第27話 崩壊する帝国と、至福の昼下がり
社長室の重厚なマホガニー製のドアが静かに閉まった。
オリヴィア・リードが静かに突きつけていった分厚い書類の束が、広大なデスクの中央で、まるで時限爆弾のように冷たい存在感を放っている。
恰幅の良い身体を仕立てのいい高級オーダースーツに包んだ社長の権田は、その紙切れを凝視したまま動けなかった。オールバックに撫でつけられた薄くなりかけの頭髪の生え際から、じっとりと脂汗が滲み落ちている。血の気を失った分厚い唇が、酸素を求めるように微かに震えていた。
「……佐々井」
「しゃ、社長、これは何かの間違いです。ハッタリですよ! あんな完全な生データが外部に漏れるはずがありません。我が社のセキュリティは……」
「黙れ!!」
権田がデスクを強く叩き、上にあったクリスタル製のペン立てが床に転がり落ちて鈍い音を立てた。
「退職者37名の集団訴訟。それに資産の仮処分命令だと!? メインバンクの口座が凍結されれば、月末の支払いがショートする。1週間で黒字倒産だぞ!」
あの書類の束には、彼らが社員を精神を病むまで働かせた時間外労働の記録が、1分1秒の狂いもなく記されていた。先週末、佐々井と杉本に命じて改ざんさせたはずのデータが、なぜか完全な状態で相手に渡っているのだ。
佐々井の顔から一気に血の気が引く。
「で、ですから、大元のログさえ消してしまえば、奴らの主張は推測の域を出ません。証拠がなければ裁判は長引きますし、その間に……」
「今すぐやれ!! 地下2階の物理サーバーだ! ネットワークから切り離して、ハードディスクごとフォーマットしろ! 間に合わなければ物理的に破壊しても構わん。一欠片の記録も残すな!!」
二人は社長専用エレベーターに飛び乗った。
地下2階のサーバールームへ向かう数十秒が、永遠のように長く感じられた。狭い密室の中で、佐々井は極度の緊張から呼吸が浅くなり、首を絞めつけるようなネクタイの結び目を乱暴に引き緩めた。
厳重なセキュリティゲートを抜け、冷房が効きすぎたサーバールームに足を踏み入れる。何十台ものサーバーラックに整然と並んだ黒い筐体が、チカチカと緑色のLEDを明滅させながら、無機質な低い排気音を唸らせていた。
佐々井は一番奥のメインコンソールに飛びつき、震える指でキーボードを叩いた。
「杉本だ……あいつが休日の間に、裏口を作ってデータを抜きやがったんだ……!」
「誰でもいい! 早く消せ!」
佐々井は自身の管理者IDとパスワードを打ち込む。
エンターキーを叩く音が、静かな室内に響いた。
『Authentication failed.』
「……え?」
佐々井の動きが止まった。
「どうした! 手を止めるな!」
「弾かれました。パスワードが、違います」
「馬鹿な!」
権田が佐々井の肩を突き飛ばし、社長だけが持つマスターパスワードを入力する。
『Access Denied.』
無機質な赤い文字が、暗い画面に浮かび上がった。
「なぜだ……! ネットワークからは完全に切り離してあるはずだぞ!」
その時だった。
真っ黒だったモニターの画面が、突然真っ白に切り替わった。
そして、コマンドプロンプトのウィンドウが次々と立ち上がり、誰も操作していないキーボードから、猛烈な速度で文字列が打ち込まれていく。
「外部からの侵入……!? 嘘だろ、物理的に遮断されているのに、どこから……!」
佐々井が完全にパニックに陥り、這いつくばるようにしてラックの背面に回り込むと、物理的な接続を絶とうと無我夢中でLANケーブルを引き抜き始めた。
だが、そんなアナログな抵抗を嘲笑うかのように、画面の中央に小さなポップアップウィンドウが表示された。
『The data has been completely secured.』
(データは完全に保護されました)
そして、その文字列の下に、可愛らしい小さな『日傘』のアスキーアートが表示された。
