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限界社畜のVR開拓記〜クビになったらVIP客が元職場を滅ぼした〜  作者: 伊達ジン


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第25話 終わりの始まりと、陽だまりの邂逅

 夜の帳が降りたプライベートビーチ。静かな波音が、白い砂浜に心地よい一定のリズムを刻んでいる。


 先ほどまでの、直樹の帰還を祝う賑やかな宴の余韻が、夜風の中に微かに溶け残っていた。パラソルの下に並べられた木製のテーブルには、綺麗に平らげられた大皿や、果実水と琥珀色の酒が入ったグラスが散らばっている。


 直樹が石のかまどの前にしゃがみ込み、火箸を使って残った炭火を均していた、その時だった。


 視界の隅に小さく表示させている現実世界の環境モニタリングアイコンが、微かに明滅した。設定しておいたマイクが、一定以上の音量の鳴き声を拾ったサインだ。


「……悪い、こむぎが現実で呼んでるみたいだ。少しだけ様子を見てくる」


 直樹が立ち上がって灰を払いながら言うと、ヒロインたちは思い思いにくつろいだ姿勢のまま、柔らかな笑顔を向けた。


「うんっ、いってらっしゃいナオ!」

「早く戻ってきなさいよ」


 彼女たちの穏やかな声に見送られ、直樹のアバターが淡い光の粒子となって空間に溶け落ちていく。


 彼が完全にログアウトし、その存在の気配がビーチから消失した数秒後。


 波の音だけが響くプライベートビーチの空気が、急激に温度を下げた。つい先ほどまで直樹の料理に舌鼓を打ち、無邪気に笑い合っていた彼女たちの顔から、一切の甘さと温もりが消え失せていた。


 巨大なクッションに身を預けていたリヴィが、手元のグラスをテーブルに置き、氷のような視線を一同に向ける。


「さて、あの害虫企業をどう料理しましょうか?」


 その低く冷徹な声が、会議の開始を告げる合図だった。


 アリスが無言で指先を弾く。空中に複数の半透明なウィンドウが展開され、無機質なデータの羅列が夜の闇に浮かび上がった。彼女は日傘の柄を撫でながら、冷ややかな瞳でスクリーンを見つめる。


「監査と契約凍結で、ダークネス・システムズの資金繰りは完全にショートしたわ。でも、あの社長と佐々井って男……まだ諦めてないみたい。自分たちの保身のために、会社の残存資産をどうにかして隠蔽しようと必死に動き回ってる。見苦しいわね」


 アリスの報告に、エミが自慢の白い尻尾を揺らしながら、底冷えのする声で鼻を鳴らす。


「ふうん。ナオにすべての責任を押し付けておいて、自分たちは安全圏に逃げ込むつもりなのね。虫酸が走るわ。どうせ、ろくでもない悪あがきを考えてるんでしょうけど」

「逃がさないよ。絶対に」


 モモが、手にしたフルーツ水のグラスを見つめたまま、一切の感情を排した声で言った。風にはためく純白の羽とは裏腹に、その言葉には絶対的な権力者としての重みがあった。


「もし彼らが逃げようとしたら、私が直接『お願い』して、彼らの存在そのものを社会から消してあげる。どこへも行かせない」

「ええ」


 ノーラが、豊満な腕を組み、妖艶でありながら極めて危険な笑みを浮かべた。


「彼らがどんな卑劣な手を使ってこようと、私の『ブラック・オニキス』が相手になるわ。自分たちが誰の逆鱗に触れたのか、細胞の隅々まで恐怖を刻み込んであげる」

「武力の出番は、連中が境界線を越えてからよ。まずは私たちが、法的に一切の逃げ場をなくす」


 リヴィが、タブレット端末を操作しながら淡々と引き継ぐ。


「警察上層部への根回しと、法的な大義名分はすでに用意してある。彼らの個人資産はすべて私が合法的に凍結し、ナオへの損害賠償として一滴残らず絞り上げる。自己破産という逃げ道すら与えない」

「ナオの健康被害の立証は私に任せて」


 ベルが、医師としての鋭い眼光を放つ。


「私の名前で、ナオのカルテを『殺人に等しい極度の過労と心身への重大な侵害』として法廷に提出するわ。世界的な医療財団のトップの診断に、異議を挟める裁判所は地球上に存在しない」


 最後に、シルフィ――島田幸子が静かに口を開いた。


「完璧ね。私はすでにメインバンクに圧力をかけ、彼らへの融資を完全にストップさせている。まずは私とリヴィで、経済的にも法的にも、彼らを完全に包囲するわ」


 幸子は立ち上がり、直樹が先ほどまで座っていた空の切り株を見つめた。


「彼らからすべてを奪い、二度と立ち上がれないようにしましょう。ナオの安息を脅かす者は、この世界に一人として残さない」


 夜風が、彼女たちの決意を海へと運んでいく。

 限界社畜を苦しめ続けた企業の命脈は、この静かな夜のビーチで、完全に絶たれることが確定した。


★★★★★★★★★★★


 翌日の昼下がり。


 杉本直樹は、初夏の眩しい陽光が降り注ぐ都内の大規模公園を歩いていた。


 平日火曜日の午後。本来であれば、窓のないオフィスでモニターと睨み合い、鳴り止まない電話と終わらないタスクに胃をすり減らしている時間帯だ。しかし今の直樹は、洗い立ての綿のシャツとチノパンというラフな格好で、こむぎのリードをのんびりと引いている。


