第28話 崩壊する帝国と、冷徹なる制圧
初夏の心地よい風が、開け放たれた窓から吹き込んでいる。薄手のカーテンがふわりと揺れ、フローリングに落ちた四角い陽だまりの形をゆっくりと変えていた。
完璧なアルデンテのパスタと、彩り豊かなサラダで満たされた胃袋が、杉本直樹に心地よい睡魔をもたらしていた。キッチンで手早く洗い物を終え、少し軋む一人掛けのソファに深く腰を下ろすと、直樹は両腕を天井に向けて大きく伸びをした。
首の筋からゴキリと小さな音が鳴る。だが、それはかつてのような凝り固まった鉛を無理やり動かすような痛みではなく、血流が正しく巡っていくような心地よい刺激だった。
月曜日の昼下がり。本来であれば、鳴り止まない内線電話と、顧客からひっきりなしに飛んでくるエラーログの処理に忙殺されているはずの時間帯だ。胃を握りつぶされるようなプレッシャーの中で、泥水のようなインスタントコーヒーを血中に流し込んでいたのが、つい数日前のことだった。
しかし今の直樹の心にあるのは、食後のコーヒーの豊かな香りと、どこまでも平穏な静寂だけだった。肺の奥まで空気を吸い込んでも、あの息苦しい軋みは一切ない。
「きゅうっ」
足元から、自己主張の強い鳴き声がした。
見下ろすと、チワワのこむぎが、短い尻尾をパタパタと忙しなく振りながら見上げている。直樹の昼食中、自分の分のササミと野菜をあっという間に平らげたこむぎは、まだ遊び足りないらしい。直樹と目線が合うと、さらに尻尾の振りが速くなり、前足をソファの縁にかけて小さな体を精一杯伸ばしてきた。
直樹は微笑み、テーブルの上に置いてあった『国産鹿肉の無添加ジャーキー』の袋を手に取った。カサリ、と袋が鳴った瞬間、こむぎの目が限界まで見開かれ、ピンと立った耳がさらに前へと傾く。その全身から溢れ出る期待感に、直樹は思わず声を出して笑った。
「よし、こむぎ。腹ごなしに少し練習してみるか」
直樹はジャーキーのかけらを一つ指先でつまみ、ソファから降りてフローリングの上であぐらをかいた。
こむぎはタタタッと駆け寄り、直樹の膝の前に陣取った。しかしその視線は直樹の顔ではなく、指先につままれたジャーキーに完全に釘付けになっている。鼻先がピクピクと動き、野生味のある肉の香りを堪能しているようだ。
「お座り」
直樹が低く落ち着いた声で命じると、こむぎは反射的にストンとお尻を床につけた。ここまでは完璧だ。我が家に来てからの短い期間で、この動作だけは完全にマスターしている。
「よし。……お手」
直樹が空いている方の手のひらを、こむぎの胸の前に差し出す。
こむぎは、差し出された手のひらと、直樹の顔、そして指先のジャーキーを交互に見つめ、首をコテリと傾げた。そして、とりあえず正解を探るように、ペタンと床に伏せをしてしまった。
「違う、伏せじゃない。お手だ」
直樹が苦笑しながらこむぎの右前足を軽く指でつつき、自分の手のひらに乗せようとする。
するとこむぎは、何を勘違いしたのか、直樹の手のひらの上に自分の小さな顎をちょこんと乗せ、上目遣いで「これでいい?」とばかりに見つめてきた。
「顎乗せじゃないんだが……まあ、可愛いからいいか」
直樹が再び声を出して笑うと、こむぎは正解したと察知したのか、今度は両前足で直樹の手首をがっちりとホールドし、手のひらを小さな舌でペロペロと舐め始めた。くすぐったい感触と、小さな命の温もりが手のひらから伝わってくる。
「こらこら、くすぐったい。お前、お手が絶望的に下手だな」
お手というよりも、ただ甘えているだけの小さな毛玉の頭を優しく撫でながら、直樹はジャーキーをこむぎの口元に運んでやった。サクッと良い音を立ててジャーキーを咀嚼するこむぎの姿を見つめながら、直樹は深い息を吐き出す。
(月曜日の昼下がりに、犬とお手をして笑っていられるなんてな)
