ、会社もクビになったしな。これからは、こうして毎日お前らの世話を焼く時間もたっぷりあるさ」


 直樹のその呑気な言葉に、パフェを口に含んでいたヒロインたちは一瞬だけ顔を見合わせた。


(――ええ。あの会社はもう、この世のどこにも存在しなくなるのだから)


 彼女たちは心の中で密かに微笑み合いながら、直樹の作ってくれた極上の甘さを、ただ静かに噛み締めていた。

 波の音だけが、この完璧に隔離された、甘く優しい特権的な空間を優しく包み込んでいた。

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