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限界社畜のVR開拓記〜クビになったらVIP客が元職場を滅ぼした〜  作者: 伊達ジン


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26/50

第26話 終わりの始まりと、完璧な包囲網

 初夏の陽射しが、薄手のカーテン越しに6畳間のフローリングを明るく四角く切り取っていた。


 杉本直樹は、豆から丁寧に挽いて淹れたコーヒーの入ったマグカップを片手に、少しだけ軋む一人掛けのソファに深く腰を下ろした。


 開け放たれた窓からは、湿り気を帯びた心地よい風が吹き込んでくる。時刻は月曜日の午前10時。本来であれば、地獄のような週の始まりとして、鳴り止まない内線電話と、顧客からひっきりなしに飛んでくるエラーログの処理に忙殺されているはずの時間帯だ。胃を握りつぶされるようなプレッシャーの中で、泥水のようなインスタントコーヒーを血中に流し込んでいたのが、つい数日前のことだった。


 しかし今の直樹の心にあるのは、コーヒーの豊かな香りと、どこまでも平穏な静寂だけだった。肺の奥まで空気を吸い込んでも、あの息苦しい軋みは一切ない。


「きゅう」


 足元で小さな鳴き声がした。見下ろすと、チワワのこむぎが、自分の体長の半分ほどもあるロープのおもちゃを咥え、短い尻尾をちぎれんばかりに振りながら見上げていた。


「どうした、こむぎ。遊ぶか」


 直樹がコーヒーをサイドテーブルに置き、空いた手を伸ばすと、こむぎはタタタッとソファの縁に前足をかけた。しかし、直樹の手のひらにおもちゃを渡す直前、こむぎはポロリと口を開け、わざとロープを床に落とした。


 そして、「あ、落ちちゃった」とでも言いたげな丸い目でロープを見つめ、それから直樹の顔をチラリと上目遣いで見上げる。


「……お前なぁ」


 直樹が苦笑して床のロープを拾い上げ、「ほら」と差し出す。こむぎは嬉しそうにそれを咥え、プルプルと首を振って短い引っ張り合いをした後、再びわざと口の力を抜き、ロープを床にポトリと落とした。


 またしても、上目遣いで直樹を見る。拾って、という明確なアピールだった。何度か繰り返すうちに、これがこむぎなりの「構ってほしい」という高度な遊びの要求なのだと直樹も理解し始めていた。


「しょうがないな」


 何度目かのロープを拾い上げながら、直樹の口角は自然と緩んでいた。命の危険を感じるほどの過労状態から抜け出し、こうして小さな命と他愛のないやり取りを繰り返す時間が、今の直樹にとってはどんな特効薬よりも効いた。


 サイドテーブルに裏返して置いてあるスマートフォンの画面が、木製の天板を微かに震わせて音もなく明滅している。通知設定はすべて切り、着信音もバイブレーションもオフにしてある。おそらく佐々井あたりが狂ったように連絡を入れてきているのだろうが、直樹にはもう全く関係のない世界の話だった。


 クビを宣告されたのだ。会社に残してきた私物は、インクの切れたボールペン数本と、茶渋のついたマグカップくらいしかない。


 直樹はスマートフォンの存在を完全に頭から締め出し、こむぎの柔らかいお腹を優しく撫でた。


★★★★★★★★★★★


 同時刻。東京都心の超高層オフィスビル、最上階。


 グローバル・ネットワークス日本支社のCEO室は、外界の喧騒が一切届かない、冷ややかなほどの静寂に包まれていた。


 巨大な一枚ガラスの窓を背にして、島田幸子はマホガニーのデスクに向かっていた。彼女の顔には、一切の感情が浮かんでいない。完璧に仕立てられたハイブランドのスーツを纏うその姿は、VRの島で見せる隙だらけのエルフとは別人の、冷徹な『鉄の女』のそれだった。


「……以上が、ダークネス・システムズ社への対応案となります」


 デスクの前に立つ法務担当役員が、緊張で額に薄っすらと汗を滲ませながら報告を終えた。


 幸子は手元のタブレットに視線を落としたまま、手元の万年筆を軽く指先で回した。


「遅いわ」


 短く、温度のない声だった。


「先週末の段階で契約の『一時凍結』を指示したはずよ。なぜ、未だに完全な『契約破棄』への移行手続きが完了していないの?」

「も、申し訳ありません。現在稼働中のインフラの引き継ぎ期間を考慮すると、即時の全面破棄はこちら側にも多大な違約金と、一時的なシステムリスクが発生する可能性が……」