つい数日前までの、吐き気と眩暈に耐えながら無機質なコードを叩き続けていた地獄が、まるで遠い前世の出来事のように思えた。今の彼には、この小さな命の面倒を見るという、確かな現実の手触りだけがあった。
★★★★★★★★★★★
その頃。
ダークネス・システムズのオフィスは、完全なパニック状態に陥っていた。
「どけっ! 俺がやる!」
佐々井部長は、青ざめて硬直している若手社員を乱暴に押しのけ、社内サーバーのメインコンソールに強引に割り込んだ。額からは滝のように脂汗が流れ落ち、高級だったはずのネクタイは無残に引き結ばれている。キーボードを叩く指先は、アルコール依存症の患者のように小刻みに震えていた。
先ほど、社長室でオリヴィア・リードから突きつけられた、退職者37名分の集団訴訟と、資産凍結の仮処分命令。
それらを覆す唯一の手段は、彼らが提示してきた「完全な生データ」が、そもそも存在しなかったと強弁することだ。相手がどうやってあの厳重に暗号化されたデータを手に入れたかは分からない。だが、大元の社内サーバーから物理ログごとすべてを消し去ってしまえば、「相手が捏造したデータだ」と言い張る余地が、まだミリ単位で残されているかもしれない。
佐々井は震える指でキーボードを叩き、管理者権限でシステムの中枢にアクセスしようとした。
システム全体を初期化するコマンドを打ち込み、エンターキーを強く叩きつける。
『アクセスが拒否されました。権限がありません』
無機質なシステムメッセージが、モニターの中央に表示された。
「……は?」
佐々井の喉から、間の抜けた声が漏れた。
馬鹿な。自分がこのネットワークの最高管理者だ。自分以上の権限を持つアカウントなど存在しない。
異常な焦燥感に駆られ、パスワードを打ち直して再度コマンドを実行する。
『アクセスが拒否されました。あなたのアカウントは凍結されています』
「な、なんだこれは……! どうなっている!」
佐々井はキーボードを乱暴に叩き、別のルートからの侵入を試みた。しかし、どのディレクトリを開こうとしても、ファイルを一つ削除しようとしても、すべて同じメッセージに弾き返される。
まるで、見えない巨大な壁が、彼とサーバーの間に立ち塞がっているようだった。
「佐々井! まだか! 早くその忌々しいログを消せ!」
背後から、血の気を失った権田社長が怒鳴り声を上げる。その声は普段の威圧感など見る影もなく、ただの恐怖に引きつっていた。
「しゃ、社長、ダメです……! 管理者権限が弾かれます! 誰かに、システム全体を……乗っ取られている……!」
「乗っ取られているだと!? ふざけるな、ここは外部からのアクセスを完全に遮断しているはずだろう!」
権田が佐々井の襟首を掴み上げた、その瞬間だった。
フロア中のすべてのモニターが、一斉に暗転した。
若手社員たちの悲鳴が上がる中、暗転した何十台ものモニターの画面中央に、1本の白いプログレスバーと、冷酷な文字列が浮かび上がった。
★★★★★★★★★★★
警察庁サイバー犯罪対策課・特任顧問専用ルーム。
窓のない薄暗い部屋の中で、水野亜紀――アリスは、6面の巨大なモニターに囲まれて座っていた。
彼女の細い指先が、流れるような滑らかさでキーボードの上を舞っている。カタカタという軽快な打鍵音だけが、静寂の空間に響いていた。
『ダークネス・システムズ・メインサーバー:掌握完了』
『管理者権限の剥奪:完了』
『全ディレクトリの暗号化プロトコル:作動中』
モニターの一つには、現在パニックに陥っているダークネス・システムズの社内ネットワークのトラフィックが、赤い光の波となって表示されていた。右往左往する彼らの足掻きが、データの波形となってすべて可視化されている。
アリスは、傍らに置かれた冷たい紅茶のグラスに口をつける。