「な、なんだこれは……」
次の瞬間。
室内のすべてのサーバーのアクセスランプが、一斉に赤く点滅を始めた。
ブーッ、ブーッ、というけたたましい警告音が地下室に鳴り響く。
画面に最後のメッセージが表示される。
『System formatting... 0%... 10%... 100%.』
『Goodbye, Darkness.』
サーバーの冷却ファンが一斉に悲鳴のような音を立て、直後、バチンというブレーカーが落ちるような音が連続して響いた。
ラックのランプが一つ、また一つと消えていき、サーバールームは完全な静寂と暗闇に包まれた。
「あ……あぁ……」
佐々井は冷たい床にへたり込み、両手で頭を抱え込んで震えた。
権田もまた、完全に沈黙した黒い鉄の箱を前に、力なくその場にへたり込んだ。
★★★★★★★★★★★
時刻は正午を回ったところ。
アパートの6畳間には、開け放たれた窓から初夏の陽射しと心地よい風が入り込んでいる。風鈴の代わりに吊るした小さなガラスの飾りが、チリンと涼しげな音を立てた。
杉本直樹は、キッチンで鼻歌交じりに包丁を動かしていた。
まな板の上で、小気味良い音がリズミカルに響く。
今日の昼食は、普段の節約志向を捨てて少し奮発した。
午前中、こむぎの散歩がてら少し足を伸ばし、駅前の高級スーパーに立ち寄ってきたのだ。実質的な退職の記念と、これからの平穏な生活への前祝いという名目だった。色鮮やかな野菜のコーナーで、普段なら手に取らないような珍しい野菜を次々とカゴに入れていく。値段のラベルを見ずに食材を選ぶという行為自体が、長年縛られてきた見えない鎖から解き放たれたような、ささやかな解放感を与えてくれた。
シンクには、氷水に放たれた色鮮やかな野菜が浮かんでいる。
フリルレタス、ルッコラ、紫玉ねぎ、黄パプリカ、ミニトマト、トレビス、エンダイブ、水菜、スナップエンドウ、そしてラディッシュ。これでざっと10種類だ。
氷水でシャキッとさせた野菜をザルに上げ、キッチンペーパーで念入りに水気を拭き取る。水っぽさは、ドレッシングの味をぼやけさせる最大の要因だ。
大きなボウルに野菜を移し、ドレッシングを作る。
エキストラバージンオリーブオイルに、少しとろみのある熟成バルサミコ酢を垂らす。そこに海塩と、粗挽きの黒胡椒。あえて事前に混ぜ合わせず、野菜の上から直接回しかけ、トングを使って空気を含ませるようにふんわりと和えていく。
大きめの白い平皿の中央に立体感を出して高く盛り付け、その上から、塊のパルミジャーノ・レッジャーノをゼスターグレーターで削りかける。雪のように細かく削られたチーズが、野菜の緑や赤を薄っすらと覆い、芳醇な香りを立ち昇らせる。
傍らには、イタリア産の生ハム――プロシュート・ディ・パルマをふんわりと添えた。極薄にスライスされたプロシュートは、脂の部分が透き通るような美しいピンク色をしており、指先で触れれば体温で溶け出してしまいそうなほど繊細だ。
メインは、ブロッコリとアンチョビのパスタだ。
直樹はフライパンにたっぷりのオリーブオイルを引き、包丁の腹で潰した青森県産のニンニクと、種を抜いた鷹の爪を入れて弱火にかける。
フライパンを少し傾け、オイルのプールの中でニンニクをじっくりと揚げるようにして香りを移していく。ニンニクがうっすらと色づき、香ばしい匂いが漂い始めたところで、アンチョビのフィレを4枚投入する。
ジュワッという音と共に、強烈な磯の香りと、熟成された旨味がキッチンいっぱいに立ち込めた。直樹は木べらを使って、アンチョビを叩き潰すようにオイルに完全に溶かし込んでいく。これがパスタの味の強靭な骨格になる。
隣のコンロでは、大きな鍋でたっぷりの湯がグラグラと沸騰していた。
海水ほどの塩分濃度にした湯の中に、小房に分けたブロッコリを投入する。
ブロッコリは色鮮やかに茹でるのが一般的だが、このパスタの場合は違う。くたくたになるまで徹底的に茹で切るのが直樹の流儀だ。