「違約金?」


 幸子が顔を上げ、冷ややかな視線で役員を射抜いた。


「くれてやりなさい。そんなはした金よりも、コンプライアンスの欠片もなく、一人の社員の命を削ってシステムを維持しているような脆弱な企業に、我々の心臓部をこれ以上一秒でも触らせておくリスクの方が問題よ」

「し、しかし、現在進行中のプロジェクトを途中で……」

「企業としての社会的責任の観点からも、あのようなブラック企業にインフラの根幹を委ねていたという事実自体が、投資家に対する裏切りになるわ。数億円の違約金など、企業価値の毀損リスクに比べれば端金よ」


 幸子の言葉には、一縷の反論すら許さない絶対的な重みがあった。


「即時破棄よ。引継ぎは不要。アクセス権限を今すぐ物理的に遮断しなさい。技術的なフォローバックは社内の特別チームを編成して対応させるわ」

「か、承知いたしました。ただちに対応させます」


 役員が慌てて深く頭を下げ、足早に退室していく。


 重厚な扉が閉まった後、幸子はゆっくりと息を吐き、デスクの上の冷めた紅茶に口をつけた。


「……違約金、ね」


 幸子の唇の端が、ほんの少しだけ吊り上がる。


「彼らがその違約金を振り込まれる口座が、明日の朝まで存在していればの話だけれど」


★★★★★★★★★★★


 ダークネス・システムズのフロアには、酸欠になりそうなほどの熱気と汗の匂いが充満していた。


「どういうことだ!! グローバル・ネットワークスから、一方的な契約破棄の通知だと!?」


 佐々井部長の怒号が、フロア中に響き渡った。彼のネクタイは大きく乱れ、目は充血して血走っている。フロアに並んだ若手社員たちのモニターには、一斉に『Access Denied(アクセス拒否)』や『403 Forbidden』といった赤いエラー表示が羅列されていた。


 社長室からは、青ざめた顔の社長が飛び出してきていた。


「佐々井くん! 君は週末、グローバルのシステムへの移行と監査用のデータ準備を完了させたと言っていたじゃないか! なぜいきなりすべてのアクセス権限を弾かれるんだ!」

「わ、分かりません! 杉本の奴が、何か妙な細工を仕込んでバックれたに決まってます!」

「杉本はどうした! 今すぐ呼び出せ! 損害賠償で訴えてやる!」

「電話に出ないんです! あいつ、完全に飛びやがって……!」


 フロアの若手社員たちは、もはや仕事など手につかず、震えながらそのやり取りを遠巻きに見つめるしかなかった。システムから締め出された以上、彼らにできる業務はもう一つも残されていない。


 その時だった。


 来客用の自動ドアが開き、数名の男女が静かに足を踏み入れた。


 先頭を歩くのは、長身でエキゾチックな美貌を持つ女性。仕立ての良いグレーのタイトスーツを着こなし、その足取りには一切の迷いがない。彼女の後ろには、分厚いファイルケースを抱えた数人の日本人弁護士が付き従っている。


 フロアの異様な空気に、佐々井が苛立たしげに声を荒らげた。


「なんだあんたたちは! ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ!」


 女性――オリヴィア・リードは、佐々井の怒号などそよ風程度にも感じていないかのように、ヒールを鳴らして佐々井と社長の目の前で立ち止まった。


「オリヴィア・リードです。リード&パートナーズ法律事務所より参りました」


 流暢で、ひどく冷たい日本語だった。


 その名前と事務所名に、社長の顔色がさらに一段階青ざめた。国際的な企業法務やM&Aを専門とする、外資系トップの法律事務所だ。なぜそこのパートナー弁護士が、こんな場末のIT企業に直接乗り込んでくるのか。