「……ふん。こんなザルみたいなセキュリティで、よく今までIT企業を名乗れたわね」
冷ややかな声が、静かな部屋に落ちる。
彼女の特権IDと自作のクラッキングツールを使えば、彼らが構築したファイアウォールなど、障子紙を指で突くよりも容易く貫通できた。
だが、アリスの目的は単なる「証拠保全」ではなかった。
あの島で、直樹の生命維持バイタルが真っ赤に染まっていた光景。彼がすべてを背負わされ、ボロボロになって死にかけていたという事実。
あの男にそんな顔をさせた連中を、ただの労働基準法違反やパワハラ程度で終わらせるつもりは、彼女には毛頭ない。
「……隠しディレクトリ、発見。ローカルネットワークから物理的に切り離されたスタンドアロンのNASね。IPアドレスを偽装してるつもりでしょうけど、ルーティングの癖が素人丸出しよ」
アリスはキーを叩き、強固なロックがかけられた隠し領域へと迷いなく侵入した。
数秒の復号化処理の後、画面に展開されたのは、直樹すら知らされていなかった「本当の闇」だった。
架空の外注企業への発注を装った、数億円規模の経費の私的流用。
下請け企業への意図的な支払い遅延と、不当な減額強要の記録。
そして、それらを隠蔽するための二重帳簿と、数年間にわたる悪質な脱税の痕跡。
「……最低。社長と、この佐々井って男の個人口座に、会社の利益を不正に流し込んでる。お兄ちゃんにはあんなに死ぬ思いで働かせて、残業代も払ってなかったくせに」
アリスの碧い瞳に、氷のような冷酷な光が宿った。
「全部、終わらせてあげる」
アリスは一連の証拠データをすべて一つのパッケージにまとめ、軍事レベルの強固なロックをかけた。ダークネス・システムズ側の人間には、もはや1バイトのデータすら削除することも、閲覧することもできない。
そして彼女は、最後のコマンドを打ち込んだ。
「エンター」
★★★★★★★★★★★
ダークネス・システムズのオフィス。
暗転したモニターを見つめていた佐々井と権田の顔が、絶望に歪んだ。
画面中央の白いプログレスバーが100%に達し、その下に新たなメッセージが表示されたのだ。
『全ディレクトリのロック、および隠しストレージ内の二重帳簿、不正送金記録の抽出を完了しました』
「な、なんだと……!? なぜ、あのサーバーの存在を……!」
権田がその場に崩れ落ちた。それは、直樹を含めた社員には一切知らせず、権田と佐々井の二人だけで運用していた、彼らの「命綱」にして「爆弾」だった。
画面のメッセージは、無慈悲に続く。
『対象ファイル群は、警察庁サイバー犯罪対策課、および国税庁査察部へ自動送信されました』
「あ……あぁ……」
佐々井は、自身の膝から力が抜け、デスクの角にすがりつくようにして座り込んだ。
それは、言い逃れのしようがない完全な破滅を意味していた。
『これ以上のシステムへのアクセスは無意味です。おとなしくお迎えをお待ちください。――Have a nice day.』
最後にその文字列が表示されると、すべてのPCの電源が強制的にシャットダウンされ、オフィスは恐ろしいほどの静寂と暗闇に包まれた。佐々井たちの荒い呼吸音だけが、無人の廃墟のようにフロアに響いていた。
★★★★★★★★★★★
「……ミッション・コンプリート」
アリスはキーボードから手を離し、深く息を吐き出して背もたれに身を預けた。
モニターに映る処理完了のログを見つめながら、彼女の頭に浮かんだのは、昨日の夜、星空の下で直樹が作ってくれた、あの冷たくて甘いフルーツポンチの味だった。
「お兄ちゃんの時間を奪った代償、これくらいじゃ全然足りないけど」
アリスは日傘の柄を撫でるように指先を滑らせ、小さく、だが確かに微笑んだ。
「これでお兄ちゃんを縛るものは、現実の世界にはもう何もないわ」