 吹き抜ける風が、街路樹の青葉を揺らして心地よい音を立てる。スーツを着る必要がなく、時間に追われることもないという事実だけで、吸い込む空気が驚くほど軽く感じられた。


「きゅうっ!」


 草の匂いを嗅ぎ回り、短い尻尾を忙しなく振るこむぎの歩幅に合わせて、直樹の足取りも自然と緩やかになる。時折、他の犬が残した匂いに興味を示して立ち止まったり、風に舞う枯れ葉を短い足で追いかけようとしたりするその愛らしい姿を眺めているだけで、直樹の口元は自然と緩んでいた。


 公園の奥、木漏れ日が落ちるオープンカフェのテラス席の近くを通りかかった時だった。


「わふっ!」


 こむぎが突然リードを引っ張り、テラス席の隅に座っていた一人の女性の足元に向かって駆け寄った。


「こら、こむぎ。ダメだ」


 直樹が慌ててリードを引き寄せる。


「すみません、うちの犬がご迷惑を……」


 謝罪しながら顔を上げた直樹は、思わず言葉を失いかけた。


 そこに座っていたのは、完璧に仕立てられたネイビーのハイブランドスーツに身を包んだ、息を呑むほど美しい女性だった。整えられた黒髪、知的でエレガントな顔立ち。ノートPCを広げ、氷のすっかり溶けたアイスコーヒーを傍らに置いているその佇まいは、明らかにこののどかな公園の風景から浮いている。


 だが、直樹の目を引いたのは彼女の美しさだけではなかった。


「いえ……構いませんよ。とても元気で、可愛らしい子ですね」


 女性――島田幸子は、ノートPCから視線を外し、こむぎに向かってそっと手を差し伸べた。こむぎは警戒する様子もなく、その手によじ登るようにして鼻先をすりつける。


 幸子の表情は穏やかだったが、直樹の目は彼女が隠し持っている疲労のサインを正確に読み取っていた。


 薄いメイクで隠してはいるが、目の下には疲労の色が沈殿している。タイピングを止めた右手が無意識に首筋を抑える仕草。そして何より、張り詰めた糸のような、慢性的なプレッシャーを抱え込んだ浅い呼吸。


「……失礼ですが」


 直樹はリードを短く持ち直し、静かな声で言った。


「ディスプレイの輝度が高すぎます。この日差しの下でその明るさの設定のまま細かい文字を追い続ければ、眼精疲労から酷い頭痛を引き起こしますよ。それに、右の肩甲骨から首にかけて、かなり張っているはずだ」


 幸子は、弾かれたように顔を上げた。


「え……?」


 周囲の誰も気づかない自分の疲労を、すれ違っただけの犬の飼い主が、一瞥しただけで正確に見抜くなど、あり得ないことだった。


 直樹はこむぎのリードを足元に軽く固定すると、カフェのカウンターへ向かい、店員に何かを頼んでから戻ってきた。彼の手には、お湯(白湯)を入れた紙コップが握られている。


「これを。直接飲むのではなく、首の後ろ、頸動脈のあたりに少しだけ当ててみてください。温めることで副交感神経が優位になり、一時的ですが緊張が解けます」


 直樹の言葉には、有無を言わせぬ静かな説得力があった。


 幸子は戸惑いながらも紙コップを受け取り、言われた通りに首筋に当てた。


「……あ」


 じんわりとした熱が皮膚から血管へと伝わり、強張っていた筋肉が内側からほどけていくのがわかった。無意識に止めていた息が、深い呼気となって唇から漏れる。肩のラインから、スッと余計な力が抜けていった。


「……ありがとう。驚きました。どうして、そこまでわかるんですか」

「長年、ひどい環境で働き続けていたもので。人が限界を迎える前のサインには、少し敏感なんです」


 直樹は自嘲気味に笑い、こむぎを抱き上げた。


「それに……以前、あなたと同じような目をした知人がいまして。すべてを一人で抱え込んで、無理をして……放っておけなかったんです。ついお節介を焼きました」


 幸子の心臓が、大きく跳ねた。


(それは……私のこと)


 VRの世界で、行き倒れていた自分に温かいスープを作り、極上の風呂を用意してくれた彼。現実の世界でも、彼は全く変わらない温度で、自分の体調を気遣ってくれている。


「いいえ。……とても、助かりました。私は、島田と言います」


 幸子は姿勢を正し、CEOとしての顔ではなく、一人の女性としての柔らかい微笑みを向けた。


「杉本です。……では、少し休んでから仕事に戻ってください。失礼します」


 直樹が軽く会釈をして立ち去ろうとする。


「杉本さん」


 幸子は、思わず立ち上がってその広い背中を呼び止めていた。


「また……この公園で、お会いできるかしら」


 直樹は振り返り、少しだけ驚いたような顔をした後、穏やかに目を細めた。


「ええ。これからは、時間はたっぷりありますので。犬の散歩には、いい場所ですからね」


 こむぎが「きゅん」と鳴き、直樹と共に緑の奥へと歩き去っていく。


 幸子は、彼が見えなくなるまでその背中を見つめ続けていた。

 冷え切っていた手首には、彼が渡してくれた紙コップの温もりがまだ確かに残っている。


「……あなたの時間は、私たちが守るわ」


 誰に聞かせるでもなく呟いたその声には、あの夜のビーチで見せた絶対的な権力者としての冷徹さと、彼への深い愛情が入り混じっていた。

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