「べ、弁護士……? グローバル・ネットワークスの代理人か!?」


 社長が震える声で問うと、リヴィは薄く、氷のような笑みを浮かべた。


「いいえ。私は債権者、ならびに貴社によって不当な搾取を受けた元従業員たちの代理人として、通知に参りました」

「元従業員だと……?」


 佐々井が眉をひそめる。


 リヴィは後ろの部下に顎で合図を送った。部下が一歩前に出て、分厚い書類の束をデスクの上に叩きつけるように置いた。


「過去3年間にわたり、貴社を適応障害やうつ病で退職したエンジニア37名による集団訴訟の提起、および損害賠償請求の通知書です」

「さ、37名……!?」


 佐々井が絶句する。


「馬鹿なことを言うな! 退職者とは全員、会社都合ではなく自己都合退職として合意書を交わしている! 今更訴える権利など……」

「その合意書が、極度の長時間労働とパワハラによる心神耗弱状態に乗じた強迫によって結ばれたものであるという証拠があれば、無効です」


 リヴィの言葉は、鋭い刃のように佐々井の反論を切り捨てた。


「証拠だと? あるわけがないだろう!」

「ええ。あなた方が先週末に、システムのログやタイムカードのデータを強引に改ざんした『後』のデータには、残っていないでしょうね」


 リヴィは、氷のように冷たい銀色の瞳で佐々井を見据えた。


「ですが、こちらには改ざんされる『前』の完全な生データが存在します。サーバーの稼働記録、PCのログイン履歴、さらには社内ネットワーク上のすべてのチャットログと音声データまで」


 佐々井の喉がヒュッと鳴った。


 そんな馬鹿な。社内のデータは完全に暗号化され、外部からはアクセスできないはずだ。それを引き抜けるのは、最高権限を持っていた杉本だけだが、彼は週末、死にそうな顔で目の前のタスクを処理していただけだ。


「加えて」


 リヴィは、デスクに置かれたもう一枚の書類を、人差し指で佐々井の方へ滑らせた。


「貴社に対しては、昨日の時点で東京地方裁判所より、債権保全のための資産凍結の仮処分命令が下りています」

「……は?」

「メインバンクの口座、所有不動産、有価証券、さらには取引先からの売掛金に至るまで、すべてが対象です。本日の午後をもって、あなた方は一円の資金も引き出すことはできませんし、給与の支払いも、取引先への入金も不可能です」


 社長が、膝から崩れ落ちてその場にへたり込んだ。


「お、終わりだ……。資金が動かせなければ、今月末の手形が……不渡りに……」

「おっしゃる通りです。会社としては完全に終了ですね」


 リヴィは事実だけを淡々と述べる。法廷において、相手の感情など何の意味も持たない。圧倒的な証拠と法的手続きの前に、彼らはすでにまな板の上の鯉ですらなかった。


「誰が……」


 佐々井が、充血した目でリヴィを睨み上げた。


「誰が、こんな馬鹿げたデータを抜いた! 杉本か! あいつが俺を陥れるために……!」

「彼には関係ありません。彼はただの、善良な被害者の一人に過ぎない」


 リヴィは冷たく言い放った。


「あなた方は、手を出してはいけない領域に足を踏み入れ、最も庇護されるべき人間を食い物にした。その代償を、法と経済のルールに則って支払っていただくだけのことです」

「ふざけるな! こんなもの、ただの嫌がらせじゃないか! 弁護士を雇って徹底的に争ってやる!」


 佐々井が唾を飛ばして叫ぶが、リヴィの表情は欠片も動かなかった。


「どうぞご自由に。ただし、そのための弁護士費用を支払う口座は、すでに凍結されていますが」

「……っ!」


 佐々井が言葉に詰まる。経済的な死。それは、会社という組織にとって物理的な死と同義だった。


「法的な手続きはこちらで粛々と進めさせていただきます。ご自身の身の振り方をお考えになることですね」


 リヴィはそれだけ言い残し、踵を返した。


 オフィスに響く彼女のヒールの音が、死刑宣告の秒針のように佐々井たちの耳に突き刺さる。


 エレベーターホールに向かいながら、リヴィの部下が小声で尋ねた。


「リード先生。これで第一段階は完了ですね」


 リヴィはエレベーターの呼び出しボタンを押し、冷たく微笑んだ。


「ええ。彼らに一息つく暇も与えないわ」

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