数分後。色が少し飛び、箸でつまむと崩れそうなくらいに柔らかくなったブロッコリをすくい上げ、先ほどのアンチョビオイルが待つフライパンへと移す。
パスタの茹で汁をお玉一杯分加え、中火にかける。直樹は木べらでブロッコリを潰しながら、オイル、茹で汁、アンチョビと一体化させ、とろみのある緑色のペースト状のソースに仕上げていった。
ブロッコリの旨味が溶け出た同じ鍋の湯で、今度はパスタを茹でる。
ソースの力強さに負けないよう、少し太めのリングイネを選んだ。
袋の表示時間より1分早く、まだ芯に少し硬さが残るアルデンテの状態で引き上げ、フライパンに投入する。
ここからは時間との勝負だ。
火を強め、手首のスナップを効かせてフライパンをリズミカルに煽る。チャッ、チャッ、と麺が宙を舞い、ソースと絡み合う心地よい音がキッチンに響いた。
オリーブオイルと茹で汁が乳化し、ブロッコリのペーストがリングイネの1本1本にねっとりと絡みついていく。最後に火を止め、仕上げのオリーブオイルをひと回しして香りを立たせた。
温めておいた皿に、トングで高さを出しながら盛り付ける。
見事なツヤをまとった、プロ顔負けの完璧な一皿が完成した。
「よし、できた」
小さなダイニングテーブルに料理を並べる。
足元では、こむぎが『自分の分もあるのか』と期待するように短い尻尾を振りながら見上げていた。
「お前にはこれだ」
味付けなしで茹でた鶏のササミと、ブロッコリの柔らかい芯の部分を細かく刻んだものだ。こむぎの専用の皿に置くと、瞬く間に平らげてしまった。
「いただきます」
直樹は椅子に腰を下ろし、まずはサラダにフォークを伸ばした。
シャキシャキとした多様な野菜の心地よい食感に、バルサミコの芳醇な酸味とパルミジャーノの深いコクが合わさる。そこにプロシュートを一緒に口に運ぶと、熟成された肉の旨味と、舌の上でとろけるような脂の甘みが全体を完璧にまとめ上げた。
「……美味い」
思わず声が漏れる。
続いて、パスタをフォークに巻きつけて口に運ぶ。
アンチョビの強烈な塩気と旨味を、くたくたになったブロッコリの丸みのある甘さが優しく包み込んでいる。ニンニクのパンチが強烈に食欲を刺激し、リングイネのモチモチとした食感が噛むほどに小麦の風味を感じさせた。シンプルな材料だが、それぞれの持ち味が最大限に引き出された、圧倒的なまでに美味い一皿だった。
会社のシステム障害や、佐々井の血走った怒号。深夜のオフィスで泥水をすするようなインスタントコーヒーを流し込み、味のしない栄養ゼリーを機械的に咀嚼していた日々。生かさず殺さず、ただシステムを維持するためだけの歯車として消費されていた時間。
それらはすべて、分厚いガラスの向こう側の、遠い過去のノイズのように感じられた。
食後の片付けを終えると、直樹は戸棚からお気に入りのコーヒー豆を取り出した。
手動のミルでゆっくりとハンドルを回して豆を挽き、ペーパードリップで丁寧にコーヒーを淹れた。
豆がゴリゴリと砕ける音、お湯を注いだときにふっくらとドーム状に膨らむ粉の様子、そして部屋中に広がる深く香ばしい焙煎の香り。その工程の一つ一つが、すり減った神経を癒やしていく。
温かいマグカップを持ち、ソファに深く腰を下ろす。膝の上には、満足して丸くなったこむぎが静かな寝息を立てている。
一口飲むと、クリアな苦味と微かな酸味が、食後の胃をすっきりと洗い流してくれた。
「最高だな」
窓から吹き込む初夏の風に目を細めながら、直樹はただ、手の中にある温かな平穏を深く噛み締めていた。
これからの人生がどうなるかは分からない。だが、少なくとも今は、急いで消化しなければならないタスクも、鳴り響く電話もない。
ただ、手間をかけて自分が作った美味い飯をゆっくりと味わい、膝の上の小さな命の温もりを感じながら、香りの良いコーヒーを飲む。
それ以上の幸せが、今の直樹には必要なかった。




